第10話 優勝、そして男爵のもとへ

 スタートはうまくいった。まず逃げ馬が一頭、そのすぐ後ろにつける馬、数頭……ぐいぐいと前に出てレースを引っ張る。全体が縦長にのびていく中、女王はやや後方に位置をとった。


 この展開は悪くない。馬群の中に飲まれてしまえば、経験のないこちらには不利だからだ。

 むやみに内や外を意識せず、余裕を持って走る。


 レースの時間は短い。熱々のスープを冷ましながら、飲みほすころには終わってしまうほどに。

 だが集中力というものは時間をひきのばす。女王だけではない。おそらく全ての騎手が、無数の未来を想定し、愛馬との声なき意志交換をくりかえしている。するどい駆け引きが千日手のごとく行われているのだ。


 ソラはのびのびと走っていた。前に行きたがるそぶりもなく、『いつでも大丈夫』と語りかけているようだ。なんて賢くて頼もしい子……騎手として、この力と信頼にこたえなければ。


 最終コーナー。ここで手綱を押して合図を送る。勢いよく上がっていこうとしたが、勝負どころなのは相手も同じ。

 先行馬たちが塊になっていく。最後の直線にむけて、壮絶な位置取り争いが始まった。ここに割って入るのは得策ではない。



 

 最終直線――


 馬群が左右に広がって進路を阻む。速度を落とさぬよう、ゆるやかな曲線を描いて突入した。外側を大きく回る形。結果、道はひらいた。


 ここです! 温存した力を解き放つ。

 わずか左にヨレかかる。すかさずムチを左、逆手に持ってたたき、方向を調整する。やがてクッ……クッ……と沈みこむ感覚がやってきて、地面の感触が消える。

 空と地面の境界……地平線の中に入りこんだような、不思議な世界だった。


 大外一気!

 ムチをたたきつづけ人馬一体、空を切り裂く刃になった。一頭を追い抜く。二頭、三頭、四頭、五頭――――――そこからは相手も強い。ほぼ横一線に並んだ状態でゴールが迫る。




 最後の瞬間、他の競走馬が視界から消えていた。自分の前には、誰もいない。




 アンナ女王杯、優勝――9番ソラ。




 人々がつむぐ激流のいきつく先は、清らかな大海原だった。海が裂け、あらわになった大地が道を作る。女王とソラの栄光に満ちた道。

 すべての声が、すべての叫びが、すべての想いが今、彼女たちのためにある。

 

 関係者席に目をやると、めいいっぱいに腕を振って喜ぶアニーと家族の姿が見えた。


「おねえちゃーーん!!」

「エルミーナさーん!」


 皆、顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。そんな一家の様子につられて、万感の想いがこみあげてきた。目頭の熱さを伝えるように、ソラを優しくなでる。


「ソラ……ありがとう。よくがんばってくれました」


 青く透きとおった時間が、長く、長く、女王の心身を満たしつづけた。






 レースの余韻とともに観客たちが席を立ち始めたころ。ようやくソラが馬具から解放され、一家のもとに帰すことができた。こちらが恐縮してしまうほどの勢いで、何度もお礼を言ってくる両親をなだめながら、飛びつくアニーを受け止める。

 そんな歓喜の中に割ってはいってきたのが、アデュウ男爵の家来だった。

 

「男爵様が、お前たちを直々にたたえたいとのことだ。来てもらおう」

「えっ! だ、男爵様が?」


 両親は驚きをかくせないようすだった。観戦した貴族が、レースの勝者を呼ぶことはよくあること。牧場主なら、経験しているはずだ。呼び出しに驚く理由は他にある。


「光栄に存じますが、その……あのお方と顔を合わせるのは……」

「まさか断るとは言うまいな?」

「うっ……」


 背筋を伸ばし、ムチをビシリとのばすように挙手して家来の注意を引く。


「私が行きます! 騎手としてあの子の力を引き出し、勝たせたのは私の功績ではないでしょうか! おほほほ」

「エルミーナさん!?」


「フム……急な騎乗にもかかわらず一着にしてみせた。その手腕は認めるべきか。まあ『騎手でも効果は充分にある』だろう。よし、お前だけでいい。ついてこい」


 どこか憐れむように鼻で笑って、スタスタと歩き始める。


「エルミーナさん……実は、アデュウ様はうちと揉めたことがありまして、この呼び出しも一体なにを言われることやら……」

「はい。『先生』から、事情はくわしく聞いています」

「それって、あの医者のことですか?」


 微笑みながらうなずく。優しく、さとすように。


「どうか私に任せてください。きっと、あなた方に良い知らせを持ちかえってみせます」


 アニーの頭をなで終えると、小走りに家来の後を追いかけた。

 背中から小さなつぶやきが聞こえた。


「あのお嬢さん……何者なんだろう?」




 レース中、アデュウ男爵は昨日と同じくテラスにいた。ヒノカが見上げていたのを思い出す。そのテラスに通じる石造の建物には、他の席とつながる通路などない。壁のぼりでもしないかぎり、侵入ルートは入り口の門だけだ。


 女王もここで何度かレースを見たことがある。内部では立食パーティーを行えるほど広い空間がある、壁も厚い。『多少の音や声』があがっても外に漏れないだろう。


 もともと男爵に会うべく乗り込むつもりだったが、いい形で来ることができた。これならば外に騒ぎを広げる心配はない。

 あの二人もきっとうまくやっている。


「ヒノカ……ルネ……こちらは順調ですよ」

「なにか言ったか?」

「いえいえ、なにも。おほほほ」




 大広間の中央につくと、両手を重ねて頭を深く下げた。礼の形である。


「アデュウ男爵様の、おなーりー」


 奥から男爵がやってきた。立つ場所は上段の間。背後には絵画やトロフィーがずらりと展示されている。


「お前が騎手か。もしやと思っていたが、まだ子供ではないか?」

「……このたびはご招待くださり、ありがとうございます」

「フン! あの頑固で融通のきかん田舎牧場の輩も、よほど窮したと見える。どこの馬の骨とも知らぬ者に騎乗させるとは」

「『ひとレースが終わるまでに代わりを探せ』などと言われれば、誰でも良いと考えるのも無理ないかと」


「しかし、それで勝ってしまうのはいささか出来すぎだ。これほど腕のいい人間がすぐ近くに……まったく運のいい奴らめ!」


 つま先で腹立たしげに床をたたきながら吐き捨てる。その様子に、『貴族』を感じることはできなかった。


「……私の力をお認めになってくださるならば、ひとつ男爵様のお耳に入れたいことがございます」

「よけいなことを言うな、男爵様の御前だぞ!」


「よいよい。この者と再び会うことはない。貴族の情けだ、聞いてやろう」


 いま彼は『再び会うことはない』と言った。残念ながら、呼んだ理由は想像の通りらしい。

 わずかに視線を上げてトロフィーのひとつをちらりと見ると、ルネの姿がわずかに映っているのがわかる。


「さすがは男爵様、感謝いたします」




 準備はととのった……はじめましょう。

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