第10話帰宅

俺はすぐに警察署を出て、自宅に向かった。ずっと帰ることを避けていたあの家だ。

そこには父さんが今でも住んでいるはずだった。

誰からも父さんのことは聞かなかった。気を利かせてくれてただけかもしれない。でもそうなら言っちゃ悪いけど、亡くなっただとか引っ越したとか、俺が今後もう父さんと会わなくていいっていう話こそしてくれる。そうだと思うんだよな。

だから、何の話も聞かなかったってことは変わりがないってこと。以前と変わらず、父さんはそこにいるってこと。


家に近づくにつれて俺の頭はガンガン痛くなった。精神的な頭痛? そんなんじゃねえよ。子どもの頃父さんに殴られ続けた頭が痛みを思い出したんだ。

あいつに近づきたくない。恐い。イタイノハイヤダ。

だから俺の体は警告する。近づいちゃダメだって。

そうなるから余計に避けてたんだ。家にも、父さんにも近づかないように回り道をしてきた。見つからないように桜の木に隠れてきた。ずっとずっとそうしてきた。

それでも今回は逃げられない。逃げちゃいけない。だって、父さんのせいで亡くなったかもしれない被害者がたくさんいるんだ。

だから逃げない。

どんなに痛くたって、どんなに恐くたって逃げない。


一生に一回だぜ? あんなに自分を奮い立たせたの。受験の時だってそんなに緊張することはなかった。

これ以上は無理! っていうくらい頑張って勉強したし、何より親友が大丈夫って言ってくれたからな。




お前だよ、友人A。




懐かしくない我が家は全く変わっていなかった。大きくも小さくもない一階建ての平屋。俺にとってはちょっと大きい鍵付きの箱。

やっぱりここは帰るべき場所じゃないんだな。そんなことを考えながら、頭の痛みに耐えた。

玄関の前に立って、鍵穴に鍵を挿したその時だった。急に頭が冷えて、俺の動きは止まった。


もし、この中に父さんがいたら?


いたら、どうするつもりなんだ。何て言うつもりなんだ。あんた、人を殺したのか。そう言うのか。

そう言って、どうするんだ。警察に突き出すのか。それで解決するのか。

それで、死んでいった人たちは納得するのか。


父さんなら言うだろう。何のことだ。知らないぞ。何処に証拠があるんだ。

何処にも証拠なんてない。おっちゃんから届いたメッセージだって、証拠として扱えない。全部想像だ。

もしかしたら。多分。そういう風にしか言えない。


父さんは逮捕されたとしても、反省しない。罪を悔い改めない。自分のことを悪いだなんて欠片も思わない。

今回も、父さんは何からも罰せられない。罪を認識しない。


そんなのダメなんだ。生まれてからずっと父さんと一緒に居させられてた俺にはわかる。

父さんは、今度こそ罰せられるべきなんだ。

それが人によってか怪異によってかはいいんだよ。とにかく、父さんは後悔すべきなんだ。自分のしたことで周りがどうなったか、思い知るべきなんだ。


俺は歯を食いしばった。何もできなくても、進まなくちゃいけない。

今、父さんと向き合わなきゃいけない。

俺は、力を込めて挿した鍵をゆっくりと回した。




かちゃんと音がして、鍵が外れた。








別に、何かを期待してたわけじゃないんだ。良いことも。悪いことも。できれば父さんが家の何処かで寝ていてくれたら。いや、本当は会いたくなんてなかった。もし、家の中が生臭く赤黒い血で水浸しになってても怖くないさ。俺が恐いのは父さんっていうあの存在、そのものだ。

理不尽に暴力をふるって、俺の命を否定する。俺の生きてる意味を、存在を否定する。


「おまえは悪い子だ」

「おまえは鬼の子だ」


そんな父さんだから俺は嫌いになった。

父さんがいるだけで家の中は暗く重い空気になった。父さんが近くにいるだけで空気がピリピリした。小さな俺はいつだって押し入れの奥の方で更に小さくなって、いないように気配を消そうとした。見つかればイタくてクルシイことが待っているから。


だから、入り口の扉を開いた時に何の気配もなかったことには実は少し安心した。ほんの一瞬だったけど。




まず、玄関の靴置き場には靴が一足もなかった。スニーカーも、革靴も、サンダルも。本当に一足もなかった。代わりに、うっすらと埃が敷かれていた。もちろんマットもなくて、スリッパなんてあるはずもなくて、板張りの廊下が一本玄関から奥に向かって伸びている。それだけだった。

靴を脱いで、それを揃えて隅の方へ置いた。他人の家みたいだった。

冷たい床に足を乗せた時、ぎしりと音が鳴った。最後にここを歩いたのはいつだっただろう。懐かしさはなかった。

まっすぐリビングに向かった。ソファーと小さなテーブル、本の入れられていない本棚と、同じような食器棚があった。電話もそこにあったけど、コンセントとコードが抜かれていた。

ソファーに座った。そこからはキッチンが見えた。家電は冷蔵庫だけで、レンジやオーブンなんかはなかった。それだけじゃない。食器やフライパン、鍋、包丁、コップなんかまで一つもなかった。もしかしたら下に入れられてたかも知れないけど、少なくとも俺の目には入ってこなかった。

窓にはレースのカーテンがかかっていた。白いはずのレースが、薄汚れて灰色になっていた。

寝室も、俺の部屋だった押し入れがある部屋も、別の部屋も、全部見た。どこも同じだった。

俺の家には誰もいなかった。それどころか、生活してたっていう感じが全くなかった。家具も雑貨もなさすぎ。冷蔵庫の中は見てないけど、電話と同じくコンセントが抜かれてたから空っぽだろう。

住所は間違ってない。間取りも覚えてる通り。だから、そこは俺の家で間違いなかった。


父さんどころか、何もない家だった。




こんな家だったっけ。どんなに思い出そうとしても、頭に浮かんでくるのは父さんのことだけ。微かなことしかその家について覚えていない。

俺にとっての家ってのは、小学校であり迎え入れてくれた親友と家族のいる場所。

でも父さんのいるその家には俺の居場所も、思い出もなかった。だから、俺は帰らなくてもいいと思った。帰る意味なんてここにはないと思っていた。

今回いざ帰って父さんのいるはずの家を見てみて、これはないと思った。何で今まで気づかなかったんだろう。どんだけ俺は鈍かったんだろう。そんなんじゃなくて、その家の状態が普通だって思ってた自分に対して寒気がしたんだ。

本当にそれまで、何も思わなかったんだよ。こんなの当たり前だろ。そう思い込んでずっと家のことを話したことなんてなかった。そうだよ。それが余計に悪かったんだ。

俺んちはこうだった。それだけでも言ってれば、違和感に気づけたんだ。

ただでさえ俺の出自が変わってるってのに、家庭事情も環境も普通のはずない。

俺は、それを誰かに言うべきだったんだ。


「俺の父さん、本当に人の親なのかな」


言っちゃいけないことを、俺はソファーに座って頭を抱えながら呟いた。

誰にも聴かれたくない独り言だった。


それから俺は、しばらくそこでぼぅっとしていた。何も考えたくなかった。

手の中には大事な大事な同窓会の案内。忘れないように、遅れないようにといつもポケットの中に入れていた。




もちろん、父さんは帰ってこなかった。

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