第5話
それから隔週での在宅診療が続いた。
「具合はいかがですかぁ!」のかけ声とともに、この二週間の出来事を、本人から、そして奥さんから聞く。場合によっては、福祉的な支援をサポートするケアマネージャーや、在宅での看護を担当する訪問看護師や、在宅リハビリを専門とする理学・作業・言語療法士らも同席してもらい、そうした関係者からも情報を共有する。まさにチーム総ぐるみによる療養生活だった。
神経の病気には難病といわれる疾患が多い。ALSを筆頭に、パーキンソン病や脊髄小脳変性症、重症筋無力症や多発性硬化症といったような病気だ。脳、脊髄、末梢神経、筋肉が障害されるので、記銘力やら思考力やらに加えて、顔や喉や手足の動きに支障をきたす場合が多い。そうした患者の終末期をサポートするには在宅医療が欠かせない。必要に迫られてというとちょっと語弊があるかもしれないが、いつの間にやら僕は、在宅診療にも力を入れるようになった。
田名網さんは、愛里に血圧を測ってもらい、脈を取ってもらうのがいつも楽しみなようだった。女の子どもがいなかったせいだろう、まるで娘を見るかのような眼差しだった。彼女の言うことはなんでも従う。奥さんもそのあたりのことはわかっていて、なにも言うことなく、むしろ積極的にくっつけようとしているかに見えた。
愛里のほうも父親を早くに亡くした影響だろう。いい意味で、男親に甘やかされて育った娘ってこういうものかもしれない。患者といえども、田名網さんにはズケズケものを言う。二人の間には、患者とナース以上のあうんの呼吸が生まれているような気がした。
梅雨時(つゆどき)には湿度の管理や屋内清掃の必要性を、夏には脱水症への早期発見法や皮膚の蒸れ対策を、冬は逆に乾燥の抑え方や寒さ予防などを・・・、季節ごとにおける療養のコツを、その都度丁寧に指導した。痰吸引の適切なやり方や、のどごしの良い食事の調理法を説く必要が生じてきたということは、それに伴い少しずつ息苦しさを自覚するようになってきたということだった。それでも僕らは、というか愛里は、呼吸方法や痰処理の仕方をしつこく教えていた。
まずは十分に加湿を行って、痰の粘稠度が柔らかくなるようコントロールする。次に“体位ドレナージ”といって、痰の貯留した部位を上にする体位を取らせて、重力によって隅々に貯まった痰を口に近いほうへと移動させ、排出しやすくする。さらに十分な呼気量を得るための“スクイージング法”、すなわち胸の部分に掌(てのひら)を当てて絞り込むように圧迫する。胸が押されれば空気を吐き出しやすくなり、その力を利用することで貯留した痰を口元へと移動させることができる。
体全体を使ったこれらの指導には、かなりの体力を消耗する。汗を掻き掻き、愛里はがんばって見本を見せた。こういうことはできるだけ多くの家族に覚えてもらって実践してもらいたいのだが、田名網さんは、「ああ、谷島さんに、ケ、ケアしてむらうと、ら、楽になりまぁす」と、彼女にやってもらえることを望んでいるようだった。
在宅診療の開始から五ヵ月後、発病から四年十ヵ月、先週はまだかろうじて目を開け、一言二言つぶやこうとしていた。が、呼吸は相当に微弱になっていた。僕は「二、三日が山です」と伝えていた。そして今日、いよいよ最後のときを迎えた。
「田名網さんが亡くなったので、いまから搬送されてくる。救急車が到着したら呼んでくれないか」
僕は愛里に伝えた。彼女は静かに微笑みながら答えた。
「きっと穏やかな表情でしょうね」
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