第72話 予約
特別な記念日というのは、とても緊張してしまう。
それは多分、相手に一番良い思い出を作って欲しいからと張り切ってしまうからなのだろう。
それくらい、そう言う日っていうのは自分にとって、特別でかけがえの無いもの。だから、絶対忘れるなんて事はあり得なかった。
月めくりのカレンダーには、数ヶ月前からその日に目立つ印を残している。気が早すぎると笑われてしまうがそんなことは無い。当日になって忘れる方が大問題だから、早め早めにスケジュールを組む方がずっと利口だろう。そうやって特別な日までの残り日数をカウントしていくと、毎日が楽しくて頑張れる気がする。
その日は予めスケジュールを空けておくように念を押し、美味しいと評判の店に予約を入れてスケジュール帳にメモ。
毎年やっていることなのに、今年はいつもと違う事が起こるような予感がして、何かを期待せずには居られない。
でもそれって結局、全部独りよがりの事だったのかも知れない。
何年もマンネリが続いた関係。今年こそは何かしら変化が起こることを期待していた。勿論それは、良い意味での変化を望んで居たし、悪い方の変化が起こる可能性はこれっぽっちも考えていなかった。
今年もやってくる記念日。そこに合わせて予約を入れる。いつも通っている馴染みの場所じゃなく、今回はちょっとお高めのレストラン。随分と前から計画はしていたから、お金の心配はしなくても良い。この日に合わせてしっかり貯金もしてるから。予定は絶対に入れないでと念押しして、この日がくるのを今か今かと待っていたのに、不幸は突然。当日にやってきてしまったのだ。
「悪いんだけどさ、別れたいんだ」
唐突に切り出された別れ話。まだ料理が運ばれてくる前だというのに、何故そんなことを言われたのかが理解出来ず固まってしまう。
「ずっと前から言おうとは思っていたんだけど…………お前、何か、俺には重すぎるんだよ」
一方的に吐き出される言葉は、彼が感じる私の苦手と感じる部分に関する事。それは全部、彼のためを思い、彼のために行ってきていた私の好意だったのに、彼にとってはそれが負担だと感じていたらしい。
「毎年のこの記念日もさ、やりたい気持ちは分かるけど、俺にも付き合いとか約束もあるし、突然の仕事や予定が入ることだってあるんだ」
気持ちは分かる。そこを何度も強調しながらも、遠回しに私の好意をやんわりと拒否する彼の物言いはとても狡い。
「別に俺はさ、こんなしっかりしたお祝いをしたいわけじゃ無いんだ」
小さくても構わない。家で二人、のんびりご飯を食べるだけで十分だったんだと。私の方を一切見る事無く彼はそう呟く。
「前からずっと聞きたかったんだけどさ…………俺って、お前のなんなわけ?」
私からして見たら目の前に座る彼はとても大切な存在。結婚と言う二文字を意識するほど身近で自然に寄り添える相手だと思っていた。しかし、彼の方からしてみると、どうやらそれは異なっていたらしい。
「こう言うイベント毎が好きなのは全然良いよ。でも、それを一方的に押しつけられる方の身にもなって欲しい」
さっきから彼は何を言っているんだろう。私が彼に色んな事を強要していると言っている気がするが、私は一度もそんな風にお願いしたことは無い筈なのに。
「初めの頃はせっかく用意ししてくれたし、嬉しかったからその誘いに乗っていたけど、毎年こちらの都合も聞かずに勝手に店を予約してスケジュールを組むのは、もう我慢が出来ないんだ。息苦しくてしょうがない!」
だからもう、終わりにしたい。
一番大切な日に告げられた一方的な別れの言葉。
せっかく奮発して良い店を予約したのに、一口も料理に口を付けず、彼はこの店を出て行ってしまうのだろうか。
「…………分かった」
本当は別れたくないけれど、取りあえず予約したご飯だけは一緒に食べて欲しい。だから一度はその言葉を受け入れるように理解を示す言葉を呟く。
「でも、少しだけ私に時間をちょうだい」
「時間?」
「せっかくお店、予約したんだし、ご飯だけでも食べようよ」
席を立つべく腰を浮かせた彼を手で制止、お願いと両手を合わせる。
「…………分かったよ」
彼は渋々この提案を受け入れ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
店内に流れる落ち着いたクラシックは、悲しい旋律を奏る。今この気分と相乗して気が憂鬱になるのに、美味しそうな料理だけは目の前に並べられていくのが悔しくて仕方が無い。
「……美味しいね」
美味しいという言葉が似つかわしくないほど暗い声。目の前に座る彼は一言も言葉を発せず、ただ黙々と皿の上の食べ物を片付けている。
「私、一生懸命頑張ったんだけどなぁ……」
誰に語るでもなく溢れ出す言葉が止められない。貴方のために、貴方を思って、貴方だけを喜ばせたかった。全ては貴方に認めて欲しかったから、だから一生懸命やってきたのに、何故私の努力は報われなかったのだろう。
いつの間にか視界をにじませる涙が頬を伝いテーブルへと落ちる。声が詰まって言葉が吐き出せないのが辛い。
「そういうのが重たいんだよ」
最後の一口を平らげた彼が、静かにフォークを置いたところで食事は終了。
「代金はここに置いておくから」
財布の中から大きな金額の札を数枚抜き取りテーブルの上に置くと、私の事を見る事無く彼はその場を去って行こうとする。
「本当に好きだったんだよ?」
縋りたかった。別れたくなかった。捨てないでと声を上げて引き留めたかった。
「俺はお前の事、嫌いになり始めていたよ」
すれ違いはどこで起こったのだろう。それが分かればもう一度、彼と幸せな未来を築く事が出来るのだろうか。
「次に付き合う奴には、こんな事するなよ。じゃあな」
それは多分、彼の最後の優しさだったのかも知れない。
「すいません。予約、内容の変更をして貰ってもいいですか?」
彼が出て行く直前で、ホールスタッフにそう声をかける。彼は小さく頷くと、彼の後を追いかけ、彼を呼び止めた。
「……また、間違えちゃったんだなぁ」
静かに瞼を伏せ、深紅色のアルコールを口に含み舌で転がす。背後からは彼の上げる叫び声。そのうちそれも聞こえなくなる。今頃きっと、店のドアは彼の血で真っ赤に染まっていることだろう。
「お待たせしました。こちらは、どのように調理なさいますか?」
先程のスタッフが真っ赤に染まった手でメニューを提示してくる。
「お任せでお願いできますか?」
どういうのが好みかなんて分からない。だから最も狡い答えで返すと、彼は「かしこまりました」とだけ言い残しキッチンへと消えていった。
「……また、新しいの、探さなきゃ」
好きだった。大切だった。
でも、手に入れられない玩具なら、もう要らないよね。
壊してしまったんだから責任を持って食べてあげる。
「次は、このコース、利用しなくても良くなればいいな」
クルクルとワイングラスの中で揺れる深紅の液体。この味が、彼と美味く混ざれば良いのにと願いながら、私はそれを静かに口に含んだのだった。
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