第4話
血圧、脈拍、体温、血中酸素飽和度が愛里の操作によってすばやく測定された。大きな問題なし。続いて貧血のサインはないか、胸腹部の聴診に異常はないか、脚のむくみはないか、皮膚にただれや感染はないか・・・・・・、すべてにおいてはっきりした異常はなかった。奥さんの一手間(ひとてま)、つまりは小さく刻んでトロミを付けるといった調理の手間で、食事もなんとか摂れているようだった。ひと通りの診察が終わり、とりあえずさしたる著変がないことが確認された。
「特に変わりはないようですね」
僕がそう言って、聴診器をカバンにしまおうとしたところ、場にもう少し馴染みたいという意図があったのだろう、愛里が、「やっぱり自宅にいると落ち着きますか?」と、声をかけた。
「そうだねぇ。家ぐぁいいねぇ・・・。まあでぃも、妻に迷惑かけちゃうねぇ・・・」
彼は少し照れながらも、奥さんへの感謝の気持ちを述べた。
「ご夫婦の仲が良いのは本当にいいですね。がんばろうって気になりますものね」
愛里には父親がいなかった。
彼女が高校生のときに事故にあったのだ。帰宅途中における車同士のひどい交通事故で、右から突っ込まれた大型トラックに対して、自家用車の本人はどうしようもなかった。ほぼ即死だった。ある日突然、父親がこの世から消えたのだ。そんな過去を彼女は以前ちょっと話しはじめてくれたことがあったが、そういう会話は辛気くさくなると思ったのか、「いっぱい泣いたよ」という結びだけを伝えて、それ以上の詳細は語ってくれなかった。だからかもしれない、田名網さんのいまの状態に対して、残された時間との折り合いのなかで・・・、この一瞬一瞬を大切にしてもらいたい。そういう気持ちが込められていたのかもしれない。
静かに一度、深呼吸した僕は、どうしても尋ねておかなければならない、本人にとって、そして家族にとって、今後もっとも大切になるであろういまの考えを確かめることにした。
「もう一度確認します。人工呼吸器は・・・・・・、本当に付けなくていいのですか・・・・・・」
ALS患者における最後の命の選択だ。呼吸器を装着すれば、あくまで寝たきりで、話せない食べられない、コミュニケーションの方法は瞬きと眼の動きだけ、ということになるが、生命だけは維持できる。その状態を受け入れてまで生きるのか、あるいは拒むのか、その大切な判断だ。それは想像を絶するほどの、けっして他人には理解できない苦渋の、苦渋の決断だ。
彼は装着しない意志決定を自らくだしてきた。そして、この段階においてもその考えに変わりがないことが告げられた。家族も無言でうなずいた。
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