第166話 夏休み

 夏休みに入ると、起床時間は遅くなる。

 休みになったという油断のせいか、狂っていく生活のリズム。

 前日に思い切り夜更かしをしてしまったことも影響しているのだろう。

 親に叩き起こされた事で無理に止められた睡眠をなごり惜しむように、思わず大きな欠伸が零れてしまった。

 それでも、親が働きに出ている以上、毎朝の生活サイクルが大幅に狂うと言うことは残念ながら無い。

 正確には、起床時間は三十分から一時間ほどずれるが、そこから二度寝をするまでの間は、いつもと行動パターンは変わらない、ということだ。

 一度起きたのだからそのまま活動すればいいのにと思いつつ、どうしても自堕落な生活への誘惑には抗えない。

「行ってくるわよ」

 そう言って家を出る母親の後ろ姿を見送った後、エアコンの効いた部屋で一眠り。それは実に、贅沢な時間だった。

 宿題というものが無くなってからは、その怠慢は益々拍車がかかる一方で。自由課題で勉学に勤しむということを頭では理解していても、なかなか行動に起こせないのが自分の駄目な所。いい加減その辺を改善しなければとおもいながら、今日もまた、趣味の時間を優先に動いてしまう。

 そうして気が付けば時刻は夕方。あっと言う間に母親の帰宅時間だ。

「あんた、勉強はやったの?」

 夕食時には毎日恒例のこのことば。

「あー……やったよ」

 本当は何もしていないのに、適当に言葉を濁し視線を逸らす。

「……明日はちゃんとやりなさいよ」

 そうやって逃げる事も想定済みなのだろう。呆れたような声でそう呟くと、母親は大きな溜息を吐くのだ。

「はーい」

 これが、一日の流れ。その流れは、休みの期間中ずっと続いていく。変わることなく。ずっと。


 長い休みの間には、夏季限定の大きなイベントも幾つか存在している。地域が主催の夏祭りや花火大会。コンサートに大型のフェスなど。つまらないことの繰り返しの中でも、そういった特別な祭事に関してはどうしても心が躍ってしまう。

 しかしながら、何事もタイミングというものは存在している。

 今年は天候不良が相次ぎ、ことごとくそれらの催しは中止や延期が発表されていた。

「あーあ。つまんねぇの」

 テレビから流れる天気予報は、接近する台風と活発になった前線へ対しての警戒を繰り返している。

「こんなんだったら腐っちまうよなぁ……」

 今週末は楽しみにしていたゲームイベントがあったというのに、折角買えたチケットもただのゴミと化してしまった。

「俺が一体何をしたっていうんだよぉぉぉ……」

 こればかりは時の運だと分かっては居るが、どうしても納得がいかないと、ソファの上で一人ごねる。

「はぁ……」

 吐いた溜息は、思った以上に大きく、そして重たいものだった。


 こう退屈な日々が続くと、段々と時間の感覚がおかしくなっていくのかもしれない。

 気が付けばカレンダーは、もう折り返し地点を過ぎている。

 それでも、毎日は特に変わらず、変化のないいつものルーチンが繰り返されていた。

 朝、母親に起こされ朝食を食べる。小言を言われながらも彼女を送り出し、冷房の効いた部屋で一人、自堕落な時間を過ごす。昼になったら感じた空腹を満たすため作り置きの食事を平らげ、再び休息。母親が帰宅してから夕飯を食べ、風呂に入って床につく。

 こうやって、一日一日を過ごしていると、いつの頃からだろう。ふと、奇妙な感覚に囚われるようになった。

「それじゃあ、行ってくるわよ」

 今日もまた、母親がパートに出る後ろ姿を見送る。

「うん。いってらっしゃい」

 だが、それは、昨日見た光景と全く同じのように感じてしまう。

 閉ざされたアパートのドア越しに、廊下を歩く靴の音。離れていくそれに耳を傾け、感じる違和感に肌寒さを覚える。

「…………いや。気のせいだよ……な……」

 そう言えば、母親の格好なんていつから気にしなくなったのだろう。

 考えてみれば、彼女は毎日同じ格好をしていなかっただろうか。

 いくらスーパーで働いているからと言え、制服以外の衣服が毎日同じものというのは気持ちが悪い。

 その小さなズレに気が付くと、次から次へと見えてくるのは強烈な違和感だ。

 昨日食べた物は? テレビ番組はどうだった? 天気はどうで、誰から電話がかかってきたのだろう。

 予測出来るパターンが一つずつ符号に合致していくと、やはりこの違和感が気のせいではないと言う事に気が付いてしまう。

「……いつから……」

 こうなった。

 はまってしまった時間のループは、延々と同じ日だけを繰り返しているようで、その日から逃れられない恐怖で気が狂いそうだ。

「明日……明日こそは……」

 今日もまた、今日が終わる。

 暗くなった室内。ベッドの中で瞼を閉じ、願うのは違う明日が訪れますようにということ。

 明日が来るのが怖い。


 いつになったら、この無限ループから逃げ出すことが出来るのだろう……。

 それは、明日にならないと、分からない事……なんだ……。

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