第11話 親と子

 ラウル・クロセイドは家族を失った。

 あの日を境に、ラウルの世界は滲んだままだった。止めどもなく溢れ出る涙で色彩は輪郭を失い、ありとあらゆるものの形が曖昧になった。

 彼は澱んだゴミ捨て場を項垂れて歩いていた。廃棄物から発せられる悪臭はもう気にならなくなった。騒がしい鴉の鳴き声は極力無視するようにしていたが、不意にもしかしたらボクが死ぬのを待っているのかも知れないと考えるようになった。一歩も歩けなくなって倒れたと同時に、一斉に死肉を啄もうと虎視眈々と狙っているとしたら……。


「ちくしょうっ。あっち行けよっ」


 ラウルは足元に転がっていた拳大の石を拾い、鴉の群れに投げ込んだ。

 鴉は当たる寸前に羽ばたき避けたが、そのまま飛び去りはせずに再び元いた場所に着地した。他愛もなかったとはいえ、突然の攻撃に興奮したのかラウルが狙った鴉は「ガアッ」と不快な濁声で威嚇してきた。そんな程度では怖がるほど幼くはなかったが、ブラックダイヤモンドを彷彿とさせる眼差しは不気味に感じた。


「ちくしょう……」


 結局、その場をすごすごと離れたのはラウルの方だった。

 彼はこの数日、ゴミを漁って生き延びていた。体力は次第に奪われ空腹と疲労で動けなくなり、とうとうゴミ捨て場の片隅でうずくまった。

 それまでは当たり前のように得ていた食事も寝床も、たった一日でなくしてしまった。それを与えてくれていた両親までも行方知れずだった。おつかいを頼まれた日のごく平凡な日常的な会話が、両親との最期の触れ合いとなった。



 カトリッジで起きた惨劇は、周囲の街にも多大な影響を与えた。ラウルのように家族を失った者もいるし、商売相手がいなくなり生活が成り立たなくなった者もいた。

 どんなに親切な人間だろうが、追いつめられれば自分のことを第一に考えるようになる。なによりも己の保身を優先させる。それは生き物なら当然のことであり、誰かから責められるものではない。

 特に今回の災害はなにもかもが突然過ぎて、皆が自分のことで精一杯だった。生きること、生き延びることに身も心も奪われ、ラウルのような幼い子供に救いの手を差し伸べてくれる者など皆無だった。

 これほどの被害が出ていながら、世界からしてみればなきに等しい些細な出来事だ。太陽は相も変わらず明るく地上を照らし、月は優しく語りかける。悲しみに暮れたまま時間だけが経過していった。

 ラウルは、いよいよ動くことが困難な状態にまで衰弱した。食事を取っていないこともあったが、なにより両親がいなくなった悲哀が彼から生きる力を奪っていた。精神の強弱は、肉体に直接的な影響を与える。ラウルは幼いながらにその事実を思い知った。


「ボク、このまま死んじゃうのかな……。こことは違う世界に行けば、またパパとママに会えるかな……」


 弱々しくつぶやいた。彼は誰にともなく言ったつもりだったが、その独り言に答える者が現れた。


「異世界に行っても、両親には会えないよ」


 ラウルは、ゆっくりと声がした方に顔を向けた。

 男が一人立っていた。今のラウルと同様に薄汚れた身なりをしており、光も反射しない淀んだ瞳でラウルを見下ろしていた。


「……今、なんて?」

「こことは違う世界に行ったところで、両親には会えないと言ったのだ」


 ラウルはなにも言い返せなかった。彼は死んだ後のことを考えていたし、たった今口にした独り言も、あの世を指してつぶやいたつもりだった。

 しかし目の前の男の言葉は、それとは違う意味合いが込められているような気がした。


「君のご両親は『黄昏に沈んだ街』で?」


 ラウルは顔を下に向けた。頷いたのではなく、涙が零れそうになったので見られまいと項垂れたのだ。

 カトリッジで起きた大惨事は、日暮れの時刻に起こったのでそう呼ばれるようになった。そのことを知っていたのは、街の人々の話を聞くともなしに聞いていたからだ。

 しかし、呼び方などラウルにとってはどうでもいいことだった。

 男は苦悶に顔を歪ませてから、ラウルに手を伸ばした。


「ワタシと一緒においで」


 ラウルは男の手を見上げた。必死に我慢していた涙が頬を伝って地面に落ち、黒い点を作った。

 一度堪えきれなくなった涙は、もう止まらなかった。


「う、うう、うああああ」


 男は、ラウルの肩に優しく手を置いた。


「すまなかった……」


 男が謝罪したが、その声はラウルには届かなかった。聞こえていたとしても、なんのことかは分からなかっただろう。

 ゼクテが死亡し、グニーエ親子が行方不明になった数日後の出来事だった。



 ラウルがその男を頼りにするようになるのに、そう時間は掛からなかった。

 男は親身になってラウルの面倒を見てくれたし、その見返りを求めることもしなかった。特殊な性癖を持った大人がいて、ラウルくらいの少年を性の対象にしている者がいることを、まだ子供だったがラウルは知っていた。

 しかし、そういったことが目的ではないようだった。

 男はグニーエ・ハルトと名乗った。両親の知り合いなのか尋ねると、面識はない。君が困っていたから助けたんだと返答した。

 グニーエは魔法の研究を生業にしていると言った。


「魔法? おじさんは魔法を使えるの?」

「多少はね……。魔法を有効に活用して、今よりも便利な世の中にするのが目標だったんだ」


 グニーエは目標なんだとは言わず、目標だったと言った。しかし、ラウルにはそのわずかな差を気にすることはなかった。

 二人での生活が始まって、瞬く間に季節は移ろい時は流れた。ラウルはグニーエのことを実の父と同じくらい愛し、信頼もした。次第に彼の仕事を手伝うようになり、魔法の使い方を教わるようにもなった。歳月を重ねるうちに、いつしかグニーエのことを父さんと呼ぶようになっていた。


 

 ある夜のこと……。


「父さん?」


 グニーエは居間のソファで眠りこけていた。脇のテーブルには酒瓶が口を開けたまま置かれており、グラスにはまだ琥珀色の液体が残っていた。

 もう夜の静寂で月の光も霞む時刻だ。


「父さん。こんなところで寝てたら風邪をひくよ。ちゃんとベッドに入って」


 グニーエはラウルの目から見ても良識のある大人で、誇れる父親だと思っていた。しかし、そんな彼の唯一の欠点が酒だった。いつも飲んだくれているわけではないが、突然なにかを思い出し塞ぎ込むことがある。そんな日には必ず酒瓶に手を伸ばすのだった。

 酒場で騒ぐ男たちのような陽気な飲み方ではなく、苦悩から逃れるために飲んでいることは明らかで、酒を飲んだことがないラウルでさえ、あの琥珀色の液体はさぞかし苦いのだろうなと思ってしまう飲み方だった。

 酒に逃げる理由を訊いたことはなかった。自分が過去に家族を失った悲しみを抱えているように、グニーエにも色褪せることのない悲しみがあるのだろうと思っていたからだ。見ず知らずの自分を育ててくれたのも、そんなところに理由があるのではないかと考えていた。


「父さん……」


 ラウルはグニーエの肩を揺すって起こそうとした。


「ん…」


 微かな声と共に、グニーエの目から涙が零れた。ラウルはぎょっとして動かすのをやめた。なにか見てはいけないものを見てしまった後ろめたさに身体が固まってしまった。


「ゆ……」

「父さん?」

「ゆ、許してくれ。事故、事故だったんだ。あんな大惨事になるなんて思ってもみなかった」


 ラウルは立ち上がった。グニーエの寝言に神経がピンと張り詰めた。

 悪夢を見ているのは明らかだったが、ラウルは起こそうとするのを止めた。零れ出た大惨事という言葉に奇妙な戦慄が走り、心臓が大きく脈打った。そして、もっと聞かなければならないと直感が訴えかけた。

 最初の寝言から何分経過したのか。ラウルは闇の中でひたすら待った。グニーエの次なる言葉を。大惨事とはなにを指すのかを。辛抱強く息を潜め待ち続け、ついにその時が来た。

 グニーエは悲鳴とも咆哮とも分からぬ奇声を発してから、喋り始めた。


「ワタシのせいだ……。ワタシがあれを……『黄昏に沈んだ街』を引き起こしたっ」


 闇の中で、ラウルの視界が反転した。

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