第200話 蓮
季節が夏に近付くと、自然と足が向いてしまう場所がある。
そこには清涼な水で花開く美しい蓮の花があり、私はそれを見る事をとても楽しみにしている。
だからまた今年も、例年通り自然とそこに足を運んだのだった。
早起きが苦手なはずの私が必ず、この時期になると早起きをする理由。それは大好きな蓮の花を見るという目的があるからである。
蓮なんて見てどこが楽しいのと不思議がられるのは、この地域では余りこの花をみる機会に恵まれないからだろう。
私自身、この場所を見つけるまでは蓮を見たことは一度も無い。
だが、この場所に始めて訪れたときに感じた神秘さに、私はずっと魅了され続けている。
蓮の花が咲くのは朝から昼頃まで。昼を過ぎると閉じてしまうため、鑑賞するには翌日になるのを待たなければならない。
水面を埋め尽くす青々とした葉の間から顔を覗かせる淡い桃色が、優雅に開き日の光を浴びる様は、何時みても神々しさを感じてしまう。仏を連想させるその見た目に、無意識にありがたがり手を合わせてしまうのも、そう言う感性に囚われるからだ。
毎日がつまらないと感じている日常も、この光景を見れば心が浄化されていく。
薄汚れた世界の中で目にすることが出来る美しい色。限られた時間だけ現れるその世界に、私はただ、ぼんやりとそれを見つめる。
時折、昼を過ぎても開いたままの花は、残された時間が少ないことを意味しており、翌日にはその姿を消しこの世界から居なくなってしまうということだ。
人という生物とは異なる小さな時間。たった四日間だけ世界に振れ、それを感じて消えていく儚さ。そんな賢明に灯される命の火が私はとても好きなのである。
静寂に包まれた緑の中に存在する美しい水辺。
日常化から切り取られた不思議な空間が私にとっての現実。
本当はそれが夢のようなものだということは分かっていても、これが現実として存在して欲しいという願望が消える事は無い。
いつだって行うのは逃避行動なのだ。
何故なら、私は……この世界で居場所を無くしてしまった。
誤解されることが悪いとは思わない。
思わせぶりな態度をしてしまったのならば、それは多分私の方に問題があったということだろう。
それでも、それをただひたすら受け止め続けることが出来る程、私は強い人間というわけではない。
勝手に抱かれた期待は、少しの亀裂で落胆へと代わり、いつしかそれが裏切りという醜いレッテルへと変わっていく。
気が付いた時はいつだって手遅れで、私がどんなに謝ったところで何も状況を変えることはできない。
だからこそもう諦めてしまおうと思って居た。
それでも私の領域に、誰かは不躾に押し入ってくる。
勝手に扉を叩き開いて置いて、食い煩い講釈をたて喚き散らかして出て行ってしまう。
そうやって荒らされた室内は、いつだって片付けられず汚れていくだけ。
そんな中でもう何年も呆然としているのだから、夢が現実に変わる事を願うようになっても仕方が無いだろう。
私は今、とても蓮の花が羨ましいと感じている。
世界の醜さを見る事も無く、立った四日間だけ美しく咲き誇る僅かな命。
翌日には散り、枯れていくだけの存在だとしても、確かにそれを見て覚えて居てくれる人が居る事は事実。
いつしかそれが忘却の彼方へと消え、その素材自体がこの世界から完全に消え失せて仕舞ったとしても、それを後悔するよりも先に自我が消え、存在自体が希薄なものへと変わっていく。
完全なる消失。
そうやって無くなったものが、私はとても愛おしい。
夏の時期だけ現れる神秘的な花畑は、足を着ければ沈んでしまうほどの脆い土台。
いつか私もその中に、ゆっくり……ゆっくり……と……墜ちて行きたい……。
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