3月32日 忠実③
「メイド……だって……?」
耳を疑った。今メイドって言ったのか、この女は。
「はい、メイドでございます。何なりとご命令を」
「いやいやいやちょっと待った」
「畏まりました。では具体的なお時間を指定していただけますか」
「そうじゃなくて!」
溢れんばかりの疑問が、俺の脳内で知恵の輪の如く絡み合っている。
「うちに演劇部なんてなかったはずだが?」
やっとの思いで出たのは、そんな回りくどい問いでしかなく。
「左様でございます」
彼女は柔和な表情を崩すことなく、俺の馬鹿らしい問いに丁寧に答える。
「メイドって……え? 俺の?」
「はい」
「雇った覚えなんてないんだけど? そもそも雇う金なんてないし」
「報酬は不要でございます」
そんな都合の良い話あるのだろうか。
「私は貴方様の使用人でございます。その事実に嘘偽りはございません。どうかご理解いただきますよう」
「う……ええ……」
やっぱり夢なのかもしれない。夢とは記憶の整理によって引き起こされる生理現象だ。その中には、あまりに断片的過ぎて元の形を忘れてしまった記憶さえ存在し、それが合成されキメラのような幻想を見せることもある。今見ているこのメイドも、俺の経験(身に覚えはないが)によって作られた夢想の産物、そうだそうに違いない。
「な、なあ」
「はい」
「試しに頬をつねってくれないか?」
「畏まりました」
頬を鋭い痛みが駆けた。少女は遠慮もなく頬をつまみ引っ張っている。
だが目が覚めることはない。
「ってて……ありがと」
「兜様はこのようなことが好みなのでしょうか」
「まさか……ん? ちょっといいか?」
ふと疑問符が浮かんだ。
「なあ、俺って名前言ったか……?」
確かに俺は鳥居兜だ。それはまごうことなき事実だ。しかし名乗った覚えはない。
「主の名前を把握することはメイドとして当然の務めでございます」
ぽっかりと開いた口が閉まらない。
「……一人にさせてくれ」
「畏まりました」
李と名乗る少女は一礼する。その仕草は本物のメイドを思わせた。幼さもまだ残っている顔立ちに端麗な仕草。どことなくアンバランスさを感じさせる挙動だったが、一度目に入れたら離せなくなるのだ。
俺は頭を抱えながら部室の扉に千鳥足で向かう。気疲れで身体の軸が碌に機能しない。なんとかドアノブを探り当て、手を掛ける。そのまま引っ張ると、今の俺には似合わない涼やかな風が舞い込んできた。
「何がどうなってるんだ……」
自販機で買ったカフェオレを口に流し込む。甘さと苦みが溶けあったコクのある味わいが喉を潤した。しかし俺の心は解けそうにない。
空は相変わらず青々としており、綿の如く真っ白な雲が悠然とたなびいている。何の悩みも疲れもない、そんな呑気な様に羨望の眼差しを向けていると、
「はあ……」
自然とついた大きなため息が天へと昇った。
何の気なしに缶を左右に振り、カフェオレが揺れるのを感じる。このままここにいようかな。日が暮れるまで。
あの子——花咲李は、自分が俺のメイドなんてふざけたこと言ってたけど、きっとままごとの一環なんだろう。待っていれば、飽きて帰ってくれるはずだ。
としたら3月32日は結局何なのだろうか。明日は33日、その次は34日。どうして4月がこないのだろうか。
それに……。
服を捲り腹のあたりを擦る。傷跡一つない肌を漫然と眺めながら、また息をついた。
目が覚める前、俺は何かに刺された気がする。痛みも血の臭みも、確かに覚えていた。だがもはや貫いた痕跡一つない。それこそまるで、夢のようで——。
「せっかく楽しみにしてたのにな、大学」
人生で一番ため息をついた気がする。春の日差しは、まるで先ほどの少女のように優し気であった。包み込むような暖気に瞼が重くなっていく。
「ふわぁ~……」
事態の深刻さに違わず、眠気はやってくるらしい。軽くなる意識、閉じられていく視界。
しかしそれは突然俺の背を震わせた。
——ジジジジ。
背筋を舐められたような不快感と鼻を穿るような悪臭に、朦朧としていた意識が須臾にして蘇る。
寒気が身体中を伝い、不意に落とした缶から液体が飛び散った。しかし気にも留められない。この悍ましい感覚に、意識という意識が奪われていた。
——ジジジジ。
この気配……後ろから……?
「……!?」
振り向いた先に、奴はいた。
ハエを拡大したような外見。漆黒の羽を小刻みに震わせたそれは、俺の身体ほどある巨大な双眼をこちらに向ける。
「ひっ」
こいつだ。道中で出くわした奴は。
虫は苦手でないが、ここまで大きければ話が違う。瞼の奥底にまで刻み付けられたその姿は、一言で表すならばグロテスクだった。鋭く伸びた手足から、口元から垂れる赤い液は、もうすでに何かを仕留めたのだろうと直感させられる。そして次が俺であることも——。
——ブオオ。
脳に直接羽音が轟く。疾風が巻き起こったのも束の間、見開かれた目は真っすぐ俺を捉え、口を大きく開けて俺を食わんと飛び掛かる。
その刹那——人影が過った。
桃色の髪をなびかせ、彼女はそれを切り伏せる。果実の抉れる音が鼓膜を掠めた。
手にはナイフ。その刃には黒い汁がこびりついていた。その液を振り払い、眼前の化け物を見据えている。
少女は橙色の和装を纏い、その上にはスモモの如き白妙のエプロン。熟した実のように赤いスカートが、少女の動きに合わせて揺れた。
屈したかに思われた巨大バエが、彼女に狙いを定め羽ばたいた。しかし少女はうろたえることなくハエの両目に刃物を切り込む。黒い液がつくのも気にせず、また一太刀となぞるように線を入れた。
するといともたやすく黒い蟲は二つに分割し、そのまま黒い霧となって消えた。
「駆除完了」
冷淡にひとりごちた李は振り返り、
「ご無事ですか、兜様」
やはり慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「あ、大丈夫だ」
たどたどしくも返事をすると、
「よ、よかったぁ……!」
少女は胸を撫でおろし、大きく息を吐く。
安堵を押し込めたような声に心を奪われた気がした。端正かつ淡麗な所作からあぶれたひとかけら。偽りなき、等身大なる少女の姿がそこにあったのだ。
「あ、いえ……ご無事でなによりです」
素の自分に困惑したのか、李は僅かに頬を赤らめていた。まるで熟れたスモモの実のように。
……俺は、この現実を受け入れねばならないのかもしれない。
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