第26話 キリンのぬいぐるみの行方
朝食を部屋に運ばれてきても、ギルベルトは食べる気はなかった。それよりも一刻も早く父親と話したい。軍の将軍である彼が命じれば、ギルベルトはすぐにでも紛争地帯の最前線に行くことができるだろう。
キリンのぬいぐるみを放っておくと捨てられそうだったので、抱き締めて廊下を足早に歩いて行くと使用人たちから奇異の目で見られている。そんな視線など気にならないくらいギルベルトは思い詰めていた。
父親に会いたいと部屋を訪ねると、朝食の最中だった父親はギルベルトを少し待たせて着替えて出て来た。心配そうなゲレオンとグンターも一緒になって、応接室で話すことになる。
開口一番、ギルベルトは告げた。
「まだ紛争地帯が残っているだろう。そこに俺を派遣して欲しい」
お茶の用意がされて上品なティーカップとソーサーを手にしていたゲレオンとグンターがそれを落としてしまう。豪奢な絨毯に散るお茶を使用人が片付けている。
「ギルベルト、何があったか分からないが、お前は死地を乗り越えてやっと平和な場所に戻って来たばかりではないか。自ら死にに行くようなことはやめてくれ」
「俺が死んでも、ゲレオンとグンターがいるから問題はないだろう。アードラー家の跡継ぎはいる」
「跡継ぎの問題ではない。私は父として至らないところがあったが、お前のことをずっと心配していた」
父親の言葉をギルベルトは信じることができなかった。
心配していたならば、エリーアスのように実際に前線まで来てギルベルトを説得すれば良かった。通信で安全な場所から何を言われたところでギルベルトの心に響くことはない。
父親と兄弟に関しては特にその言葉を信用もしていなかったので、ギルベルトは体面を保つために言っているようにしか聞こえていなかった。
「俺がアードラー家の次男だから、一応止めたという形を取らなければいけないのは理解できる。俺はちゃんと止められたと言うし、あなたはそれを聞かずに俺が志願して行ったと言えばいい」
言い訳もくれてやるからさっさとギルベルトを遠くにやって欲しい。テーブルの上に乗っている有名店の焼き菓子がエリーアスと食べたもので、お茶を見てもエリーアスの淹れ方を見て覚えたことを思い出して、何を見てもエリーアスに繋がるので、この場にいるのもつらい。
ギルベルトは心を殺してエリーアスのことを忘れて紛争地帯に行こうとしているのに、頭の中はエリーアスのことだらけだった。
「そのキリンのぬいぐるみ……」
「これは捨てさせない!」
「兄さんが紛争地帯に行くなら、持って行けないんだよ?」
ゲレオンとグンターの言葉に、抱き締めているキリンのぬいぐるみをギルベルトはじっと見つめてしまった。このぬいぐるみはサファリパークで見たキリンに感動したギルベルトが、家具専門店で売っているのを見て欲しかったときに、エリーアスが全く反対せずに、ギルベルトの気持ちを尊重して買うことを許容してくれたものだった。エリーアスのことを忘れたいと思っているはずなのに、キリンのぬいぐるみを捨てることになるとなるとギルベルトは動揺してしまう。
「このぬいぐるみは誰にも触らせない……」
「平和な場所で、ぬいぐるみを愛でているお前を見ていると私はほっとする。ギルベルト、もう一度考え直してくれ」
父親に言われた言葉は心に響かなかったが、腕に抱いている大きなキリンのぬいぐるみはギルベルトの心を繋ぎ止めた。
紛争地帯にキリンのぬいぐるみを持って行けないとなると、アードラー家に置いていたら処分される可能性が高い。何よりギルベルトが戻らないつもりの場所に、キリンのぬいぐるみだけを置いていくわけにはいかない。
「紛争地帯に行きたいというのは本気だ。このぬいぐるみの行き先が決まったら、出発する」
誰か信頼できる相手にこのキリンのぬいぐるみを託すしかない。
立ち上がったギルベルトはキリンのぬいぐるみを抱いたままアードラー家から出た。
「兄さん、どこに行くんだ!」
「ギルベルト、待ちなさい」
「ギルベルト話は終わっていない」
口々に弟と父親と兄の止める声がするが、ギルベルトはそれを無視した。
携帯端末で自動運転のタクシーを手配して、行き先を入力しようとする手が止まる。
エリーアスの家にキリンのぬいぐるみを置かせてほしいと頼めば、優しいエリーアスは拒まないだろう。しかし、エリーアスには会わせる顔がない。
自分一人が愛している、愛されていると勘違いして、エリーアスを傷付けてしまった。結婚したいと思っていたのはギルベルトだけだった。人生を変えてくれたエリーアスと生涯共にいたいと願っているのはギルベルトだけで、エリーアスはそんなことは全く考えていなかった。
愛し合って抱き合ったと思ったのも、全て「性欲処理」で片付けられてしまった。
自動運転のタクシーから「行き先を入力してください」という機械の声が聞こえる。ギルベルトは迷ったが、行き先を入力した。
まだ朝だったのでその家の主は出勤していなかった。
朝食の途中の様子のユストゥスが出て来た玄関先で、ギルベルトはキリンのぬいぐるみをユストゥスに差し出した。
「ユストゥスしか頼れる相手がいない。これはエリさんと俺の大事な思い出の品なんだ。これを預かってくれないか?」
「どういうこと? どこかに行くの? 兄さんに預かってもらえばいいんじゃないの?」
事情がよく分かっていないユストゥスに話し出そうとして、ギルベルトは眩暈を覚えて玄関先に座り込んでしまう。キリンのぬいぐるみは汚したくないので持っていたが、気分が悪い気がする。
「ギルベルト、大丈夫? とにかく中に入ってよ」
家の中に引きずり込まれて、ソファに寝かされたギルベルトはユストゥスにお茶を淹れてもらって、それを飲んで初めて、自分がからからに乾いていたことを実感した。喉の渇きが潤って来ると、眩暈と吐き気が治まって来る。
「脱水症状かな。昨日は水分をあまりとらなかったんじゃないの?」
「そうかもしれない」
ショックなことがありすぎて泣いて何も飲まなかったせいで、ギルベルトは脱水症状になっていたようだ。臨床医ではないが研究医のユストゥスの処置は的確だった。ボトルのミネラルウォーターに砂糖と塩とレモン汁を入れてよく混ぜて、ギルベルトに出してくれる。
やたらと甘くて飲めたものではないそれを無理やりに飲んでいると、ギルベルトの眩暈も吐き気も完全に消えた。
「経口補水液の作り方くらい覚えててよかった」
「ユストゥスはすごいな」
「それで、どうしてキリンを預けようと思ったの?」
ソファに起き上がれるようになったギルベルトにユストゥスが問いかける。どう説明するべきかギルベルトは悩んだが、正直に全て話すことにした。
「エリーアスに父に会ってほしいとお願いしたんだ」
「それは急だね」
「父はアードラー家の当主で、軍の将軍でもあるから、ねじ伏せてでも説得しないとエリーアスとの結婚を邪魔されると思ったんだ。その話をしたら、エリーアスは俺にはそんな責任を感じて欲しくないと言った」
左腕と左脚を失ったのはギルベルトのせいではないのだから、結婚までして責任を取ることはない。
ギルベルトと抱き合っていたのも性欲処理のためで感情があったわけではなかった。
ギルベルトを縛るつもりはなかった。
「同居を解消する、出て行ってほしいと言われたんだ」
思い出すだけで胸が張り裂けそうになって涙が出てきそうになるギルベルトの話を、遮ることなくユストゥスは静かに聞いていた。内容が赤裸々であっても、ユストゥスは気にすることなく真剣な眼差しでギルベルトの言葉を聞いてくれる。
「俺はエリーアスに庇われて、エリーアスの愛を感じた。一緒に暮らすようになって、エリーアスが崇高な心を持つ素晴らしい人物だと再確認した。命すらいらないと思っていた俺を、エリーアスは生きていて欲しいと言ってくれた」
紛争地帯に志願して命すら捨ててもいいと考えることはエリーアスを更に傷付けるのではないだろうか。話しながらギルベルトも気付いてきた。
エリーアスは優しいからギルベルトが勝手に紛争地帯に行って死んでしまったら悲しんでくれるだろう。自分のことしか考えないで、自分の感情だけで暴走しそうになっているギルベルトに、エリーアスとの日々がブレーキをかける。
「俺が死んだら、エリーアスは悲しむ……俺は紛争地帯に行って、死んでも構わないと思っていたのに」
ぽつりとギルベルトが零した言葉に、ユストゥスがようやく口を開いた。
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