口のきけない少女

5z/mez

口のきけない少女

 その娘は、亡霊より唐突に現われた。

 数日降り続いた雨が止み、裏手の山から土砂が崩れてきやしないかと村中が戦々恐々としていたときだ。山のほうからふらふらと近づいてくる小さな影があった。それが彼女だった。

 娘は頭から爪先まで泥水に濡れていて、覚束ない足取りでまっすぐ村へと歩いてきた。村人たちは初めこそ遠巻きに見ていたが、近づいてくるにつれ娘が十を超すか超さないかの年頃とわかると、情け深い幾人かが声をかけに走った。そのなかには俺の許嫁の父親が混じっていた。彼はふらつく娘を支えようと彼女の体に軽く触れた。

 途端、娘は白目を剥いて倒れた。体はすでに限界で、意志の力だけでここまで辿りついたことは想像に難くなかった。娘はそのまま許嫁の家に運ばれ、高熱を出して数日寝込んだ。見ず知らずの病人の看護を、彼の家族はかいがいしく行った。

 娘の衣類はどれも上等なものだった。泥まみれではあったが、生地は厚くこしがあり、靴は泥を落とせばピカピカ光った。きっとどこかいいところのお嬢さんで、介抱すればいくらかお礼をもらえるだろう。彼らがそう思ったかは知らないが、他の村人は間違いなく思った。「いいところの娘なら、うちが引き受ければよかった」と。

 しかし、娘が目覚めてからは様子が変わった。許嫁と会うがてら様子を尋ねると、彼女はめずらしく言い淀んだ。

「昨夜目が覚めたのよ。でも……」

 どうやら娘は口がきけないようだった。おまけに記憶も失っていて、自分がどこの人間なのか、どうしてあんな状態で歩いていたのか、何ひとつ思い出せないらしい。

「妹ぐらいの歳だから、なんだか不憫なの」

 許嫁の家族は困っていた。訳ありなことは明白だが、まだ幼い娘だ。探されている可能性が大きいし、元気になったら家へ帰すつもりだった。それなのに、出身も名前も、ひとり歩いていた理由もわからないという。許嫁の家は村では裕福なほうだったが、見ず知らずの人間を長々と置いておくだけの余裕があるわけでもなかった。

 しかし歳が歳であり、口も不自由なので、放りだすのも寝覚めが悪い。彼女も村にいることを望んでいる様子なので、村民は話し合って、村の外れの小さな小屋を彼女に貸し出すことにした。仕事を覚えるまでは養うが、そのあとは村民の手伝いをしてその日の糧を得るようにと。唖となってしまった少女には酷な話に思えたが、彼女は承諾して村の外れに住むようになった。彼女は呼び名をもらい、その衣服は彼女を養うための資金となった。


 少女はよく働いた。やはりいいところの娘らしく、覚えがよく、何より字が書けた。村では一部の大人しか文字の読み書きができなかったので、彼らの手を煩わせずに文字を覚えたい大人子どもたちは、これ幸いと彼女に字を習いに行った。彼女はそれだけで日々の食事には困らなかったが、空いた時間で村人に教えを乞いに行き、村民として馴染もうとしていた。

 俺は村で数少ない字の読める大人だった。家は代々作物を育てていたが、三男の俺は多少頭の出来もよかったので、街へ出て商家で奉公をし、算盤と読み書きを覚えて戻ってきた。彼女との意思疎通は身振りを除けば文字でしか行うことができなかったので、いちばん歳が近い(といっても十以上離れていた)俺が彼女を気にかける立場となった。許嫁もすっかり情が湧いたらしく、頻繁に彼女の元を訪れた。

 働き者の娘は皆に好かれた。とはいえ、間が悪く仕事がもらえないこともあり、そんなときは俺や許嫁がいくらかの食糧を彼女の小屋へ持っていった。そんなことが何回かあって、許嫁から相談を受けたこともあり、俺は毎朝彼女のところへ向かい、今日受ける仕事の目星がついているかを尋ねることにした。あの家は今日は休むつもりだ、あそこは用事が入って朝から街に出た。そんな情報は村の中心に住む俺のほうがはやいので、一日のはじめに彼女に伝える。仕事の心当たりがなければ、こっちで適当な仕事を振ってやることもできた。彼女は食いっぱぐれることがなくなり、たいそう喜んだ。

 それ以来、彼女は俺に特別懐くようになった。俺の姿を見ては手を振るし、それまでは身振りですませていた村人との意思疎通も、俺が側にいるときは仲介を頼んでくるようになった。意味深な視線が多くなり、その一方で、用があるのかと尋ねれば首を振られることも増えた。そうしたことがあった日は、俺はその日の終わりにも彼女の家に寄り、話を聞くようにした。

 初めこそ何も話してはくれなかったが、何度か通ううちに、彼女はぽつぽつと思いを打ちあけるようになった。

 この村に拾われたときのことを考えるようになったこと。はっきりしたことは覚えていないのに、断片的な記憶だけが残っていること。山の中の景色や馬車の揺れ、土と草のにおい――そんなとりとめのない、しかし確実にあのときの記憶なのだとわかる情景が、時おりふっと浮かんでくるのだということ。

 帰りたいかと尋ねたが、それには彼女は答えなかった。


 俺はますます少女を気にかけるようになった。あのときの沈黙は確かに彼女の答えに感じた。心のなかに故郷への思いがあるからこそ、自分を助けて受け入れてくれた村への恩義から、彼女は気持ちを吐露できないのだ。気づいているのは俺だけだった。

 彼女の様子を気にするのと比例して、婚約者に会う時間は減っていった。もっと少女を気にかけてほしいとはじめに言ったのは彼女のほうだったのに、いざそのようにしていると、許嫁は「少しやり過ぎなのではないか」と言うようになった。

「あなたはあの子を気にしすぎているように思う。朝は彼女を迎えに行って、仕事を世話して、夕方には彼女を送っていく。そこからしばらく戻ってこない日もある。一緒に夕食を食べているんでしょう。するなとは言わないわ、誰かと一緒に過ごして、ご飯を食べてというのは、彼女にとってもいいことだもの。でも、それなら他の人も誘うとか、それこそ私に声をかけてくれたっていい。もっといろいろな人と関わるきっかけにするべきよ。あなたといつまでも二人きりなんて、彼女にとってもよくないわ。何かあると思っているわけじゃないのよ。あの子は幼いもの。だけど、仮にも女の子が、男と四六時中一緒だというのは、外聞としてもよくないわ」

 俺は頭に血がのぼって、強い言葉で許嫁をなじった。自分たちの間にやましいことは何もない。許嫁は娘のことを心配しているような口ぶりで、結局下劣な想像に心砕いている。自分の嫉妬やさもしさから出る発言を、相手を心配する善良な心から出ているかのようにすり替えている。それが無性に腹が立った。

 許嫁に呼び止められたのは娘の小屋で夕食をとってきた後のことだったが、あまりに気持ちが高ぶった俺はその足で小屋にとって返した。険しい顔で戻ってきた俺を見て娘は驚いた顔をしたが、そのままなかに誘ってくれた。彼女が与える無言の優しさは俺の気持ちを落ち着かせた。

 俺が話すことを、娘はただ頷いて聞いた。一通り話し終えて「どう思う」と尋ねても静かに首を振るだけだった。その瞳は柔らかく、どこか遠くを見ているようにすら思えた。

 彼女を幼いと断じる許嫁は間違っていると俺は思った。少女の浮かべる表情のひとつひとつは、老齢さえ思わせる静けさに満ちていた。

 娘の瞳をのぞきこむ。彼女の目には確かに俺が映っていた。


 あの一瞬――瞳を交わした永い永い一瞬から、俺たちの関係はまた変化を迎えた。彼女は今まで以上に俺を特別に感じているようだった。会えば顔を輝かせ、去ろうとすると悲しげに目を伏せる。文字で語ることは少なくなっていた。それは、語らずとも互いが望むことがわかるようになったことも一因していたが、彼女がその内心を語る言葉を持たないからではないかと俺は感じていた。言葉を得るには教育と経験がいる。彼女はそれを身につける途中でここにやってきたのだ。しかしその分、瞳に込められた温度は雄弁にその情熱を語っていた。

 俺たちが互いへの理解を深めることに対して、周囲の理解は乏しかった。特に許嫁は何度も俺に苦言を呈した。それどころかときには彼女の家にまで押しかけ、俺を入れないよう頼みこんだ。俺はその度に注意した。村全体で受け入れた娘に、これ以上何を強制しようというのだと。俺たちの話は平行線だった。

「あなた最近おかしいわ。彼女ともっと普通に接して。大人として尊敬できる態度をとってよ」

「充分彼女を気にかけてる。これ以上どうしろっていうんだ? この村でいちばん彼女のことを考えているのは俺と言ってもいいくらいだ」

「普通に接してと言ってるの。他の子どもと同じように。あなたの干渉は過剰よ。あの子だって窮屈がってる。気づかないの?」

「勝手に決めつけるな。きみにあの子の何がわかる? 彼女は俺を頼りにしている。遠ざけることはできない!」

「あなたに頼れなくても他の人に頼れる。この村ではそうやって助け合っているじゃない。あなたじゃなきゃだめだってことはないのよ。あなたはあの子が他の人に頼る余地を潰してる。あの子を自分に縛り付けてるだけ。あの子は村が受け入れた。村全体で世話するべきよ。これから彼女はどんどん女になる。そのときもあなたがすべて相談に乗るっていうの?」

 俺が口ごもると、彼女はたたみかけるように続けた。

「あなたは確かに今、あの子といちばん近い大人よ。あなたがするべきは、彼女と他の人たちとの仲を取り持つこと。あの子と仲良くしたいのに、あなたがいつも側にいるから声がかけられないって子どもたちもたくさんいる。もう少し周りを見て、自分のしてることがどんな目で見られるのかってことも考えて。……父も言ってたわ、このままじゃ結婚させられないって」

 俺は黙ったままでいた。許嫁はそれに満足したのか、きちんと考え直すよう念を押して帰っていった。

 家に戻ると家族のよそよそしさが身に染みた。彼らにも注意されたことはあったが、村の一員として彼女を気にかけているだけだと力説すれば、それで彼らは引き下がった。息子のいうことだし、もうすぐ結婚するのだしと、そういう思いでいたのかもしれない。しかし家まで来た許嫁と、家の裏手から聞こえた彼女と息子との口論は、彼らの態度を変えさせた。

 俺は次の日も娘の小屋に行った。卵を持っていき、一緒に朝食を取った。彼女のその日の仕事について意見を言い、彼女は神妙に頷いた。近ごろ彼女は独自に仕事を仕入れていて(文字を教える予定が入っていることが多かった)、俺の意見はあまり受け入れられなかった。それでも俺が話すのは、彼女が視線で促すからだ。その落ち着いた振る舞いに、俺は許嫁の言葉を思い出した。子どもたちが彼女に近づきたがっているらしい。あんな猿たちが、この子の何を満たしてやれるというのだろう。

 日中は俺も自分の仕事をした。昼に彼女の様子を見に行って、午後はまた仕事に戻った。終わり頃に迎えに行って、食材を少し持って、彼女の小屋に帰る。誰に何を言われても日課は止められなかった。途中許嫁が険しい顔でいるのに気づいたが、俺は無視した。

 他の誰かが同じことをすると申し出るのであれば、俺も喜んでそいつとこの役目を分かち合うつもりでいた。しかし誰も自分からは動かず、ただ俺に自分たちが望むように動くことを期待して、それが行われないと文句を言った。俺には理解できなかった。

 食後、俺は自分の気持ちをつらつらとこぼした。彼女は何も言わなかった。「俺はきみに干渉しているか」と尋ねると、一瞬間があった。それはほんの一瞬のことだったが、俺の血の気はサッと引いた。聞きたくないと強く思い、発言を撤回しようとした。しかしそれをする前に、彼女は緩やかに首を振った。

 俺が露骨にホッとしたのに気づいたのだろう、彼女は小さく笑った。格好悪いところを見せたのが恥ずかしくなり、一方でもっと笑ってほしくて、俺は特別おどけてみせた。彼女がにこにこするのを見て、俺は満足して椅子にもたれた。

 その日の夜、俺は許嫁の家に呼ばれ、俺たちの婚約は流れた。


「一時的なことなのよ」元許嫁は言った。「あなたが誠意を見せてくれれば、きっと戻れる。お願いだから考え直して」

 彼女は泣いていた。俺が来る前から泣いていた。父親が話しているときも「まだはやいわ」「私に任せて」と何度も何度も繰り返した。ずいぶん縋ったのだとすぐわかった。同時に、そこまで大事になるものなのかと驚きもした。

 許嫁は、幼いころから許嫁だった。歳が近いのが互いしかおらず、自然と結婚することが決まっていた。俺との婚約を解消したとして彼女はどうするのかと父親に尋ねたが「お前が気にする必要はない」と一蹴された。

 彼女は俺にとって特別だった。しかしそれは許嫁だったからであって、その関係がなくなってなお絆を繋ごうと思うほどの情熱は俺にはなかった。

 だからてっきり彼女もそうだと思っていた。決められていたことだから決められたとおりにするのだと。彼女が泣いて父親に縋って、今なおこうして態度を改めるように言うのは、俺にとって意外なことだった。

「あなただって、これでいいなんて思ってないでしょう?」

 それに答えられないでいると、彼女はますます涙をこぼした。

「そうだって言って……愛してるの」

 その言葉は、今までの何より俺の心に響いた。震える肩におずおずと触れると、彼女はそのまま俺の肩口に顔を埋めた。触れたところからじわりと熱が広がった。

「諦めないで……お願いよ……」

 か細い声に動けないでいると、彼女の家の戸口のほうから父親の呼び声が聞こえた。彼女は途端に身を翻し、俺の元から去って行った。


 翌朝、俺は娘の小屋に行かなかった。この習慣が始まってから初めてのことだった。驚いた顔の両親と久しぶりに朝食を取り、そのまま仕事に向かって、陽が傾くまで働いた。

 何か考えてそうしたわけではなかった。娘から離れるにしても、距離は少しずつ取る必要がある。これからどうしたらいいのか、とりとめもなく浮かぶ考えをまとめられないでいると、娘が小屋に戻ろうと歩いているのに出くわした。

 浮かない顔だった彼女は、俺を見ると表情を明るくした。朝はどうしたのかと言いたげに眉根を寄せたかと思えば、これから来るのかと言うように小首を傾げる。たまらず「送るよ」と言うと小さく頷いた。

 道中、彼女は頻繁に俺の顔を見上げた。これは今までにないことだった。俺の口数が少ないことを気にしているのかとも思ったが、ただふたり並んで小屋までの道を歩いたことは今までに何度もあった。

 彼女は朝俺が小屋へ行かなかったことを、俺以上に大きく捉えているようだった。俺の考えなしの行為に対し、彼女は明らかに不安を抱いていた。いつもより俺の近くを歩くので、俺の手は何度か彼女の腕に当たった。その度に彼女は俺の顔をのぞきこみ、目が合うとはにかんだ。

 彼女と一緒に夕食を取った。俺は彼女がどの程度村の話を耳にしているか気にしていた。俺が許嫁との婚約を解消された話は一晩で周知の事実になっていたので、彼女も知っていておかしくなかった。

 許嫁の望むようにするのが正しいのだろう。彼女を徐々に遠ざけて、同時に村の人間との仲を取りもっていく。俺たちさえその気なら、いずれ父親にも許してもらえるはずだ。

 理解を求めるならはやいほうがいい。しかし俺は言い出せなかった。言おう言おうと顔を上げるが、そのたびに彼女のつぶらな瞳が俺の口を閉じさせる。身内ならまだ厳しい話もできるだろう。だが彼女は赤の他人で、身寄りのない少女で、おまけに俺に懐いている。俺だけが、彼女が頼りにできる唯一の大人なのだ。

「今朝は来れなくて悪かった」

 ようやくそれだけ言うと、彼女は首を振った。瞳に責めた様子はなく、理解と安堵だけがあった。

「これから、来れなくなる日が増えるかもしれない」

 瞳の色が困惑に染まった。彼女の視線が泳ぎ、テーブルに固定される。視線の側に置かれた手が微かに開閉を繰り返し、何か言いたげなその仕草に、思わず俺は彼女の手に触れた。手は一度ぴくりと跳ね、固く動かなくなった。

「平気か」

 彼女は頷いたが、眉根は寄せられ、瞳は悲しげに潤んでいた。どうして、と思っているのがすぐわかった。しかしそれを言えないでいるし、言うつもりがないことも。

「したくてそうするわけじゃない。でも、そのほうがきみにとっていいとみんなが言うんだ。俺と距離を取って、他の村民と仲良くしたほうがきみのためだと」

 一度口にしたら止まらなかった。彼女の視線が、表情が、俺の罪悪感を引きずり出す。彼女の力になろうと気を配っておきながら、周囲の圧力に負け手を引こうとしている情けなさを突きつける。俺の言葉には必死さが滲んでいた。彼女の瞳に言い訳するため言葉をつくした。しかしそれは俺をますます惨めにするだけだった。

「きみはどう思う」

 そう尋ね、しまったと思った。しかしそれこそ俺が本当に聞きたいことだった。周囲のことなど些事にすぎない。彼女がどう思っているのか俺は知りたかった。大人として毅然とすべきだとか、彼女に決定を任せるべきではないとか、そういった考えが浮かばないではなかったが、彼女の気持ちを聞きたいという感情がすべてを拭い去っていった。

 彼女は俺の手のひらの中から小さな手を引き抜くと、俺の手の甲にそっと触れた。指先は暖かかった。視線がまっすぐ注がれ、俺の視線と絡んだ。

 互いに目が離せなかった。純な瞳から注がれるあどけない感情が、俺の視線を絡め取っていく。胸の奥に熱いものを感じた。

「家に帰りたいか……?」

 この小さく、か弱く、一途に俺を信じている少女のために、何でもしてやりたい気持ちが膨れ上がる。昨日の夜、確かに胸を打ったはずの婚約者の涙は、記憶の川の一部と化して遠くに流れていった。

 娘は俺の手の甲から離した指先をぎゅっと握り締めた。そして小さく頷いた。


 翌日俺たちは村を出た。村長と俺の親と許嫁の家には説明をしたが、中身はまったくの嘘だった。娘は記憶を取り戻し、俺は彼女を家まで送り届けたのちに戻ってくることになっていた。しかし本当は彼女の記憶は戻っていなかったし、俺も戻ってくるつもりはなかった。

 許嫁は俺の話を信じ、待っているからと言った。許嫁の表情からは、娘がいなくなることをさびしく思いつつも、確かな安堵があるのが見て取れた。

 行き先は決まっていなかった。しかし表向きは彼女の故郷へと向かう旅だ。少女の希望もあり、俺たちは山を越えることにした。

 村の裏手の山は大人ひとりであれば一日で越えられる距離だったが、そこから近くの村までとなるともう少しかかった。そのため山を越えようとする者は、山頂近くにある小屋で夜を越してから山を下りるのが通例だった。

 肩の力を抜き、気の向くままに歩いた。娘は山に入るのが初めてのように振る舞った。実際にそうだった。山の景色を見ても彼女の失われた記憶に変化はなかった。花や茸を見かけると物珍しげにしげしげと眺め、小川のせせらぎに耳を澄ます。俺たちは頻繁に休憩を取り、彼女はそのたびに木漏れ日を浴びてくるくると回った。

 小屋に着いたころには陽が傾いていた。俺たちは小屋の外に並んで立ち、赤々と燃える陽が地平線の奥に沈むのを眺めた。「綺麗だな」と言うと、彼女も小さく頷いた。

 つい最近誰かが使用したようで、小屋の中は綺麗だった。一人分の藁が部屋の隅に積んであった。促すと、彼女は藁の上にちょんと腰を下ろした。

 俺たちは持ってきたパンと干し肉を少しずつ食べた。いろいろと荷物に入れてきてはいたが、節約しなくてはならない。ひとまず大きな街まで行ってから今後のことを決めるつもりでいた。途中の村に泊まりつつ街まで行くことについて、娘にはすでに話していた。そこにとりあえずの拠点を置き、仕事を探すつもりでいたが、長くいられないこともわかっていた。ある程度金が貯まったら、もっと遠くへ行かなくてはならない。

 頭の奥の冷静な部分が警鐘を鳴らしていた。すべてを捨てようとしている。名も知らぬ少女のために。山を下りてしまったら、もう戻れない。

「これでいいのか?」

 俺の声に、彼女はちらとこちらを見た。微かに笑って頷く。それでも落ち着かず何度も座り直す俺を見かねて、彼女は腰を少し動かし、藁の上にスペースを作ってくれた。好意を無碍にするのも気が引けて、俺は彼女の隣に腰を下ろした。

 俺の不安を彼女は敏感に感じとっていた。俺が隣に来ると、彼女は安心しきったように肩の力を抜き、瞳を伏せた。揺れる頭が一度、二度、俺の胸にぶつかった。

 猫がじゃれているみたいだった。肩に手を回す。彼女は体を硬くして俺を見た。大丈夫だという気持ちを込めて、肩から腕にかけて優しくさすってやる。そのうちに彼女のからだから力が抜けていった。

 心地よい重みが俺の体にかかった。初めこそ不自然さを感じた温もりも、いつしか俺の体温と混じって離れがたいものになっていた。彼女は俺を信じ、肯定し、俺にすべてを預けていた。心も、体も、未来も――。細く指の中を滑る髪の毛を何度も撫でる。気持ちがいいのかくすぐったいのか、彼女は俺の腕のなかで身じろぎした。

 手を止めると彼女は俺を見た。潤んだ目には俺だけが映っている。頬はほのかに赤らんで、薄い唇が誘うように震えているのが見てわかった。

 乞われるまま俺は彼女に口づけた。許嫁のものとは違う、厚みのない未発達の唇は、苦労せず口に収まった。唇で何度もはんで軽くしごく。彼女は弱々しい手で俺の服を掴んだ。きつく閉じられた唇に舌を這わす。途端に彼女は身悶えた。

 無知故の抵抗なのだと思った。急に差し込まれようとした異物に驚き、暴れただけなのだと。しかし抵抗はどんどん強くなり――しまいに俺はバランスを崩して尻餅をついた。

 俺は驚いて彼女を見る。彼女は奇妙な姿勢で固まっていた。表情は硬く、目は見開かれて暗く濁っていた。

「どうした?」

 声をかけて手を伸ばすと、彼女は小さく身を引いた。心配で触れようとすると、更に身を引く。彼女は首を振る。何度も――何度も。

 手首を掴む。彼女は逃れようとする。勢い余って彼女は藁の上に倒れ、覆いかぶさる姿勢になった俺を見上げた。

 彼女の目は見たことがないほど見開かれていた。その瞳いっぱいに、俺の顔が映っていた。

 見覚えのある目の色だ。俺を誘う瞳の形だ。

 だが彼女の態度は、明確に俺を拒絶していた。


 二日後、俺は村に帰った。

 近くの村に着くと、娘の家の人間が彼女を探しているのに偶然出会った。娘は身内と再会し大層喜んだ。彼らはいくらかお礼を包んでくれようとしたが、彼女の家も苦しいようだったし、俺たちのほうにも彼女から文字など教わった恩があったので受け取らなかった。彼女は確かな人数に守られ、無事に家に帰った。

 そう伝え、許嫁にも改めて謝罪した。当然彼女は俺を許し、初めは頑なだった父親も、許嫁の説得もあってか何月もしないうちに態度が柔らかくなった。結局のところ、俺たちには互いしかいないのだった。

 俺たちは結婚し、子どもを作った。はじめに男の子が生まれ、次に女の子が生まれた。彼らは健康にすくすくと育った。


 長い月日が経った。子どもたちは成長し、下の子はもうすぐ十になろうとしていた。あれ以来俺は村を出ることもなく、いい親、いい夫として家族に尽くした。

 そんなある日、畑に出ていた俺のところに上の子が血相を変えて駆けてきた。彼の報告は短く簡潔なものだった。山で下の子とはぐれたと言うのだ。

 彼らは家の手伝いを済まし、昼過ぎてすぐ山へ入った。始めこそあまり奥へ行ってはいけないという言いつけを守っていたが、子どものことだ。すぐに忘れて、いつもなら行かない場所まで入っていった。そうしてふと目を離した瞬間、下の子は消えていた。妹は兄にとてもよく懐いていて、彼の関心を引きたいがために、突然かくれんぼや追いかけっこなどの遊びを始めることがままあった。だから今回もそうなのだろうと、兄はしばらくの間、遊びに付き合っているつもりで彼女を探した。

 しかし一向に見つからず、焦った彼は山を下りた。妹がいなくなったという情報を抱えたまま自分まで行方知れずになっては大変だと思ったらしい。母親の元へ行って起きたことを伝え、指示されるまま父親を呼びに来た。

 家に戻ると親族が勢揃いしていた。まだ陽が高かったし、ひとまず身内で探そうと、男たちは山に登った。山は道がはっきりしていて、それを辿っていけば容易に越えられる。しかし子どもの関心は脇道にあるものと考える大人たちは、道を歩きつつも木々の裏や茂みの奥を丹念に探した。

 俺はあれ以来山を避けていた。入りたくなかったし、どうしても入らなくてはいけないときでも、決してひとりにはならなかった。しかしこのとき、俺は誰よりも先に山に入り、必死に娘を探した。麓のあたりは他の人間に任せ、俺はどんどん山を登った。

 脅迫に似た焦燥があった。麓にいるなら、娘はすぐに見つかるだろう。しかし山頂近くに行ったなら見つけるのは難しい。日が暮れる前に見つけたかった。彼女が怪我をしないうちに。

 名前を呼ぶ声が完全にしゃがれたころ、俺の目の前に山小屋が現われた。

 ここにだけは、あれから近づいたことがなかった。ふり返って空を見ると、地平線の奥で陽が赤々と燃えていた。

 小屋の外観はあのときと何ら変わりなかった。十年以上経っているからそんなはずはないのに、少なくとも俺にはそう見えた。最近誰かが訪れたのか、扉のノブに触れた跡があった。

 入りたくないと思った。あれ以来思い出さないようにしていたことが、山小屋が視界に入った瞬間から次々に水面へと浮かび、川を流れた。記憶をなくした、口のきけない少女。彼女の笑顔、瞳。仕草。ぬくもりと息づかい。

 小屋の中は不思議なほどに綺麗だった。部屋の隅には人ひとり休めるくらいの量の藁が積まれている。その上に、娘が小さくなって座っていた。

 その姿が、あのときの少女と重なった。

 俺は思い出を振り払って娘を抱き締めた。無事でよかった、心配したと何度も繰り返し、回す手に力を込める。娘は静かだった。泣くことも喚くこともせず、ただ俺の腕の中に収まっていた。

 そのとき俺は気づいた。娘は少女と同じくらいの体格になっていた。


 その日以来、娘の口数は極端に少なくなった。母親や兄とは話しているようだが、それも日に数えるほどだった。娘は俺を避け、俺の前では一言も口をきかなかった。それがひと月続き、ふた月続いた。そのころになると俺は娘の声を思い出せなくなり、彼女への苛立ちを隠せなくなった。

 娘は陽の下では俺を避ける。しかし夜中、灯火のなかでは逃げなかった。そのときだけ彼女はまっすぐと立ち、じっと、平たい目で俺を見つめる。それが俺は怖ろしかった。娘と彼女が重なった。

 十いくかいかないかの、口のきけない少女。俺があのとき、犯して殺した娘。

 あの小屋で何かあったのだろうか。どうして変わってしまったのだろう。彼女はもう口を開かない。沈黙をまとい、それでいて、いつも何か言いたげな目で俺を見る。そのさまがますます――彼女を想起させる。

 あの子はそのうち、彼女になってしまうのではないだろうか。そして、俺はまた――同じことをするのではないか。

 怖ろしいのに、歪んで見える現実から逃れられない。

 これは呪いだ。

 ほら、あそこにあの子がいる。乞うような目をして――俺を誘っている。

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