ドロップは恋の表現では使わない

橋本洋一

第1話プロローグ

 背中にドロップキックをされた僕は、廊下の数メートル先まで吹っ飛んだ。

 何が起こったのか分からない。前後の記憶があやふやになるほどの痛み。

 息が止まる衝撃の中、後ろをなんとか振り向こうとして――


「真田! これが正義の鉄槌だ!」


 女の子の声。それにしては低音だ。

 僕は激痛の中、いろいろなことを考えた。

 もしかして、僕の背中を蹴っ飛ばしたのは、女の子なのか。

 そして真田って誰なんだ?


「詩織ちゃん! その人、真田くんじゃないよ!」

「えっ? 何言っているの?」


 別の女の子の声。

 同時に周りがざわめく声。

 そりゃそうだ。高校の昼休みで、生徒が行き交う廊下なんだから。


 僕はようやく後ろを振り向けた――倒れたままだったので、首を後ろに向けられる程度だけど。

 そこには、びしっと特撮ヒーローの決めポーズのまま、固まっている背の高い女の子がいた。


「……間違えちゃった」


 人違いかよ。

 怒る気力もなく。

 限界が来て、意識を失った――



◆◇◆◇



 気が付くと保健室の天井が見えた。

 そして女の子二人が僕を覗き込んでいるのが分かった。

 眼鏡をかけていないからぼやけて見えるけど、心配そうな顔が二つある。


「良かった……目が覚めたみたい……」

「うん……えっと、大丈夫?」


 初めは状況が分からなかったけど、徐々に思い出す。

 左の手前側にいる背の高い女が僕を蹴ったことを。


「大丈夫じゃ……ないな。起き上がれない」


 少しでも動くと痛みが増す。このまま寝ていても痛い。

 骨は折れていないようだけど、今晩寝られるか微妙だ。


「そんな……し、詩織ちゃん!」

「とりあえず、先生呼んできたほうがいいかも。神楽、待っててくれる?」


 背の高いほうが詩織で、片方の気の弱そうな女の子が神楽というのか。

 起きたばかりなので、それしか頭が回らない。


「私が呼んでくるよ。詩織ちゃんが行くと面倒なことになるし」


 詩織の返事を待たずに神楽はさっさと先生を呼びに行った。おそらく職員室だ。


「…………」

「…………」


 ドアが閉まる音で沈黙が始まる。

 被害者と加害者を二人きりにしたのだから当たり前だ。

 僕は全然悪くないのだが、気まずそうにしている女の子を見かねて――


「あのさ。君は詩織って呼ばれていたけど、名前であっている?」

「う、うん。そうだけど……」


 黒いショートヘアを指でいじくる詩織。

 困っているらしい。


「そっか。一応、確認したいことがあるんだけど」

「確認したいこと? たとえば?」

「僕が蹴られた理由とか。覚えている限り、人違いだった気がする」


 詩織は「うん。そう」と端的に言った。


「真田と勘違いした。歩き方も背格好も似ているから」

「ふうん。その真田って僕みたいに背が高くないんだね」


 白状すると僕は百六十ぐらいしかない。

 中学の時は毎日牛乳を飲んでいたのに。


「ところで、眼鏡知らない?」


 ぼやけたままだと相手の表情が分からない。

 詩織は「ここにあるよ」と僕の頭の先にある棚から眼鏡を取って渡した。

 ふう。これでようやく視界がクリアになる。


「……って。君は」

「私のこと、知っているの?」


 知っているというか、見かけたことがあると言ったほうが正しい。

 それは詩織が背の高くて目立つ女の子だったからだ。


「入学式のときに見た。やたら背の高い女の子だなって」

「へえ。五月とはいえ、覚えていたんだ。クラスは何組?」


 少しうれしそうな詩織だったが、僕は複雑な思いだった。

 僕は「四組だよ」と答えた。


「四組か。そのクラスに友達あまりいないから、行ったことないや。ちなみに私一組ね」

「ああそう。それで――」


 僕にドロップキックした経緯を訊こうとしたとき、ドアの開く音がした。

 視線をやると、保健の先生と僕の担任の花上先生、そして落ち込んでいる神楽が入ってきた。


「おう。内藤。元気そうだな」

「この状態を見て、よく元気だって言えますね、花上先生」

「喋られるんだったら元気だよ。なあ、福島先生」


 花上先生はシュッとしているが、体育教師なので根が単純だ。

 一方、神経質そうな女性の福島先生は「適当なこと言わないでください」と注意した。


「一応、病院に行って検査受けないと。背中に大きな痣ができているんですから」

「そうなんですか。大変だなおい」


 花上先生ののん気でいい加減な返事を余所に、詩織の顔が真っ青になっていた。

 痣のことを聞いていなかったらしい。立ち上がって「ごめんなさい!」と言う。


「私、とんでもないことを――」

「ようやく、謝ってくれたね。遅かったけど、まあいいや」


 僕の言葉に詩織は不思議そうに「怒らないの?」と訊ねてくる。


「謝ったからいいよ。ていうか、痛くて怒る気力がない」

「あ……」

「病院に連れてってください」


 詩織を半ば無視して先生たちに頼んだ。

 福島先生は「ご両親に話さないと」と腕組みをした。


「学校が何でも解決できるわけじゃないから。双方の両親が話し合ってもらわないと――」

「それは大丈夫です。親に話さなくても」


 福島先生の言葉を遮って、僕はきっぱりと断った。

 あの人たちにはとてもじゃないけど言えない。


「大丈夫って――」

「良いんです。福島先生。俺が車で病院に送っていきますし。治療費も払いますから」


 花上先生が額に人差し指と中指を揃えて撫でる。

 福島先生が反論しようとするけど「こいつにも事情がありますから」と笑った。


「まあ文月と鳥山は後で叱っておきます。後は任せてください」

「……分かりました」


 その後、いろいろと話してから僕は花上先生の車で近くの病院まで行くことになった。

 詩織と神楽は軽く花上先生の説教を受けてから、声を揃えて僕に謝った。


「そんじゃ行くか。内藤、お前歩けるか?」

「ゆっくりなら歩けます」


 とはいうものの、痛みは増すばかりだった。

 一歩ずつよろよろと歩く僕。


「あ、あの。良ければだけど……」


 詩織が僕にとんでもないことを提案してきた。


「背中に乗る? 私の」

「……お前正気で言っているのか?」


 詩織は確かに背が高い。百八十近くありそうだ。

 しかし男子高校生が女子高校生におぶるというのは……


「いいじゃねえか。厚意に甘えろよ」

「先生まで何を言っているんですか?」


 鍛えすぎて脳みそまで筋肉になったのか?

 花上先生は「俺は男をおぶりたくない」と堂々と言った。


「別に変なところ触らなければいいだろ」

「そういう問題じゃないです」


 詩織は「別に触ってもいいけど」とまたもとんでもないことを言う。


「お詫びになるか分からないけど、そのくらいなら」

「あのさ。高校の先生がいる前で言うなよ。いや、いなくても言うな」


 話し合いの結果、妥協案で肩を借りることになった。

 少しは楽になったけど、詩織と密着しているせいで、落ち着かない。

 触れているところ、柔らかいし。何故かいい匂いもする……僕は変態か。


 車に着いて、後部座席に横たわって出発。

 校門を出るまで、詩織と神楽は頭を下げ続けた。


「そういえばさ。内藤ずっとため口だったけど、良かったのか?」


 普段と打って変わって慎重な運転をしている花上先生が、赤信号の際に僕に問う。


「多分、一年生だと勘違いしているんでしょう」

「そうなのか。お前二年生なのにな」

「それもこれも、背が小さいからですよ」

「ははは。違いねえな。でもなんで言わなかった?」

「……別に。ただの気まぐれですよ」


 敢えて言わなかったのは、詩織を慮ったからだ。

 同級生ではなく先輩を病院送りにしたと知ればショックを受けそうだったから。

 知るのは時間の問題だけど、僕の見えないところで知ってくれればそれでいい。


 すれ違うことがあっても、話すことはないだろう。

 きっとそのはずだ。

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