第33話 ドーナツ

 今日は珍しくドーナツを作ることにしたのよ。

 どうしてドーナツなのかって言うとね、私の大切な宝物のためなの。

 私の宝物はもちろん、可愛い孫たち。そう! 今日は、娘が孫を連れて遊びに来てくれるの!

 私はね、今までドーナツっていうものが分からなかったんだけど、孫たちはあんまり家で用意しているお菓子が好きじゃないみたいなのよ。まぁ、最中や煎餅みたいな和菓子は、孫たちの口には合わないのかしらね? どうぞって出してもいつも残っちゃうから、思い切って「どうして?」って聞いてみたのね。そしたら、「ドーナツが食べたい!」って教えてくれたの。

「おばあちゃん、ドーナツって食べたことないの」

 そう言って困った顔をしたら、孫たちは吃驚した顔を見せた後に、

「じゃあ、教えてあげる!」

 って活き活きとした顔で言ってくれたのね。その後に孫たちと娘に誘われて、始めてドーナツを買って食べたんだけど、これがまぁ、本当に美味しくてねぇ。つい、

「今度はおばあちゃんがつくってあげるね」

 って約束しちゃったの。

 それを聞いた孫たちは、飛び上がって喜んでくれたから、もう後には引けなくなっちゃって。だから、思い切って今日、作ってみることにしたのよ。

 お父さんはドーナツは好かん! って早々に出かけちゃったから、味見をしてくれる人が居ないのが残念だけど、その代わりゆっくりレシピを確認しながら料理が出来るから、逆に良かったのかしらね。

 レシピと言えば、昔はこうやって紙に書いたものを、作業の合間合間に捲りながら確認したものだけど、今って随分便利になったのねぇ。

 娘に買って貰ったタブレットってやつ? これで簡単にレシピが探せるのねぇ。

 ネットってやつはまだ詳しくはないのだけれど、作りたい料理名を伝えると一杯表示されるじゃない? その中から一番上に出てきたもの? それを開いて作業をしてみることにしたの。

 始めて作るドーナツは、なかなかドキドキするものね。お料理自体は苦手ということではないから、レシピを見ればそれなりに作れはするのだけれど、問題は孫たちが気に入ってくれるかどうか。なんせ、始めて作るお菓子だもの。食べて貰うまで結果は分からないじゃない。

 だから分量を間違えないように注意して慎重に作業を進めてるの。いつもよりも時間が掛かっているのはそのせいなのかもしれないわね。


 ……あっ。

 そうこうしている間に、孫たちが来ちゃったみたい。

 ちょっと作業の手を止めて、孫たちを迎えてこなくちゃ。おばあちゃん、まだドーナツを作ってる最中なのごめんねって謝らないといけないわね。


 ねぇ! 聞いて頂戴!

 本当は孫たちが来る前にちゃんと用意しておきたかったのだけれど、未だ途中なのよって言ったら、孫たちが一緒に作ってくれることになったの!

 一緒にお菓子を作れる日が来るなんて、嬉しくて涙がでちゃいそうだわ!

 娘は無理しないでって言ってたけれど、幼い内から料理に触れさせるのも大事じゃない?

 もちろん、揚げ物をするときは私が責任を持ってやるわ。でも、こうやってやるのよって見て貰うにはいい機会なのかも知れないわね。

 ちゃんと娘にも付き添って貰いながら一緒に作る事にしましょう! きっと楽しいわ!



 この記録は、若宮東子という女性のものだ。彼女は会う度にいつも同じ話を嬉しそうにしていた。それは、孫と始めてドーナツを作った日のことだ。だが、この先は、いつも同じところで切れてしまう。

 それはドーナツを揚げ始めて直ぐの場面。

 そこで必ず彼女は取り乱し、叫び声を上げて倒れ込んでしまうのだ。


 何があったのかを調べてみたところ、彼女はどうやら火事で娘と孫を亡くしていることが分かった。彼女の話を聞く限り、彼女の記憶はそこで途切れてしまっているのだろう。

 その事を彼女が認識しない限り、彼女の時間が進むことは考えられない。

 私の仕事は、彼女の時間をどう動かすか。その方法が未だに探せず、頭を抱えてしまっているのが現状である。

「……はぁ……どうしたらいいのかしら」

 行き詰まってしまった方向性。もう何ヶ月も堂々巡りをしていると、流石に気が滅入ってきてしまう。どうすればいいのか分からず頭を抱えたタイミングで同僚が声を掛けてきた。

「どしたんですか?」

「いや……この患者さんなんだけどね……」

 こういう時はだれかに意見を聞いた方が良いのかも知れない。一人で考えていても埒があかないがあかないため同僚にカルテを見せて溜息を吐くと、彼は「この患者ですか……」となにか言いたげに唸り声を上げたのだ。

「何? その反応……」

 この反応は予想外だった。カルテを見ただけでは客観的な判断しか出来ないはずなのに、彼の反応には少し違和感を感じてしまう。その反応が気になって声を掛けるてみれば、彼は言いにくそうにこう呟いたのだった。

「この患者さん、ちょと気になるんですよね」

「え? どういう事?」

 気になるとはどういう事なのだろうか。詳しく教えて欲しいと目で訴えると、困った様に頭を搔きながら、彼はこう言葉を続けてくれた。

「何て言うか……一度先輩の休みの日にこの患者さんと話をしたことがあるんですが……何て言うか……先輩のカルテの内容と印象が違うというか……」


 この患者さん、叫ぶ前に笑うんですよ。嬉しそうに。


 「おかしいですよね」。多分気のせいだと思いますけど。と、言葉を濁しながら、彼は見ていたカルテを私に返してくる。


 その言葉を聞いた瞬間、とても嫌な想像をしてしまった。嫌な汗が止まらない。それ以上は考えるなと頭の中で鳴り響く警鐘。

 多分それは、気のせいだと思う。

 ただ、その真意は、本人に聞いてみないことには分からない。


 記憶の中のブラックボックス。それが開く日が来るのは、果たして良い事なのか悪い事なのか。


「先輩、気をつけて下さいね」


 彼が言ったその一言が、私をとても不安にさせる。

 願わくば、最悪のシナリオが現実になりませんように。

 そう、心から願うしかなかった。

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