第101話 返済
目の前の数字を見て頭が真っ白になったのは随分と前の話だ。
これは過去に犯した過ちの結果、膨らんでしまった借金の全て。桁を数えるのも億劫になるほどの負債に、何度も自分の存在を消して逃げ出してしまうことを考えた。
それでも未だにこの場所に留まり続けるのは、自身の存在の消失という事実が怖いと感じているからだろう。
結局の所、私はどこまでも臆病で卑怯者なのだ。それを否定する術を、残念ながら私は知らなかった。
そんな臆病者な私は当然の事ながら、この途方も無い数字を見て出来る事を必死に考えた。
効率が悪いと笑われても構わない。地道に負債を返済していく。
狡いことが出来ない糞真面目な性格も災いして、長い時間をかけて必死に少しずつその借金を返済することに決め、私はがむしゃらに働くことを決めた。
私の人生なんて、他人から見たらとてもつまらないものに映るかも知れない。
私自身もそう感じているし、失った時間を今から取り戻す事も難しいと理解もしている。
それでも、私はそんな生き方しかしてこなかった。
そう言う生き方しか知らなかったのだから、誰も責めることが出来ない。
自業自得。そいういう事なのだろう。本当に嫌になる。
ただ、私はその選択を心から後悔しているかと聞かれると、そうではないと答えるだろう。
私にとって良い事よりも、圧倒的に悪いことの方が多いつまらない時間が多かったが、それでも確かに小さな幸せというものは存在していたのだ。
それが、例え、目の前で簡単に消え失せてしまう霞のようなものだとしても、確かに私にとっては幸せだと感じる時間には違いが無かった。
私に課せられたノルマは、数字の大きさの分だけ負担も大きくなる。
簡単に消えてしまえるものでは無いと初めから分かっていたからこそ、私は何とか踏ん張り耐えることが出来たのだろう。
少しずつ減っていく数字を見る度、私に課せられていた重りが一つ消えていく。
身軽に近付けば近付くほど、開放感という言葉を実感させられる。
だがまだ、体中に繋がれた枷と鎖を外すには時間が掛かることも知っている。
そうやって……この数字と付き合って一体どれくらいの時が過ぎたのだろう。
「確認が取れました。こちらで全てです」
目の前に立つ黒いスーツの男が操作しているタブレット端末。そこに表示されているのは、私の今までの業績と返済の履歴だろう。
「これだけの数字をキッチリ完済された方は、後にも先にも貴方様が初めてです」
綺麗にゼロとなった負債に満足したのか、彼はとても嬉しそうに綺麗な笑みを浮かべる。
「お疲れ様でした。今までご苦労様です」
これで雇用関係は終了。私は晴れて自由の身となった。
「今後は、私どもは貴方様に一切関知致しません。こちらから連絡することも、そちらから連絡をされる必要もございませんので、ご安心ください」
義務的に伝えられる機械的な言葉は、どことなく素っ気ない。
「一部、返済に充てられました部分に関しては、ご返却出来ませんのでご了承ください」
その言葉に深く頷くと、彼はそれに満足したように小さく頷いて見せる。
「それでは。ごきげんよう」
長い付き合いだった相手とは、これでお終い。
分かれなんて実に呆気ない。
「……やっと……終わったん……だな……」
彼の姿が見えなくなると漸く感じる事の出来た自由。毎月の督促に怯えること無く過ごす事ができるという事実に思わず胸を撫で下ろす。
「良かった……」
良かった。
その言葉を呟いた瞬間、強い立ちくらみを覚え思わず膝をついてしまった。
「…………良かっ…………」
これで、本当に、良かったのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭を過ぎる。
「…………いや…………いやだ…………」
漸く自由を手に入れたというのに、私には何も残っていない。
「こんなはずでは…………」
『初めから分かっていたことでしょう?』
聞こえた声は幻聴だろうか。慌てて振り返っても声の主の姿は見えない。
「こんなはずではなかったのに」
両手を持ち上げ頭を抱え、地面に蹲り唸り声を上げる。少しずつ早くなる鼓動。見開かれた目からは大粒の涙が溢れ地面へと流れ落ちていく。
『これは貴方様が自ら選んだ選択肢ですよ?』
関与しない。そう言った相手の声が、木霊のようにそこら中に響く。
『貴方が盗んだ寿命という名の時間は、きっちり利子を付けて返して頂きました。後は、残された時を十分にお楽しみくださいね』
私は永遠の命を得たかった。
何故なら、私は死ぬことが怖かったからだ。
だからこそ、死神から寿命という時を盗んだのに、それが莫大な負債として己の身に降りかかった。
私の人生は、とてもつまらないものだったのだろう。
契約を結んでいる間は確かに私は永遠の不死者となれていたのに、返済が全て終わってしまえば、残された時はほんの一握りの砂粒しか無い事に初めて気が付く。
「嫌だ! 死にたくない!!」
私の命はあと何秒残っているのだろう?
私という存在が消えるまでのカウントダウンは、もう既に始まっているのかも知れない。
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