銃と魔法と臆病な賞金首5
雪方麻耶
プロローグ
昨日の記憶があり、今日を生きている者で、明日は来ないと考える人間などいない。今日笑って過ごせたのなら、明日も笑って一日が終わるのだろうと当たり前のように考える。しかし、それはなんの根拠もない安心だ。ほんのちょっとした切っ掛けさえあれば、日常は簡単に崩れ去る。波打ち際に作られた砂の城のようにだ。
なんの予感も心構えもなく、すべてを奪われてしまった者は、ただ立ち尽くすしかない。それしかできない。立ち止まった後、再び歩き出せるか、そのまま崩れ落ちるかは、本人の意思と運命の気まぐれで決まるものだ……。
突然だった。
毎日のように頭を撫でてくれた父の大きな手も、寝る前におとぎ話を聞かせてくれた母の柔らかな声も、家庭内を満たした笑いも、素朴だが最高に美味しかったスープも、なにもかもが突然になくなってしまった。
その日は、一人で隣街まで買い物に出掛けていた。初めて一人で出掛けるおつかいだった。
父の職業は開業医で「診察に必要だからガーゼを買ってきてほしい」と頼まれたのだ。いきなり父からそれを頼まれた時は少し驚いたが、怖いと感じることはなかった。
今思えば、毎月決まった業者が届けに来るのだから、布切れ一枚切らすことなどなかったはずで、おつかいは我が子を成長させるための一環だったのだろう。だが、子供だったその時は、父が自分を頼りにしてくれたと思い、ただ嬉しかった。
「わかった。行ってくるよ」
母はひどく心配したが、父は「何事にも初めてはある。それに、この子には強く育ってほしい」と言い、頭を撫でた。ガシガシと擦るような乱暴な撫で方だった。
父は笑いながら、少年にコインが数枚入った小さな袋を持たせた。
「気をつけるんだぞ」
「大丈夫だって」
母は、なおも心配そうに「道の端っこを歩いて。馬車には気をつけてね」と繰り返した。
まさか、それが両親との最後の会話になるとは夢にも思わなかった。
道中は、まるでハイキングに出掛ける気分だった。天気がよく、通り抜ける風は気持ちよかった。なにより、初めて一人で買い物をするという高揚感が足取りを軽くさせた。途中、何度もポケットに手を突っ込み、コインが入った袋を握りしめた。本当に気分がよかった。
母と一緒に買い物をしたことは何度もあるので要領は分かっていた。欲しいものを店員に伝え、品物を受け取る。お金を渡して、お釣りがあればそれも受け取るだけだ。
父から指定された店は、何度か入店したことのある雑貨屋だった。カウンターに座り新聞を読んでいた店主に話し掛けた。
「ガーゼをください」
でっぷりと太った店主は、眼鏡をくいっと上げて大げさに驚いた。
「おや、今日は一人なのかい? お母さんは?」
「ぼく一人だよ。お父さんにおつかいを頼まれたんだ」
「へえ、一人で買い物か。それはすごいな。母さんは他で買い物してるのかい?」
「違うよ。ぼく一人だけだってば」
「ここまで一人で来たのか? それはますますすごい。もう少ししたら、馬にだって乗れるな」
「ほんと? 馬に乗れるの?」
「ああ。馬はすごいぞ。どんなに遠い所にだって乗っけてってくれるからな」
少年は馬を疾駆させる自分を想像した。果てのない草原をひたすら駆け抜け、風と一体になる自分の姿を。
「ガーゼだったね。どれくらいいるんだい?」
店主の声で、想像は掻き消された。
少年は、父から預かっていたコインをカウンターに置いた。
「これで買えるだけ」
「毎度あり。少しおまけしとくよ」
買い物自体は、なんの問題もなく済ませられた。
ほんのちょっぴりだけ不安を感じていたが、済ませてみればなんてことはない。その日の空のようには晴れ晴れとした気分だった。
父から「お釣りでお菓子を買ってもいい」と言われていたので、口の中がいっぱいになるほどの大きな飴玉を一つ買った。その場で口の中に放り込み、口内で転がしながら帰路に着いた。
自然と鼻歌が漏れ出てきた。メロディはデタラメの即興曲だ。
大人にとってはなんでもないことだが、一人で買い物をやり遂げたことは、少年にとっては大きな一歩を踏み出した気持ちにさせ、心が浮き立った。頬張った飴玉と同じく、少年の心は甘く溶けていった。
なにかが変だと思ったのは、しばらく歩いてからだ。
周りを行く大人たちの様子がおかしい。なにやら囁いている者や、早口に捲し立てている者。
いずれも、少年の心をざわざわと不安にさせた。
街に近づけば近づくほど、周囲の喧騒は大きくなっていった。
大人たちは大声を出し、互いに怒鳴りあっていた。少年の横を駆け抜けて街に向かう者や、逆に街から遠ざかる者で、混乱の波紋が拡がっていく。
大の大人が騒ぐのは何度も見たことがある。祭りや新しい年を迎えた時などだ。しかし、今の騒ぎはそんな類ではなかった。突き刺さり削り取られていくような感覚。時折、父と母が喧嘩をして家の中がひどく居心地が悪くなるのに似ていた。
見えない糸に引っ張られ、ついに少年も走り出した。意味は分からなくとも、とてつもなく悪いことが起こっているのだと本能が訴えかけた。
周りの者たちに次々と追い越された。あっという間に息が切れ、呼吸が苦しくなった。まだ三割程しか溶けていない飴をぺっと吐き出した。地面に落下した飴玉は、転がり砂だらけになった。
一人の男が少年とぶつかり、後ろから突き飛ばされた格好になった。
「あっ」
両手を伸ばして、なんとか顔から落ちるのは免れたが、掌と膝が擦り剥けた。
ぶつかった男は、少年を見下ろしすまなそうに眉をひそめたが、振り切るように再び走り出し、あっという間に喧騒の中に溶けた。
「なに? なにが起こってるの?」
少年は立ち上がり、必死に走った。掌と膝からじんじんと痛みを感じた。普段なら泣いていたかも知れない。しかし、今は必死に無視した。
涙が出てきた。痛みからではない。両親を思って滲み出た涙だ。
不安で不安でどうしようもなかった。体全体を酸味のきつい液体に浸されたような感覚だった。
とうとう街の近くまでたどり着いた。しかし、その前には人々が壁を作っており、街の全容がまったく見えなかった。
「どいてっ。どいてよっ」
少年は、自分の倍以上ある大人たちを掻き分けて身体を捻り込ませた。
押しては弾き返され、なかなか前進できなかったが、なんとか人溜まりから抜け出し、ようやく街の入り口に立つことができた。
だが、眼前にあったのは街ではなかった。巨大な隕石が落下したのかと思うほどの、とてつもなく大きな窪みがあるだけだった。
「……なに。これ」
少年には事態が把握できなかった。なにが起こっているのか少しも分からなかった。
そこにあるべきものがない。
それは視覚が認めても、頭が受け入れることを拒んだ。理解を超えた状況をいきなり突き付けられ、脳が拒否反応を起こした。
砂塵が舞う窪みの中に、ふらりと一歩踏み入れた。
「おいっ、危ないぞっ」
声を掛けた人はいたが、止める者はいなかった。
少年には、なにが危ないのかも分からなかった。だって、目の前にはなにもないのだから……。
危うい足取りで坂を下ったので、もつれて転んだ。
「あっ!」
背後で声がしたが、少年はなすがままに転がり落ちた。転がるのが止まった時には、身体中に傷をこしらえていた。
「大丈夫かっ?」
さすがに助け起こそうと何人かの者が降りてきたが、少年は保護される前に走り出した。
建物も道もなにもかもがなくなっているので、方向感覚が掴めなかった。だか、ひたすらに窪みの中心を目指して走った。
鮮やか過ぎる夕日が目を刺激して痛いほどだったが、視野がぼやけても走り続けた。
「お父さんっ! お母さーんっ!」
いつから叫んでいたのか。その記憶すらなかったが、とにかく叫び続けた。叫び続ければ、また大きな手で撫でてくれることを信じて。また優しい眼差しで見つめてくれることを期待して。
何度、両親を求めて叫んだだろう。ついに少年の声と気力が枯れ果てた。これは受け入れなければならない現実なんだと、ぼんやりながら認め始めていた。
「お父さん。お母さん。死んじゃったの?」
誰に問うでもなくつぶやき、顔を上げた。
燃えるような黄昏は、もうほとんど沈みかけていた。
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