ストリートピアノ

彩霞

第1話 ピアノを弾いてくれませんか?

 12月も中旬に差し掛かったころの話である。


 その日、僕は何となくピアノが弾きたくなって、仕事の帰りに、ストリートピアノが置いてある市民センターに向かった。


 ピアノは中学のときまで習っていたので、少しは弾くことができる。

 ただ、それ以上誰かに師事することはなかった。高校生になれば、学業も部活動も忙しくなるだろうし、どうせこれ以上続けたところで上手くなるわけでもないからと、ピアノから離れたのだった。


 だがここ数年、町の至る所にピアノが置かれるようになり、思いがけず再び触れる機会が訪れた。


 ピアノはヴァイオリンやギターなどとは違い、手軽に持ち運ぶことの出来ない楽器だ。そのため、誰かに聞いてもらえるチャンスは、楽器店に置いてあるピアノを奏でるくらいである。だが、大して上手くないのに弾こうとする気持ちは起きなかった。


 だったら家で弾けばいい、という考えも浮かぶが、一人暮らしをしている今のアパートにはない。実家にはアップライトピアノはある。

 しかし、それを弾くためにいちいち帰るのは面倒だ。電子ピアノを買うことも考えたが、たまにしか弾かないのに小さな部屋の一角を占領されるのはちょっと困る。キーボードだけのものを買えばいいもかもしれないが、鍵盤が軽すぎて弾きにくい。お陰でずるずると時が過ぎ、社会人3年目になった今でも踏ん切りが付いていない。


 しかし、今はストリートピアノがある。

 市民センターにあるピアノは、誰でも弾いていいものだ。そのため、休日になると子供から大人までが弾きに来る。

 でも、僕が行くのは平日の18時頃。仕事帰りに行けばほとんどの場合人がいないので、気兼ねなく弾くことができる。それに演奏し始めてしまえば、周りのことは気にならなくなってくるので、偶にピアノの傍を通り過ぎていく人がいたとしても平気でいられるのだった。


 僕は小さなわくわくを抱きながら、市民センターの中へ入る。

 普段は施設の出入り口に付近に、コンサートホールで使われていたグランドピアノが、ひっそりとたたずんでいるのだが、今日は思いがけず人がいて、軽快な音を奏でていた。


 50代くらいの女性だろうか。

 ピアノから譜面台を出して、楽譜を置いて弾いている。彼女が弾いていたのはジャズのようだった。


(どうしよう……)

 人がいないつもりで来たのに、弾いている人がいる。帰ろうか。でも気持ちはピアノを弾きたい状態になっていて、すぐにここから離れることができない。

 どうしようかと思っていると、女性が僕に気づいてしまった。

 しまった、と思いオロオロしていると、彼女は演奏を止めて立ち上がり、笑って「どうぞ、弾いてください」と言った。

「えっ、で、でも……」

「私は十分に弾いたので。どうぞ」

 そう言って彼女はパタパタと楽譜を畳むと、席を譲ってくれる。

「本当に……いいんですか?」

 僕は再び尋ねた。すると、彼女はにこっと笑って「はい、もちろん」と言う。

「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて……」

 そう言って、荷物をピアノの脚の近くに適当に置き、椅子に座るとピアノとの距離を合わせる。


 さて、弾こうかな——と思ったときだった。女性はピアノから少し離れたところに設置してある休憩用の椅子に座り、こちらをじっと見ていた。

「あ、あの……」

 僕が口を開くと、彼女は何を言いたいのか察知してすぐに答えた。

「人を待っているんです。なのでその間、あなたのピアノを聞かせてもらえませんか?」

「えっ!」

 僕は驚いて目をぱちくりさせ、髪の毛もビビッと電気が走ったかのように立った感じがした。

「でも、下手ですよ!」

 そう言うが、彼女は一歩も譲らない。

「聞いてみたいので。是非」

 その瞬間、僕の体はカアッと熱くなった。緊張は当然あったが、それよりも人に聞いてもらうというのが久しぶりで、少しばかり嬉しかった。

「……分かりました」

 すると彼女はリラックスした体勢になった。僕はそれを見てちょっとだけ安堵し、肩の力を抜く。気取らなくていい。僕が弾けるものを弾いたらいいのだ、と自分に言い聞かせた。


(何を弾こうかな……)

 レパートリーはそれほど多くない。でも、きっと知っている曲を弾いた方がいいだろうなぁと思って、久石譲作曲の「Summer」を弾くことにした。

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