3月32日 忠実①

 ——3月32日。


 携帯のロック画面に現れたのは、奇妙な日付だった。


「どうなって……」


 夢から覚めていないのか。

 頬を何度つねっても、眼前の光景は変わらない。


「こんなことって……!」


 端末を何度再起動しても、その表示は変わらない。

 痛いほどに眩しいブルーライトに照らされたのは、本来ならばあり得ない事態であった。

 新聞を見てもそうだ。何度も目をこすってみても、刻まれた数字は32。


「誰も……気にならないのか」


 慌てて点けたテレビの画面には、楽し気に笑うニュースキャスター。天気予報のコーナーに移ると、呑気に晴れのマークを並べている。

 33、34、35……地続きの数字が軒を連ねていたのだ。


「4月が……消えてる……」


 拍動が喉から飛び出そうなのを必死に押さえ、考えを巡らせた。訳が分からぬまま額に汗が滲むのを感じる。


「そうだ」


 携帯電話に番号を打ち込み、耳に当てる。猫が喉を鳴らすような音が何度か鼓膜を震わせ、やがて声が聞こえた。集真だ、起きているらしい。


「ふわあー……なぁにさ、こんな朝早く」


 眠気が電話越しでも伝わってくる。

 まだ寝起きなのか。そういえばこいつ、12日からだって言ってたっけ、大学。


「なあ集真、今日は何月何日だ?!」


 俺の気迫に押されることなく、彼は答えた。


「3月32日だよ……それが何?」


 聞き間違いではあるまいか。


「32……? 32って言ったのか?」

「うん。……どうしたの? 大丈夫?」


 その声色は俺を心配しているようだった。


「じゃ、じゃあ、お前いつ入学式だよ?!」


 まくしたてるように俺は問う。


「はぁ……? 3月42日だけど……」

「…………マジで言ってんのか? あ、さてはエイプリルフールだな!?」


 もうそうだと言ってほしかった。しかし彼の言葉は残酷で、


「エイ……何それ」


 冷たく返されてしまった。


「……もういい」


 家族にもかけてみたが寝ぼけているのかと笑われてしまった。


「笑い事じゃないっての」


 携帯を放り投げて皺の付いたベッドに寝ころび、天井を意味もなく眺めた。

 不自然な静寂が部屋を包み、自分の呼吸音だけが充満する。集真も親も、嘘をつくような奴らじゃない。だからこそやるせなかったのだ。


 こんなはずじゃなかった。


 腕を伸ばして時計を手に取る。秒針は正確に時を刻み、長針も短針も、その位置に間違いはない。

 今頃俺は、初めての大学に向けて期待を胸に電車に揺られているはずだった。

 それなのに起きたらこの有様だ。


 入学式要項

 日程:?疲怦?第律

 場所:譚セ陌ォ莨夐、ィ


 ホームページも駄目か。


 ありとあらゆる媒体から4月が消えていた。

 髪を乱雑に掻くと、自然とため息が漏れる。


「どうなってるんだよ……」


 ——4月1日。

 いくら検索をかけてもヒットしない言葉。


「そういえば、部室にその手の本があったか……」


 ワンダリング同好会には幾多もの都市伝説やオカルト、超常現象にまつわる書籍があった。ここまでくれば、普段信じていないものにさえしがみつきたくもなる。


 というか、安らぎが欲しかった。どこにいても32日という呪詛が付きまとう。ならばではないが、時間をも忘れられるあの場所に行きたいと考えたのだ。

 宗教とは、オカルトとは嘘と欺瞞の産物だ。その本質とは結局、極限状態に陥った人間の縋り場でしかないのだと悲観していた。その言葉を身をもって体感することになろうとは思ってもみなかったが。


 俺は最低限の荷物だけ持って、部屋を後にした。




 足は自然と前へ進む。いつもよりも歩幅が大きくなるのは、一刻も早くこの現象から逃れたいからに他ならない。身体がそわそわと震えるのも、きっとその所為であろう。

 手持ち無沙汰な手で眼鏡を押し上げ、周りを見渡した。


 道行く人々は何も知らないのか、取り乱すこともない。

 腕時計を確認しながら小走りで駆けていくスーツ姿の男。反対側には買い物袋を持った女性が二人、世間話で盛り上がっている。その傍らでは三毛猫が日向ぼっこに興じていた。


 昨日までとその光景は変わらない。

 むしろおかしいのは俺の方なのではないかとすら思えてくる。


「たしかこの路地を抜けたら近いんだっけな」


 左側に目を移すと、ひとり分の幅しかない狭い道が続いている。建物に挟まれ、光の届かない直線。

 普段は通らないが、今日は無性に入りたくなる。自分でも訳の分からない緊張を抑えつけ、一歩、また一歩と踏み入れた。


「さむっ」


 半ば無意識に手を上着のポケットに突っ込んだ。

 日陰ということもあってか、路地は薄ら寒い。ひんやりとした風が首筋を舐め、喉に通う風は僅かにカビの匂いがした。自らの足音が壁に反響する。


 光はこの先あと少し。だがそんな矢先——


「——!?」


 腹を激痛が迸る。逆流する赤い液が灰色の大地に落ちるのを目の当たりにして頭の血の気が引いていく。恐る恐る痛む個所を見ると、黒く蠢く何かが腹を貫いていた。もぞもぞと振動するその姿は、何にも代えがたい気色悪さを内蔵している。辛うじて動かした首の先には、黒く大きな目が在った。

 意識が蒸発していく。感覚という感覚が薄れ、しかし血の匂いと生暖かさだけは消えることなく——


 ——少女の影が、脳裏を巡った。

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