第一章 五年ぶりの夏(6)
6
「宗にぃ、おかえりー」
夕暮れまで存分に泳いでから店に戻ると、店の厨房から唯奈の声が聞こえてきた。加えて美味しそうな匂いも漂ってくる。
「ただいま──もう夕食の準備をしてたのか。俺も手伝うよ」
少し遊びすぎたかと焦りながら返事をする。
「大丈夫大丈夫。宗にぃは適当な席に座って待ってて。これは明日から出す料理のテストも兼ねてるから」
だが厨房に入る前に制止の声が返ってきて、俺は足を止めた。
「……そういうことなら、分かった」
手持無沙汰になってしまうが、言われた通りに二人掛けの席に座る。
料理のテストだというからには、メニュー表の中から出てくるのだろうと思い、軽食の項目を眺めた。
定番のトースト系とサンドウィッチ、パスタ、あとはこの喫茶店のオススメ料理としてオムライス、ハヤシライスがピックアップされている。いくつか黒塗りで消されているメニューは、唯奈が難しいと判断して削ったものだろう。
──いきなり店を継ぐことになったんだから、これは仕方ない。けどメニュー表は作り直した方がいいな。
メニュー表に黒塗りが目立つと前より劣化した印象が強くなる。デザインも少し野暮ったく感じた。学生の俺でも改善点はいくつも思い付く。
──それにこれは……。
見た目以上に気になったのは、軽食メニューの値段だ。
──やっす。
地方であることを考慮しても、かなり価格が抑えめだ。都内の喫茶店の半分──とまではいかないがそれに近い。
これも叔父さん夫婦の拘りだったのだろうかと考えていると、唯奈が料理を運んできた。
「おまたせー」
テーブルに置かれたのは、オムライスとハヤシライス。メニューにオススメ料理だと書かれていたものだ。
「宗にぃのはハヤシライスだけど、オムライスの方もちょっと食べてみてね。お母さんの味、再現できてるといいんだけど」
そう言いながら唯奈は水の入ったグラスを置き、席に着く。
──軽食はおばさんの担当だったか。
「正直、覚えてるか自信はないぞ?」
五年も経っているのだからと釘を刺しておく。
「分かんなかったらそれでいいって。違和感がないなら再現できてるってことにしとく」
明るく答える唯奈だったが、その表情には不安そうな色も見えた。
──嘘でも再現できてるって言ってあげるか。
俺はそんなことを考えつつスプーンを手に取り、ハヤシライスを口に運んだ。
「あ……」
味が舌から脳に伝わるより先に、香りが過去の記憶を呼び覚ます。
『宗くん、お友達ができてよかったね』
おばさんの優しい笑顔と声が脳裏に蘇る。
健吾たちと初めて遊んだ日、おばさんはそう言って頭を撫でてくれたのだ。
「宗にぃ?」
動きを止めた俺を、唯奈が訝しげに見つめている。
「あの味だ……おばさんのハヤシライスだ」
「本当っ!? やったー!」
喜ぶ唯奈。
「すごいな、完全にそのままだよ」
嘘やお世辞ではなく、本心から俺は告げた。
「れ、レシピ通りだから当然だし! それに前からお母さんとよく一緒に作ってた料理だもん」
謙遜しつつも、嬉しさを隠せぬ様子で唯奈は頬を紅潮させる。
「ほら、オムライスも食べてみて!」
「ん」
俺は頷き、オムライスも一口貰う。
「──こっちも完全再現だな」
覚えていないかと思っていたが、意外と味の記憶はしっかりと残っていた。食べた途端、それだと分かるほどに。
「よっし! これなら自信を持ってお客さんに出せそう!」
ぐっと拳を握った唯奈は、安堵した様子で料理を食べ始めた。
そんな彼女を微笑ましく眺めながら、俺も懐かしい味をじっくりと堪能する。
「宗にぃはさ、前にうちでバイトしたことあったじゃん」
食事中、唯奈が俺に話しかけてきた。
「ああ、中三と高一の時な。その頃、海以外にも色々遊びに行くようになって金が足りなくなったんだ。そしたら叔父さんが店を手伝うなら小遣いやるぞって言ってくれてさ」
さほど人手が必要だったようには見えなかったので、親切心からの提案だったのだろう。
ただし仕事に関して甘い部分はなく、何度も怒られたのを覚えている。
「具体的にどんな仕事をしてたの?」
「えっと──まあ基本的にホール担当というか、オーダーに配膳、レジ、清掃……それと手が空いたら皿洗いって感じかな。あとこれは仕事のうちには入らないけど、店が暇になった時は叔父さんに珈琲の淹れ方を教わってたよ」
記憶を辿りながら俺は答えた。
「そうなんだ……珈琲の淹れ方まで。だったら改めて教えることはほとんどないかも。ホントはあたしが全部やるつもりだったけど……ちゃんと頼ることにしたし、ホールはお任せしてもいい?」
まだ多少の不安があるのか、遠慮がちに唯奈は問いかけてくる。
「もちろん。というかそれ以外の仕事もできそうなものがあれば遠慮なく言ってくれ」
「うん──分かった。じゃあ……もう一つ確認したいことがあるから、後でお願いするね」
妙に真剣な表情を浮かべる唯奈に俺は頷き返す。
「いいけど、今すぐじゃダメなのか?」
「うん、タイミングってものがあるんだよ」
「……タイミング?」
その時は何のことか分からなかったが、唯奈の相談事の内容はすぐに判明した。
食後──俺に席で待っているように言い、しばらくキッチンに籠っていた唯奈は、トレイに珈琲を載せて戻ってきたのだ。
「宗にぃ、珈琲をどうぞ」
緊張した様子で俺の前に珈琲を置く唯奈。
「──いただきます」
どうやら珈琲の味を確かめて欲しいようだと、俺はカップを手に取る。
珈琲からは湯気と共に深みのある香りが漂う。
いい匂いだ……でも──。
一口飲んでみて、予感が正しかったことを知る。
「うん、美味しい。ただ……」
「ただ?」
聞き返す唯奈に、ここは正直に言っておくことにした。
「叔父さんの珈琲とはちょっと違うかも」
「……ち、違う? でもお父さんと同じ淹れ方だよ?」
唯奈は戸惑いを見せ、俺に問い返してくる。
「じゃあ、問題は豆かな。少し古くなったものを使ってないか?」
「あ、うん……勿体ないと思って、ちょっとだけ前のやつを……」
ハッとした顔になって彼女は頷いた。
「そのせいで間違いない。叔父さんは豆の鮮度に拘ってたしな。原因が分かってよかった」
「…………」
前向きに状況を考えようと明るく言うが、唯奈は黙り込んでしまう。
「そんなに落ち込まなくても、次から気を付ければいいことだと思うよ。暗い顔は君に似合わない」
なるべく優しい口調を心掛けて言う。
「……そう、だね。でも宗にぃに言われるまで、あたしは味の違いが分からなかったんだ。料理は上手くできたけど、珈琲は宗にぃの方が向いてるのかも」
「じゃあ俺に任せるかい?」
慰めてもあまり効果はなかったので方針転換。あえて試すように問いかける。
「それは────ううん、あたしがやる。あたしがこの喫茶店のマスターだもん」
「ああ、その通りだ」
意地を見せた唯奈に、俺は頷き返す。
「新しい豆で珈琲を淹れ直してくるから、また飲んでみてくれる? これだけは明日までに確認しておかないと」
「いくらでも飲むよ。あ──そうだ、俺も少しやりたいことがあるんだ。プリンターとパソコンはあるかな?」
メニュー表のことを思い出して問いかけた。
「うん、お父さんの部屋にあるよ」
「それ、使ってもいい?」
「いいけど……ちゃんと使えるかな。あたし、触ったことなくて」
心配そうな唯奈に俺は首を振る。
「とりあえず試してみるよ。使えなかったら使えなかったで構わない」
そうして俺たちは明日に向けて準備を整えるのだった。
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