竜の背中に乗せるモノ

水越ユタカ

第1話 羽化、旅立ち①

 ―― 竜には性別がないんだって。

 自身の顔ほども大きな鱗を手にしながら、彼は言った。

 ―― 性別なら僕らにだってないじゃない。

 ―― 子どもの時だけじゃなくて、死ぬまでずっと。

 ―― ずっと?

 聞き返すと彼は頷いた。

 彼の持っている鱗は、逆鱗ではない。

 ―― じゃあ、なんで……

 その時だった。大人の怒声が響き渡る。

 おまえたち、なにしてるんだ、そんなとこで。

 ふたりはあわてて逃げ出した。





 竜を、育てているところがあるのを、知っているだろうか。

 都にいる、城を守る騎士たちが乗るための生き物で、それはたいてい、大きな湖で育てられる。

 あなたの世界でいうところの、銀杏によく似た木が全部の葉っぱを地面に落として、地下湖の入り口に立っていた。そこは暑い夏でも冷え冷えとしていて、しんとした静けさがそれを増長しているようでもあった。

「リーニュ、出てきなさい」

 地下に響くのは母親のタリの声だ。背が高く全体的にほっそりとした彼女はいつもわずかに眉尻が下がっていて、たいていの人物は彼女に物腰柔らかな印象を持つが、この時ばかりは厳しそうな視線を息子に向けた。

「まだ子どもでも危ないって言ってるのに、おまえたちときたら―― だいたい、体はもういいの?」

 タリは厳しそうな顔から、心配そうな顔へと変えた。

「ついさっきまでまだ膝が痛むって言ってたじゃない」

「もう平気。みんなは?」

 リーニュが問うと、タリはどうだろうね、と言った。

「ピュイとロイセはもう明けたって聞くけど、ナナヤはまだ明けなくて、本人も大分痛がってるってナナヤのお父さんが言ってたわ。まあナナヤは、お父さんもけっこう重い方だったから」

 体も大きいしね、と付け加えるタリに、リーニュは

「カリャサは?」

と聞いた。タリはさあ、と言うと、

「まだ明けたって聞かないから、まだなんじゃないかしら」

などと口にしながら呆れたようにため息を吐いた。

「気になるなら、お見舞いへ行ったら?」

「…… 行かない。準備があるし」

「準備なら、蛹化前にしてたじゃないの―― リーニュ?」

 後ろから聞こえてくる母の声を無視して、リーニュは地下湖を出た。



 リーニュは今日、十四歳になってから初めて外に出た。

 この小さい大陸に住む人たちはみんな、十四で大人になる。なぜならば、この大陸の子どもたちはみんな、十三の歳の瀬に家の中に篭る。病気でもなしに、五日から十日も寝台に横になるなどというのは、後にも先にもこれきりだ。

 これを蛹化といい、その幼い体へ新たに性別というものをたずさえて外へ出たそのときを羽化と呼ぶ。

 去年の最後から数えて二日目の日に蛹化したリーニュは、年が明けて四日目の今朝、無事に羽化したことになる。

 地下湖から数歩歩いたところで、リーニュはふと足を止めた。こつこつと杖が地面を叩く足音と、靴がずるずると地面と擦れる音が聞こえてくる。

「カリャサのお母さん」

 リーニュはその姿を認めると、今まさに階段を下りようとしていた彼女のもとへ駆け寄った。

「リーニュ、ちょうどよかった。これ、庭で採れた林檎」

 カリャサの母、ミヴは肩に担いでいた荷物を杖を持っていない方の片手で器用に下ろすと、リーニュに差し出そうとした。布の隙間から林檎がひとつ、地面へとこぼれおちて、リーニュは慌てて追いかけた。ミヴの悪いね、という声が上から降ってくるのを聞きながら、リーニュは包みの中へ林檎を戻した。

「リーニュが来るんなら、家で待っておけばよかったかな」

「…… カリャサの様子はどう?」

 若い頃に負傷したという左脚を引きずりながら階段を下りようとする友人の母に、リーニュは慣れた仕草で手を貸した。

「難航してるね、どうも。ありゃ性別が決まるまで少なくともあと二三日はかかりそうだ。―― 遺伝かね」

「…… そう」

 ということは、羽化にはもういくらかかかるということだ。眉をひそめて言うとミヴが「都には近いうち発つんだろ?」と聞いてきたので、リーニュは頷いた。

「来月には騎士の登用試験があるし、準備が出来次第行くつもりだから、もしそれまでにカリャサが羽化しなかったらそう言っておいて」

「会っていかないのかい?」

 不思議そうにたずねてくるミヴに「うん……」と曖昧な返事をすると彼女は「まあ戻ってこようと思えばいつでも戻ってこられるしね」と口にした。

 家の前にある木も地下湖のそばに会った木同様、リーニュたちが蛹化する前は枝に色づいた葉をもっとたくさんぶらさげていたが、今ではもうすっかり地面に落ちてしまっている。

「おかーさーん」

 戸口から呼びかけるとすぐに出てきたタリは、リーニュの持つ包みを見るなりあらあらと声を上げた。

「こんなにたくさん? 昨日会った時に教えてくれたら取りに行ったのに」

「たまには、歩こうと思ってね」

 そう言いながらミヴは長く息を吐くと椅子に腰を下ろした。タリとミヴは子どもの頃からの古い間柄なので、ミヴも勝手知ったるというふうである。タリは包みから自分たちで食べる分をよけると、ふたつかみっつを残してまた包みなおした。

「リーニュ、これお隣さんまで持っていってくれる?」

「はーい」

 リーニュは明るく返事すると包みを持って再び外へ出た。戸が閉まると、ミヴはふうっともう一度息を吐いた。

「なにか飲む? 今ちょうどスコーンを焼いたところなのよ」

「ああ」

 タリが客用のカップにお茶を注ぐのを見ながら、ミヴは言った。

「理解できないね、私には」

「え?」

「家族でも親戚でもない、いい歳した男の二人暮らしなんてどう考えたって普通じゃないだろ」

 頬杖をついて隣に住む男たちの話をする彼女の前に茶器を置くと、タリもテーブルに着いた。

「いい人よ、ふたりとも。リーニュと遊んでくれるし」

「いい人、ね……」

 ミヴはお茶を飲むかたわら、幼馴染の言葉を口の中で転がした。ミヴが再び口を開く前に、タリは「カリャサはどう?」とたずねた。

「…… 相当厳しい。リーニュには言わなかったけど、あいつずっとうわごとでリーニュの名前を呼んでるんだよ。もう蛹化して七日なのに、羽化の兆しすら見えない」

「イグニに診てもらったら?」

 里に住む唯一の医者の名を出すと、ミヴは「とっくに診せたさ」と言いました。

「だいたい、原因はわかってる」

 眉間に皺を寄せて言う幼馴染に、タリは「ええ?」と首を傾げた。

「もしかして暮れにしていた喧嘩? あんなの、もうとっくに終わったもんだと思っていたけど」

 自身の息子(自身の子どものこと。ここでは便宜上、性別に関係なくこう呼ぶ)、リーニュといっとう仲の良いカリャサが歳の瀬になんだかぎすぎすしていたり、あるときは言い合いをしていたのを思い出して言えば、ミヴはますます眉間の皺を濃くした。

「あんたと私とがまた普通に口を聞くようになるまで何年かかったと思ってるんだ」

「え? でもあれはお互い離れて暮らしてたし仕方ないじゃない」

 あっけらかんと言うタリに、ミヴはさっきとは違うため息を吐いた。

「タリ、あんたって見かけによらずしたたかだよな」


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