拓跋珪3  即位

386年に入ると、拓跋珪たくばつけいだい王を名乗り、登国とうこくと改元。牛川ぎゅうせんにて即位を天に報告した。


このとき、臣下は以下の通りである。

長孫嵩ちょうそんすうを南部大人、叔孫普洛しゅくそんふらくを北部大人に。また資治通鑑しじつがんに拠れば張袞ちょうえんを左長史に、許謙きょけんを右司馬に、王建おうけん和跋わばつ叔孫建しゅくそんけん庾岳ゆがくらを外朝大人に、奚牧けいぼくを治民長に任じ、彼らに宿直まわりの管理をさせたり、作戦会議に参列させた。また長孫道生しゅくそんどうせい賀毗がひらを拓跋珪のそばにつけ、詔勅、指令を発布させたという。なお王建は拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけんの娘を娶っており、庾岳は庾和辰ゆわしんの弟、長孫道生は長孫嵩の甥だ。


二月、定襄ていじょう盛樂せいらくに出向き、兵らを休め、農業を奨励した。


三月、劉顕りゅうけん善無ぜんぶから南下、馬邑ばゆうに逃れた。一門の劉奴真りゅうどしんが部民を率い拓跋珪に降伏を願い出てきた。


四月、代王から王に改称した。


五月、東方の陵石りょうせきに巡察に出た。護佛侯ごふつこう部の侯辰こうしん乙弗おつふつ部の代題だいだいが反旗を翻し、逃走した。諸將は追って捕らえるべきだと進言したのだが、拓跋珪は言う。


「奴らは代々拓跋を支えてきた。ここで些細な過ちを犯したとは言え、しばし様子を見ようではないか。いま、国建立の大事業が始まったばかり。人心もひとところに集まってはいない。ものの道理も見通せぬ者はいつまでもグズグズとしておろう。あえて追うにも足りぬ」




登國元年春正月戊申,帝即代王位,郊天,建元,大會於牛川。復以長孫嵩為南部大人,以叔孫普洛為北部大人。班爵叙勳,各有差。二月,幸定襄之盛樂。息眾課農。三月,劉顯自善無南走馬邑,其族奴真率所部來降。夏四月,改稱魏王。五月,車駕東幸陵石。護佛侯部帥侯辰、乙弗部帥代題叛走。諸將追之,帝曰:「侯辰等世修職役,雖有小愆,宜且忍之。當今草創,人情未一,愚近者固應趑趄,不足追也。」


(魏書2-3_政事)




どの部民にも協力者がいて、敵対者がいる。「強いものに従う」のが道理なら、従うべきって力学と殺してしまうべきって力学のどっちもが生じるのは、まぁ自明のことなのかもしれません。

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