第2話 ぼくはマタニティビクスで、ちょっとブルー

「早紀、先日の五ヶ月健診なんだけど」

「そう言えばどうだった? ごめんね送っていけなくて」

「いや、しょうがないよ。僕の仕事上の都合なんだから。特に異常なしだった。順調だよ。だけどまだ男の子か女の子か分からなかった」


「そろそろ分かる時期だよね」

「あとちょっとなんだって」翔は残念そうに言う。

「そっか。でも私は生まれるまで聞きたくない派だな。翔は?」


「僕は聞きたい派。だって名前考えないといけないじゃん。生まれてすぐ決めるよりもじっくり決めた方が良くない? 姓名判断とかもしてさ」

「そういえばそうだよね。でも事前に分かっちゃうと生まれた時の感動が少ないよ」


「早紀が嫌なら聞かないでおくけど……」

「う~ん。でも今回は産むのは翔だからね。翔が決めて」

「聞いちゃってもいいかな?」翔は少し申し訳なさそうな感じだ。

「いいよ」


「そうだ……鷺沼医師が自然分娩出来るかもって言ってた」

「本当! よかったね翔。あなたが食事とか色々考えてくれたからだよ。本当にありがとう」早紀も嬉しいみたいだ。


「これで君の身体に傷を付けずにすみそうだ。それでね、さっきの電話なんだけど、担当の助産師さんから。加藤さんって言うんだ」

「ふうん」

「自然分娩では体力がいるから、一緒にマタニティビクスしようって誘ってくれた。彼女も妊婦なんだよ」


「いいじゃん。でも翔、マタニティビクスって結構激しいよ。大丈夫なの?」

「うん。加藤さんてPSASイクイク病の患者を担当した事があるんだって。だから配慮してもらえる」

「そっか。それなら心配いらないね」


「早紀、出来れば明日車で鷺沼医院まで送ってってくれない? もう電車はなるべく避けたいから」

「いいよ。私も加藤さんに会いたいし」


「そうだね。よろしく頼むよ」

 美波が通っているマタニティビクスのスタジオは、鷺沼医院の入っているビルの最上階にあった。


 翔は早紀に車で送ってもらうと、美波は既に来ていた。

「こんにちは。加藤さん」翔は美波に挨拶した。

「こんにちは」

「紹介します。主人の翔です」


「翔と言います。妻がお世話になります。今後は僕もなるべくつきそいますので、よろしくお願いします」早紀は、もうすっかり男言葉に慣れていた。

「じゃあ、終わったらまた電話する」

「了解。がんばってね」そう言うと、早紀はいったん自宅へ戻って行った。


 翔と美波はスタジオのロッカールームに入った。

「今はプライベートだから敬語やめない?」美波はちょっとくだけた口調で言った。

「分かった。加藤さんはマタニティビクスは生まれるまで続けるつもりなの?」


「うん。そのつもり。私はみんなからカトミナって呼ばれてるの。あなたもそう呼んでくれると嬉しいな」

「いいニックネームね。タレントみたい」



 マタニティビクスとは、エアロビクスを妊婦でも出来るようにアレンジしたエクササイズの事である。


「早紀さんは今まで運動してた事は?」

「中学2年までは卓球をやってたけど、それ以後は何もしてない」


 マタニティビクスはまずメディカルチェックを行う。看護師か助産師によって血圧や体重測定、赤ちゃんの心音等をチェックするのだ。アレンジしているとはいえ、かなり激しい運動である。赤ちゃんに、もしもの事があってはいけない。


 妊娠中は身体の変化が起こりやすく、必ず毎回メディカルチェックを行って、運動しても大丈夫かどうか確認するのだ。


 翔(早紀)のように持病があればなおさらである。

 電車よりはずっとましだが、やはり車でもPSASの症状を完全に抑える事は出来なかった。翔は連続した絶頂オーガズムで既にかなり疲労している。


「ちょっと心拍数が高いかな。今日は見学だけにしようか?」

「そうだね」

 PSASに詳しい美波には何度も達した事を知られたと思い、激しい羞恥に顔を赤らめる翔。残念ながらメディカルチェックに引っ掛かってしまったようだ。


 やむを得ず見学する事に。まずはウォーミングアップ。ストレッチで筋肉を伸ばし、身体を温める。軽いステップを行う場合も。


 メインのエアロビックパートに入ると、音楽に合わせてステップ、全身運動をする。


 これが終わると、再びマットの上でストレッチをする。

 最後にクールダウン。時間を取って気持ちを落ち着かせていく。


「どう? 見学してみた感想は」

「やっぱり思ったより激しいね。すぐには無理かなあ」

「そしたらヨガと、他のリラクゼーションもやってみよっか」


 ヨガとは、呼吸とポーズ、瞑想を合わせ行う事で身体を整え強化し、心身の安定をはかるエクササイズである。


「他にもリラクゼーションの方法は色々あるの?」翔は好奇心いっぱいの目で美波を見ながら言った。

「瞑想とか、アロマとかね」


 瞑想とは、目を閉じて深く静かに思いをめぐらす事だ。

「そんな事したって意味あるのだろうか?」

「宗教的なものでは?」

 そういう疑問をいだく人も多い。

 

 美波が実践していたのは、マインドフルネス瞑想と呼ばれるものであった。これは 「今に集中して、今の自分を受け入れる」という瞑想である。この瞑想には宗教的要素は少ない。


 椅子や床に座って肩の力を抜いてリラックスし、自然なペースで呼吸し、呼吸に意識を向けていく。


 多くの有名人も実践している。クリントン元大統領やビルゲイツ、レディガガ、日本人だと稲盛和夫やイチロー等だ。


「信じられないかもしれないけど、瞑想を始めてからシンクロニシティっていうのかな、必要な時に必要な人に出会ったり、起こって欲しい事が起こったりするようになったの」

「信じるよ。カトミナ。私も試してみる」


 アロマとはアロマセラピーの事。エッセンシャルオイルの芳香や植物由来の芳香を使い、病気の治療や心身の健康・リラクゼーション、ストレスの解消等を目的とする療法である。


 美波の粋な計らいで、目に見えてPSASの症状は軽くなった。軽くなればなる程精神的にもより落ちつくというポジティブスパイラルに入り、マタニティビクスにも参加出来るようになるまで体力が回復した。


「前に私が担当した妊婦さんが緊急帝王切開になってしまった事がとても残念だったから、あなたにはぜひ自然分娩して欲しくて色々調べたの。絶対私が取り上げるからね」

「カトミナ……」

 翔は美波の配慮がとても嬉しかった。


「私の考え方はすごく偏っているかもしれないけど、やっぱり自然分娩へのこだわりがかなり強いんだ。上の子もそうだったし、この子も下から産みたいと思ってる」

 今美波のおなかにいる子は二人目なのだ。

「やっぱりそうだよね」


「よく言われてる『自然分娩の方が子どもへの愛情が強くなる』というのは、実際に医学的にもそういう研究論文もある事なの」

「へー」


「自然分娩でも帝王切開でも子どもはかわいい、誰だって自分の子どもに愛情はわくはずっていう考え方はちょっと危険かもしれない」

「どうして?」


「帝王切開で分娩した人が『なぜ自分の子どもを愛せないんだろう』と悩んでいるとするじゃない。そんな時に『帝王切開か自然分娩かは関係ない、みんな子どもはかわいい』なんて言われたら追い詰められるんじゃないかな」

「そういう考え方もあるんだ!」


「自然分娩で産まれた人には『だからあなたはこんなに愛されている』と言えるでしょ」

「そっか」


「帝王切開で生まれた人には『お母さんは愛情が注げるように頑張ってくれた』と言える」

「う~ん。深いんだね」


「だからさ、分娩の方法で異なる『愛し方・愛され方』があるって事なの。そういう事を理解した上で、対応出来るようにしてあげた方がいいと思ってる」

「カトミナ、あなたは本当に素晴らしい助産師だね。あなたに担当してもらえる事がとても嬉しいよ」

「そんな……ありがとう。私も嬉しい」


 美波は少し照れつつも、毅然とした口調で続けた。

「でも誤解しないで。私は決して帝王切開を否定するとか、良くない事だなんて思っている訳じゃないの」

「分かってるよ」


「なげかわしいのがさ、『陣痛の痛みを味あわない帝王切開は楽でいい』とか、『帝王切開は甘え』みたいな考え方。考えるだけなら本人の勝手だけど、実際に息子のお嫁さんに口に出して言うって最低。年配の人にたまにそういう人がいるけど」


「友達とかで聞いた事ある」翔は早紀の友人、美香の話を思い出していた。美香は帝王切開で出産していたのだ。しゅうとめからかなりひどい嫌みを言われたらしい。


「第一、帝王切開が楽だなんて事実誤認も甚だしいよ。術後の2~3日間は地獄の痛みなの。曲がりなりにもお腹をバッサリ切るんだから」

「だよね~」


「それに、帝王切開したくてする人なんて一人もいない。好きで選んだ訳じゃないの」

「そうそう。私も前は体が衰弱してたから仕方がないと思ってた」


「もし本当に楽に産めるのなら、帝王切開は誰でも選べる出産方式になるはずでしょ。でもそうじゃないから。医師が判断して初めて帝王切開になるの」

「うんうん」


「赤ちゃんの頭と骨盤の大きさってすごく微妙だから、ほんのわずかな大きさの違いで自然分娩出来たり出来なかったりするの。逆子になるかどうかも原因はわかっていないし、逆子を直す事だって医師でも難しい。他にも色んな異常があるけど、どれも偶然に左右される」


 翔は、男性出産の小説を執筆するために色々な調査をしていた。以前テレビで見たホルモンの問題の他に、男の骨盤では小さすぎて自然分娩は不可能に近いという事が分かった。本当に出産というのは大変な事だと再確認した。


「私ね……実は産婦人科医になりたかったの」美波は少し寂しそうな表情を浮かべて言った。

「そうなの?」


「でも結局医学部への進学は出来なかった。だから今でも医師へのコンプレックスが凄くある。帝王切開は私から仕事を取るような存在でもあるんだ」

 助産師は医療行為はする事が出来ない。自然分娩でなければ取り扱えないのだ。


「もし私が医師だったら、必要ならば帝王切開も会陰切開もすると思う。でも私は助産師だから。自然分娩“命”だし、出来れば会陰切開だってしなくてすむように、会陰保護術に磨きをかけたんだ」


 翔もやはり会陰切開は出来ればして欲しくなかった。でも、しないと赤ちゃんの頭が大きすぎる時にアソコが派手に裂けてしまうらしい。これが会陰裂傷だ。助産師はなるべく会陰裂傷が少なくなるような技術を色々持っている。


「組織はゆっくり広がると損傷が少なくて、急に広がると大きく裂けるの。だから赤ちゃんの頭が出る時に、なるべくゆっくり通る事が重要なの」

 助産師は、赤ちゃんの頭が見えて会陰が伸ばされた時に手で押さえて裂けないようにしたり、頭の一番大きい所が通る時に「もういきまないで」と声がけをする。会陰裂傷を小さくするためだ。


「でもね……今までの事はどれも私が自然分娩にこだわる理由としてはそんなに大きい事じゃないの」

「もっと大きい事があるの?」


 すると、美波は目をキラキラさせながら言った。

「出産はね、女が最もキレイになれる、最も魅力的になれる時なんだよ」


◇◇◇◇◇◇



 読んでいただきありがとうございました。


 次の第3話は、カトミナの驚くべき秘密の一端が明らかに。いったい何なのでしょうか? お楽しみに!

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