第一章 五年ぶりの夏(5)


 唯奈は最初、通用口のある喫茶店の裏手へ足を向けようとしたが、思い直した様子で店の入り口へ方向転換した。

「宗にぃ、こっち!」

 準備中クローズドの札が掛かったドアの鍵を開け、彼女は俺を手招く。

 カランコロンと軽やかに鳴るドアベル。

 唯奈に続いて店内へ入ると、懐かしい香りが鼻腔を撫でた。

 ──木と珈琲コーヒーの匂い。

 カウンターの向こうに立つ叔父さんの姿が鮮明に蘇る。

 だけど彼はもういない。暑かったでしょうと飲み物を運んで来てくれるおばさんも。

 奥のテーブル席が並ぶスペースには、よく地元の常連客が居座っていたが、閉店中の今は当然誰もおらず、薄暗い店内は静まり返っていた。

 眺望のいい西側は全面ガラス張りになっており、緩やかな弧を描く水平線が見える。

 綺麗だけど、今はその光景に寂しさを感じた。

「いらっしゃいませ!」

 その時、俺の耳に明るく元気な声が飛びこんでくる。

 見ればいつの間にか唯奈がカウンターの内側に回り込んでいて、俺に笑顔を向けていた。

「……俺は客じゃなくて、一緒に働く側だぞ?」

 苦笑しつつも、俺はカウンター席に座って唯奈と向かい合う。

「お店を開けるのは明日からだし、別にいいじゃん。それに──あたしとしては別に何もしてくれなくても構わないの」

 そう言って彼女は真面目な表情になった。

「何も?」

「うん。お店のことはあたし一人でも何とかなるし、宗にぃはいてくれるだけで十分。ずっと休憩時間ってことにして、海で遊んできても全然オッケー」

 ぐっと親指を立てる彼女だが、その瞳には不安げな色が揺れている。

 恐らく俺に無理をさせ、機嫌を損ねるのが怖いのだろう。この喫茶店を続けていくには、今は俺がいなくてはならないので仕方ないかもしれないが──。

「そんなわけにはいかない。俺も明日からバリバリ働くさ。君の召使いのようにこき使ってくれて構わないよ」

 きっぱりとそう宣言しておく。

「だけど……」

「喫茶店のことだけじゃなく、後見人の恵子さんに保護者代理として唯奈ちゃんのことを任せてもらったんだ。いい加減なことはできない。それに唯奈ちゃんには、俺に気を遣っている余裕なんてないはずだ」

 躊躇う彼女を俺は鋭く見つめ、言葉を続けた。

「恵子さんに出された〝条件〟を忘れたわけじゃないだろう?」

「っ……」

 途端に唯奈の顔が曇る。

「喫茶店を続けるのなら、まずは経営を安定させて、なおかつ学業と両立していける環境を作ること。期限は夏休みの間。この条件を満たせなかった時は、喫茶店を閉めて恵子さんのところで暮らす──」

 彼女に課された厳しい条件を俺は淡々と述べた。

「だ、大丈夫だって! お店のことは大体分かってるし、経理とか難しいことも宗にぃが来るまでにちゃんと勉強したもん! 常連の人だってたくさんいるから何とかなるよ!」

 唯奈ちゃんはカウンターに身を乗り出し、大きな声で言う。

「……そうだね」

 俺は頷き返すが、そう簡単にはいかないだろうと内心では考えていた。

 けれど、手を抜いて意図的に彼女の試みを失敗させるつもりはない。全力で挑まなければ現実の厳しさは理解できないから、俺も今は本気で彼女を支えよう。

「二人で何とかしてみせようか。俺も状況を把握して色々とアイディアを出したいから、あとで帳簿を見せてもらってもいいかな?」

 一人で遊んでいるつもりはないと念を押すと、彼女は諦めた様子で息を吐く。

「──分かった。宗にぃのこともちゃんと頼ることにする。帳簿とか役に立ちそうな資料は夜までには纏めて部屋に持ってくね」

「了解。部屋はいつも使わせてもらってた二階の客間でいいのか?」

 俺は天井を指差す。

「うん。迎えに行く前にクーラー点けといたから涼しいはずだよ」

「そりゃありがたい。気が利くね」

「えへへ。もう中学生なんだから、これぐらいの気づかいはできてトーゼンです」

 嬉しそうに頬を掻く唯奈。

「あ、夕食までは好きにしてていいよ。明日から働いてくれるなら、今日のうちにやりたいことはやっちゃってね。あたしも今から夏休みの宿題を一気に片付けるからさ」

「了解」

 ──そうか、中学生には宿題もあるんだよな。

 この夏、唯奈に遊ぶ時間はあるのだろうかと、俺は早くも彼女のことが心配になっていた。



 カウンター奥の階段から二階に上がり、冷房の効いた涼しい部屋に荷物を置いた俺は、しばらく休憩してから再び廊下に出た。

 じっとしていてもやることがない。時間があるのなら、五年ぶりの町と海を見に行こう。

 ただその前に……。

 俺は床の間へ行き、仏壇で線香をあげて手を合わせる。

 宗派的な事情かは分からないが、位牌には戒名ではなく二人の俗名が刻まれていた。

 たにようと九谷。それが唯奈の両親の名前。

 ──この夏の間、唯奈ちゃんのことは任せてください。

 胸の中でそう呟いてから、俺はそっと廊下に出た。

 そこで微かな音が耳に届く。

 廊下の奥、唯奈の部屋。聞こえてくるのは啜り泣くような抑えた声。

「…………」

 泣いている理由はいくらでも思い当る。

 唯奈は両親を亡くしたばかり。明るく俺を出迎えてくれたことがむしろ異常。

 ここで声を掛けたら、泣き声を聞かれたと唯奈は気付くだろう。俺の前では強がっていたのに、それでは彼女の頑張りを無駄にしてしまう。

 だから足音を殺して一階まで降り、階段の下から大声で呼びかける。

「唯奈ちゃーん、ちょっと散歩してくるよー!」

 数秒の間を置いて、唯奈の声が返ってきた。

「はーい! いってらっしゃーい!」

 泣いていたことなど感じさせない元気な声に背中を押され、俺は厨房にある通用口へ向かう。

 扉を開けた途端に吹き込んでくる潮気を含んだ風。

 先ほど貰ったばかりの合鍵で施錠し、再び眩い太陽の下へ足を踏み出す。

「あっつ……」

 クーラーの効いた部屋にいたので、余計に気温の高さが際立つ。

 ただ海がすぐ近くにあるせいか、不快感はあまりない。むしろ海で泳げば気持ちよさそうだと期待感が膨らむ。

 唯奈ちゃんの泣き声を聞いてから気分が沈んでいるが、彼女が笑顔でいようとしているなら、俺も暗い顔はしていられない。

 海水浴は気分転換にはもってこいだ。

 そういえば俺はこの町に来る度に、早く泳ぎたくてうずうずしていた。

 まずは一泳ぎするのもいいかもしれないと、俺は店の裏手から道路へ出るが──そこで正面入り口の前に人がいることに気付く。

 小麦色の肌をしたショートカットの女の子。

 葬儀で唯奈が来ていたものと同じセーラー服を身に着けている。

 ──唯奈ちゃんの同級生か?

 学校は休みなはずなので、恐らくは部活帰りだろう。彼女は小さめのスポーツバッグを肩に掛け、喫茶店をじっと眺めていた。

 そこで彼女も俺に気付き、目が合う。

 すると妙に焦った様子で彼女は背を向け、走り去っていった。

 ──俺、そんなにガラが悪いかな。

 まるで俺が怖がらせたようにも見えて、気まずい思いを抱く。

 唯奈からはチャラいという評価を得ていたが──やはり染みついた夜の街の気配は滲み出るものなのかもしれない。

 ただ明日からは叔父さんが着ていたマスター用の服を借りるので、多少はマシになるはずだ。というか、そうであってほしい。

 そんなことを考えながら俺は緩やかな坂を下り、海の方へと向かう。

 さほど歩かないうちに海岸線に沿って走る国道へ出た。

 この辺りには民宿などの宿泊施設や商店、魚の加工所などが集まっている。建物の後ろにはクロマツの防風林があり、その向こうが海水浴場になっているのだ。

 夏以外は閑散としているそうだが、今の季節にしか訪れたことのない俺にとっては、町で一番賑わっている場所というイメージが強い。

 俺が信号待ちをしていると、正面のビーチホテルから出てきた男女グループが騒ぎながら海の方へ歩いて行くのが見えた。

 今年の夏もこの〝七登浜〟は盛況らしい。

 ──そういえばこの〝ビーチホテルもも〟って……。

 ふと昔の記憶が蘇った俺は、横断歩道を渡ってからホテルのガラス戸越しにフロントを覗いてみる。

 そこにはアロハシャツを着た俺と同年代の男が座っており、退屈そうに欠伸をしていた。

「…………けん、か?」

 桃井健吾──それはこちらに来る度に遊んでいた友人の名前。

 彼はビーチホテルオーナーの息子で、この辺りの子供のリーダー的な存在だった。

 小学生の時、彼が海で遊んでいた俺に声を掛け、地元の子供たちの輪に入れてくれたのだ。

 それ以来、この町で過ごす時間は何倍にも楽しくなった。中学の時には二人で馬鹿をやってお互いの両親に滅茶苦茶叱られたこともある。

 ──俺のこと覚えてるかな。

 夏だけの関係であったがゆえに、また来年会えるのが当たり前だったからこそ、連絡先などは交換していなかった。だから唯奈と同じく、五年ぶりの再会だ。

 多少の緊張を覚えつつ、俺はドアを開けて年季の入ったビーチホテルの中に入る。

 すると健吾はこちらに視線を向け──。

「あ」

 驚いた表情を浮かべた。

 どうやら一目で分かったらしい。俺の心配は杞憂だったようだ。

「よ」

 ならば昔と同じでいいかと、俺は手を挙げて軽く挨拶をした。

「ちょっ……マジか? 宗助だよな?」

「ああ、久しぶり」

「久しぶりって何年ぶりだよお前!」

 立ちあがってフロントから出てくる健吾。

「五年。けど健吾はあんまり変わってないな」

 まじまじと彼の姿を眺める。

 アロハシャツと短パンは中学頃から変わらぬ彼の夏スタイルだ。背は伸び、顔も少し大人びたが、全体的な印象はほとんど同じ。

「お前も──いや、そっちはわりと変わったか? 良さげな時計もしてるしよ」

 目ざとく俺の腕時計に気付き、彼は俺を観察する。

「かもしれない。唯奈ちゃんにもチャラくなったって言われたし」

 俺は苦笑交じりに肩を竦めた。

「はははっ! けど、唯奈ちゃんか……宗助はやっぱアザレアに居候してんのか?」

「今日からな。夏の間、喫茶店を手伝うことになった」

 俺が頷くと、健吾は複雑そうな表情を浮かべる。

「……葬儀に行った親父から噂は聞いてたが、唯奈ちゃんはホントに喫茶店を続けるんだな。ガチで大変だろうから、ちゃんと力になってやれよ?」

 真面目な口調で言う健吾に、俺はもう一度頷いた。

「もちろんだ。というか健吾も客として売り上げに貢献してくれると助かるんだが」

「分かった分かった。暇な時に家族でお邪魔させてもらうさ」

「……家族?」

 少し引っかかる。自分の両親と、という言い方には聞こえなかったから。

「結婚したんだよ。去年、ガキも生まれた」

「なっ──」

 さすがに驚く。俺と同い年の健吾にもう妻と子がいるという現実がすぐに受け入れられない。

 変わっていないと思った俺の目が節穴だったようだ。

「はははっ! お前驚きすぎ。大学行かずに地元で就職する人間は大体こんなもんさ」

「そんなものなのか……」

 高校を卒業し、就職を切っ掛けに結婚するのであれば、確かに早すぎるわけでもないのだろう。

 東京で色々な経験をして大人になったつもりでいたが──家族を持った健吾を前にすると自分がまだまだ子供に思えてくる。

「そんなもんだ。宗助は茜のこと覚えてるよな?」

 健吾が口にしたのは、ここで一緒に遊んでいた女友達の名前。

 七登浜ではその時に集まったメンバーで遊ぶのが常だったが、その中でも同い年の三人とは特に仲が良かった。うち二人が健吾と茜。

「忘れるわけないだろ。確か、中三の時にはもう付き合ってたよな。じゃあやっぱ茜ちゃんと?」

「そういうこと。宗助が来てるって聞いたら茜も喜ぶぜ。それにだって──」

 笑顔でもう一人の友人の名を口にした健吾だったが、そこで何かを思い出した様子で言葉を切る。

「あ……もしかして──沙夜とは〝あのまま〟か? 何かお前ら喧嘩してたよな」

 その問いかけで五年前の出来事が記憶の底から浮かび上がってきた。

 最近は思い出すこともなかったが、そういえば同い年四人グループ最後の一人、柊沙夜とはある出来事で喧嘩をしたまま仲直りをしていない。

 高校二年生からこの町に来なくなったのは受験勉強のためではあるが、沙夜と会うのが気まずかったという部分も少なからずある。

「まあ……な」

 俺が頷くと、健吾はジト目で俺を睨んだ。

「こっちにしばらくいるなら、その辺りのこともちゃんとしとけよ?」

「…………りょーかい」

 今は唯奈ちゃんと喫茶店のことだけに集中したかったが、そうもいかなそうだと渋々頷いた。

 するとそこでホテルの入り口から客らしき一団が入ってくる。

「──と、仕事に戻らなきゃな。積もる話はまた今度ってことで」

「おう、俺は一泳ぎしてくるよ」

 俺はフロントの内側へ戻る健吾に頷いて踵を返した。

 宿泊客と入れ違いにホテルを出て、防風林の中へ続く小道から砂浜を目指す。

 硬い地面が次第に細かく柔らかな白砂に変わり、行く手から波の音と人々が騒ぐ声が聞こえてきた。

 林の小道を抜けると、眩い世界が目の前に広がる。

 それは五年前と変わらぬ夏の景色。

 青い空と海、白い砂浜に並ぶパラソルやビニールシート。

 海水浴客の水着の鮮やかさも相まって、色とりどりな光景だ。

 ──夏は、こういうものだったよな。

 東京でのことや唯奈ちゃんのこと、頭の中でモヤモヤしたまま蟠る感情を吹き飛ばすため、今は思いっきり体を動かしたかった。

 賑わう海の家で水着を買い、更衣室で手早く着替え、裸足で熱い砂浜を踏む。

 砂浜は家族や友人、恋人などのグループばかりで少し肩身が狭いけれど、海に出てしまえばそんなことは気にならないだろう。

 波打ち際で浴びた海水は思っていたよりも生温かく感じた。

 そのまま足がつかなくなる場所まで歩き、泳ぎ出す。

 波でうねる海面を両腕で掻き分け、バタ足で前へ。息継ぎをすると波しぶきが口に入って塩辛い。

 思ったよりも体が重かった。不摂生な生活をしていたせいだろう。

 だが俺はスピードを落とさずに泳ぎ続ける。

 遊泳可能な範囲を示すブイとネットに突き当たったら、進路を変更。浮かぶブイに沿って泳ぎ、適度なところで折り返す。

 泳げば泳ぐほど、疲れと酸欠で頭の中は空っぽになっていく。

 気持ちがいい。このままずっと泳いでいたい。でも……。

 ──そろそろ限界か。

 息継ぎも苦しくなってきたところで、俺は泳ぐのを止めて呼吸を整える。

 そしてブイを繋ぐワイヤーを片手で掴み、仰向けで体を浮かべた。

 視界いっぱいに広がる青空と、疎らに浮かぶ白い雲。

 遠くなった砂浜の喧噪に耳を傾けながら、ぼーっと空を見上げる。

 頭の中はまだほとんど空白で、何も考えられない。けれどそれが心地よくて、俺はただ波に体を預けた。

 それからしばらく雲の動きを目で追っていると、一羽のかもめが空を横切っていく。

 その時──右足が突然引っ張られて俺は海中に引き摺り込まれた。

「なっ──ごぼっ!?」

 完全な不意打ち。

 水を飲まなかったのは恐らく経験の賜物。子供の頃からやんちゃな友人たちと海で遊んでいたからこそ、驚きはしてもパニックになることは避けられた。

 透明度の高い海水の中で、俺の足を引っ張ったものの正体を見極めようとする。

 ゴーグルをつけていないので視界はぼやけてしまっているが、それは間違いなく人間のシルエット。さらに言えば黒い水着をつけた女性。

「────」

 彼女は水中で俺に顔を近づけ、何か喋りかけるように口を動かした後、俺の足を放した。

「っ……ぷはっ! はぁっ──」

 すぐさま俺は水面に顔を出し、大きく息を吸いこむ。

 そんな俺の傍に先ほどの女性が顔を出した。

「……危ないだろ! 殺す気か!」

 命の危機を感じた反動で、感情的に怒鳴りつける。

「これぐらいじゃ死なないでしょ、あんたは」

 けれど女性は悪びれた様子もなく、平然と答えた。

 ──この声……。

 長い髪が顔に掛かっていて表情が見えないが、声と言い回しでそれが誰か理解する。

「もしかして、沙夜……か?」

 それは先ほど健吾との会話にも出てきた女友達の名前。

「そーよ。久しぶり」

 彼女──柊沙夜は髪を手で掻き上げ、物言いたげな顔で俺を見つめた。

「ひ、久しぶり」

 喧嘩したまま五年も会わなかった友人にどんな顔をすればいいか分からず、俺はぎこちなく言葉を返す。

 沙夜は昔からロングヘアーだったが、海にたゆたう黒髪は記憶よりもさらに長い。ただ怒っていると子供っぽい印象になる顔立ちや、水中にあっても目を引く大きな胸は、五年前と同じ。

「健吾から連絡が来て、すっとんで来たのよ」

「へえ……」

「へえって何よ。他に何か言うことないわけ?」

 強い口調で問われて、俺は何とか言葉を紡ぐ。

「……大人っぽくなったね。綺麗になった君にまた会えて嬉しいよ」

 追い詰められた俺の口から出たのは、ホスト仕事で染みついた半ば自動的な褒め台詞。

「はぁ? 何それ。五年前と大して変わってないでしょ。テキトーな言葉で誤魔化さないで」

 だが沙夜には上っ面な言葉など通用しない。

 不機嫌な顔でさらに詰め寄られ、冷や汗が額に滲む。

「えっと……あー……その、よく俺を見つけられたな」

 まずは普通に会話をするべきかと思い直し、思ったことをそのまま言う。

「砂浜にいなかったから、何となくこの辺りかなって。泳ぎ疲れた時、宗助はいつもこうやって休憩してたでしょ」

「──そうだったかもな」

 言われてみるとそんな気もする。

「全く……お店の手伝い放り出して来ちゃったし、戻ったら大目玉ね」

 後悔するように肩を落とす沙夜。どうやら本当に急いでここへ来てくれたらしい。

「そんなに俺に会いたかったのかい? 沙夜にも可愛いところが──」

「あ?」

 またもやホストっぽい台詞を口走ってしまった俺を、沙夜は半眼で睨みつける。

「冗談だ」

 俺は真顔になって発言を訂正した。

 五年前から沙夜とは喧嘩中。健吾とは違い、今の距離感が掴めない。

「まあでも、間違っちゃいないわよ。私は──一分一秒でも早く、あんたに言ってやりたいことがあったから」

 さらに視線を鋭くし、彼女は言葉を続ける。

「今さら、今になって突然来るんじゃないわよ……馬鹿」

 その声は少し震えていた。

 分かっている。沙夜に合わせる顔がないことは。ただ──。

「それは、色々と事情があって……」

「健吾から聞いた。唯奈ちゃんの喫茶店を手伝うんでしょ」

「ああ」

 俺が頷くと彼女は大きく溜息を吐く。

「結局──今回も唯奈ちゃん、か」

 その言葉は俺の胸にグサリと突き刺さった。

 彼女が五年前のことを言っているのがすぐに理解できたから。だから……何も言えない。

「でも勘違いしないで。別に怒ってるわけじゃないわ。もう私も大人だし、あれが八つ当たりだって分かってる。私、本当に子供だった」

「沙夜……」

 どう答えていいか迷う俺に彼女は笑いかける。

「喫茶店、そのうち顔を出すわ。とりあえず言いたいことは言えたし、また今度……改めてね」

 彼女もどこか気まずそうな様子で俺から距離を取ると、身を翻して砂浜へと泳いでいった。

 遠ざかる波しぶきを身ながら思い出す。

 五年前、浴衣姿で泣きながら怒鳴り散らしていた彼女の姿を。

 喧嘩の理由は、俺が沙夜と約束していた夏祭りをすっぽかしたから。理由は当然あったのだが、悪いのは俺で間違いない。

「……謝り損ねたな」

 声が届かない距離になって、謝罪のタイミングを逸したことに気付く。

 だが本当に喫茶店へ顔を出してくれるのなら、チャンスはまたあるはずだ。

 ずっと止まっていた時間が動き出したかのような感覚を味わいながら、俺は再び仰向けに浮かんで青空を仰いだ。

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