世界を救った勇者、今は日雇い労働者

蒼井華音

プロローグ

プロローグ 不屈の勇者

 生温い風が、痛む身体を撫でる。


 見下ろす身体は大部分が血の赤に染まり、こうしてよろめきながらも立っていること自体が奇跡にも思える。

 膝は震え、視界も霞む。心なしか、音も遠く感じる。


 それでもきつく細めたこの目が見据える先には、悠然と佇む一人の男の姿があった。


「勇敢なる者よ。何故、貴様はそれほどまでして歯向かってくるのだ?」


 額に双角を戴いた男は、背丈ほどもある大剣を地面に突き刺し、問いかけた。


「誰も理不尽に死なない世界にしたい、ただそれだけだ」


 男は鼻で笑う。


「そんなもの、夢物語に過ぎん。我がこの世界へ侵攻せずとも、おのずと人の子同士で争いあっていたであろうよ」

「それでも、俺は諦めるつもりはない。誰もが安心して暮らせる、平和な世界が来るまでは」


 両者、視線をぶつけ合ったまま黙り込む。自分の荒い呼吸だけが響く。


 全身が痛い。意識も遠い。

 気を抜けば、今にも意識が闇に飲み込まれてしまいそうだ。

 肩を激しく上下させ、無理やり急く呼吸を抑えつける。


(正真正銘、次が最後の一撃……)


 地面に転がった白銀の剣を拾い上げ、それを杖のように地面に突き立てる。

 男はそれでも、すべてを達観したような目でこちらを見据えるばかり。ただ佇むその姿からは、攻撃の意思は感じられない。


「……そろそろ、決着をつけようか」


 ひび割れた声を渇いた喉から絞り出し、地面に立てた剣を抜き放つ。

 呼応するように男は突き刺した大剣をゆったりと引き抜き、切っ先をこちらに向けて構えた。


 一瞬の静寂。そして、一陣の風が吹き抜けた。


「「――――ッ!!」」


 弾かれたように駆け出す二人。


 こちらは剣に輝きを纏わせ、男は闇を纏わせる。

 同時に突き出される光と闇の一撃に視界が埋め尽くされ、衝撃に足が止まる。


 ――ここで立ち止まってはいけない。本能がそう叫ぶ、


 これまで幾度となく、同じように剣を交えてきた。だが、この瞬間、初めてもう一歩を踏み出した。


「かは……ッ!?」


 腹に熱が生まれ、口から血の塊を吐き出す。

 腹に突き立つのは、男の突き出した闇の大剣。それを見届けたと同時、糸の切れた人形のように力なくうつむいた。


「これで、百度目の勝利か……」


 男はつぶやき、腹の中心に突き立てた大剣を引き抜かんと力を籠める。


 眉をひそめる。何度か力を籠めるも、その剣は自分の身体から離れようとしなかった。


「き、貴様……っ!?」


 男が目を見開いたそのとき、こちらも睨み返し血にまみれた口角を上げる。


 これが最後の好機――。


 飛び退く男に合わせて、さらに一歩深く踏み込む。

 狙うのは、男の心臓。ただ、その一点のみ。


「……アァァァァァ――ッ!!」


 獣にも似た咆哮とともに、突き出される輝く一閃。

 その一撃は何者に阻まれることもなく、吸い込まれるように男の胸に刺し込まれていった。


「ぐ、ぐふ……っ!」


 男が黒い血を吐き、たたらを踏む。


「……これで、終わりだ」


 自分の口から吐き出された悲しげな声に、自分でも驚く。


「何が終わりなものか」


 男は吐き捨てた。


「何も、何も終わらんさ。何も……っ!」


 口の端を吊り上げ、男は心臓に突き立った剣を力任せに引き抜く。

 そのまま天を仰ぎ、高笑いとともに最後の言葉を吐き出した。


「人間どもよ。我がまた目を覚ますその時まで、貴様らは束の間の平穏を楽しむがいいッ!」


 足元から徐々に塵のように消えてゆく男を、ただきつく睨み続ける。

 男は消えながらも、最後までこの荒れ果てた戦場に高笑いだけを残していった。

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