第2章 本棚の奥にしまった理由

 数日間は体中が重くて、何をする気も起きなかった。いつまでもベッドの上でだらだらと寝ていた。せっかくの休みだったが、ナナミと会うために空けた時間だと思うと、東京での出来事が思い出されて、気力が根こそぎ奪われた。


 携帯がときどき鳴った。メロディーでナナミからだと分かった。体を起こして手に取ったのに、液晶の画面に現れた七海という文字を眺めるばかりで、ボタンを押す気になれなかった。なんて言えばいいのだろう。俺はまだ、何の決心もできていなかった。ナナミを問い詰めるのかどうか、そしてそのことが引き起こす結果をどう受け止めるのか、もしくは何事もなかったかのように振るまうのか。そんなことを考えながら文字を眺めているうちに、メロディーは途絶えた。何度目かの着信のあと、俺は着信音をオフにした。


 天井の蛍光灯が切れかけていて瞬くので電気を消した。部屋全体がうす暗く澱んでいたが、新しい蛍光灯を買いに出るのも億劫だった。部屋の中はゴミだらけだった。自分の部屋なのに、見知らぬ風景に思えた。ゴミたちも、どこか知らないところからやってきて、たまたまここにたどり着いたみたいだった。俺自身もどこかから流れ着いて、このゴミ溜まりに浮かんでいる気がした。


 置きっぱなしの携帯が、ときどき息を吹き返したように光った。きれいだな、と俺は思った。暗闇で孤独に光を放っている。その光は誰かが俺にコンタクトを取ろうとしている光なのだ。でも俺は、それを受け取らない。やがて、生き物が息絶えるように光は消える。


 いつからそういうことになっていたのだろう。


 押さえつけていた疑問が目の前で弾けた。彼女が欲しいと騒いでいた西山が、急にその話をしなくなったのはいつからだったっけ。俺の行こうとした日に急用ができたなんてナナミが突然断ったのは、いつだったっけ。疑い始めたらきりがなかった。ナナミの横で幸せそうに笑っている思い出の中の俺は、まったくの馬鹿みたいだった。


 いや、決めつけるのはまだ早いのかもしれない。もしかしたら、あの日が初めての浮気だったかもしれない。ほんの出来心だったかもしれない。などと、俺は棒読みで頭の中で唱えた。あの雰囲気からして、まったくそう思えなかったが、そう思うんだと自分に命令した。


 もう一度、光ってくれないだろうかと思って、俺は小さな画面を見つめた。

 光れ、光れ。今なら取ってやる。携帯電話をにらみつける。


 思いが通じたように、ふわりと携帯が光った。急いで携帯を手に取る。ボタンを押す一瞬前に、ディスプレイに出ていた文字を確認した。ナナミではなかった。西山だった。あ、と思ったが、もう遅かった。


 西山は、いきなりテンションが高かった。俺がすぐに電話を取ったので驚いていた。いや、ちょうどメールを打ってて、と俺は言い訳をした。ナナミに対しての態度をいまだに決められないくらいだから、西山に対してどうするかなんて、何も考えていなかった。顔を見たら殴ってやると思っていた気もしたが、調子をくずされたせいか、笑いたいような気分だった。


 久しぶり、と俺は言った。この間、一方的に会ったけどな、と心の中で付け加える。近況報告をしあった。そのうち、ナナミと仲良くやってるのか、と西山が尋ねた。

「なんだそれ」

 思わず間抜けな声が出た。

「いや、仲良くやってるならいいんだけど。何かナナミが最近元気ないからさ。お前が電話に出ないとかなんとか」

 俺は、もう一度、なんだそれと心の中で叫んだ。そんなことのために電話をかけてきたのか?

「ちょっと熱出して寝こんでた」

 嘘をついてみた。

「それでも電話くらい取れるだろう?」

「そう思って取ったら、お前だった」

 それはがっかりだな、と西山は笑った。がっかりだよ、と俺も笑った。笑いながら冷え冷えと気持がさめていくのを感じる。俺と西山の間には、ぽっかりと空いた溝があった。それは簡単にまたぐことができるほどの幅だったが、地球の裏側まで続いていて、決定的に断絶していた。


 考えるより先に、言葉が出ていた。

「俺さ、こないだ東京に行って、お前とナナミのドッペルゲンガー見た。あれってさ、本人が見たら死ぬとか言うだろ。よかったなあ、見たのが俺で」

 西山がよこしたのは沈黙だった。馬鹿、笑えよと俺は心の中で怒鳴った。笑い飛ばせよ。それから、何かを吐くような、うっという音がした。おい、と俺は携帯に怒鳴った。うう、ともう一度音がして、

「そういう言い方で責めるの、いやらしいよな」

 と、西山が言った。涙声だった。何で泣くんだよ。俺は動揺する。

「お前さ、ちょっと酔っ払ってんの?」

 西山はこちらの様子をうかがうように、しばらく黙っていた。そしてぽつりと言った。

「俺が言うのもなんだけど。お前、意外に冷静だよな」

 俺は非難されている。どうして俺の方が責められなければならないんだ。さすがにむっとしたが、声を荒げるのもしゃくだった。黙る。西山も黙った。何かを言いたいけれど、ためらっている沈黙だった。

 言えよ、と俺は口に出してうながした。なんか言いたいことがあるなら言えよ。

「俺はナナミのことが好きだ」

 ああ、知ってる。心の中で返事をする。予備校時代からずっと知ってる。

「ナナミも俺のことを好きなんだ」

 勘弁しろよ。もう俺は、いいかげん怒って携帯を壁に投げつけてもいいんじゃないだろうか。

「じゃあさ、そっちで好き同士勝手にすればいいだろう?」

「ナナミはお前のことも好きだ」

「はあ?」

「両方好きなんだ。そう俺に言った」

 はあ、と今度は間の抜けた声がもれた。西山って、もっと賢いやつじゃなかったっけ。いったい何を言っているんだろう。ナナミもナナミだ。いったいどういうつもりなんだ。


「そういうことだから、お前と別れたらナナミが傷つく。ナナミには、お前が熱で寝こんでて電話取れなかっただけだって伝えておくから。今までどおりやってくれないだろうか」

 西山の必死な様子が声から伝わってきた。

「ばっかじゃねえの?」

 俺は力をこめて言った。

「お前本当に信じたのか? その両方好きってやつを」

 今度は西山が沈黙した。信じてないと言え。信じてないと言え。俺は俺自身の問題を先延ばしにしたかった。今、西山が信じると言えば、俺はますますどうしていいのか分からなくなる。信じられるはずがないだろう?

「本当は信じていない」

 それみろ。俺は勝ち誇った。両方好きだなんて、そんな都合のいい理屈が通るわけがない。

「ナナミは本当は、お前のことだけが好きなんだと思う」

 じゃあ、そういうことだからいつもどおりよろしく、と早口で西山は言って、俺が何かを言う前に電話は切れた。


 馬鹿じゃねえの。


 ベッドに寝転んで、天井に言葉を投げつけた。もう一度叫ぶ代わりに、しばらく目をつむって考えた。それから携帯を手に取って、ボタンを押す。光る。着信履歴を開いて、七海を選択する。通話ボタンを一回押す。


 数回の呼び出し音のあとに、ナナミの声が耳に飛びこんでくる。つながるのはこんなにも簡単だ。俺はファミレスで見たナナミの像を意識の端っこに押しやりながら、携帯を耳に強くあてる。そう、熱出して死んでて、電話取れなくてごめんな。心配そうなナナミの声に応えて、もう大丈夫大丈夫と笑う。バイト先で流行ってたのが真にも伝染ったんだよ、とナナミが言ったので、俺は自分のついたもう一つの嘘を思い出して、そうそう、たぶんそうと力をこめて同意する。しゃべっているうちに俺の嘘は実体化していく。本当に病みあがりのような気分になる。たぶんあんなものを見たせいで、俺は熱を出してしまったんだ。

 いつもどおりの二人の会話が続いていった。そう。じゃあ、わたしが京都行く、とナナミが言う。キョートキョート、と知らない人間が耳の奥で騒ぎ続ける。ねえ、USJ行こうよ。やだよ春休み人多いし。人が多いのがいいんだよ、雰囲気出て。俺たちは笑っている。好き、とナナミが言う。俺も、と応える。おやすみと言い合って電話は切れた。


 部屋がしらじらしく沈黙していた。俺は疲れ切っていた。本当に病人になってしまったのだろうかと思ったが、そういえばメシを食っていなかったことを思い出した。起き上がる。棚を探したけれど、カップラーメンのストックはなくなっていた。流し台には白い容器が積み重なっていた。狐色のスープに乳白色の油の塊が浮いていた。冷凍庫を開ける。かろうじて冷凍メシがあったのでレンジで温める。

 俺たち別れるのかな。芝居がかったセリフをつぶやくと、心臓が締めつけられた。泣きそうになったが、能天気な電子レンジの音に、さえぎられた。ラップにくるまれたメシは手のひらに貼りつきそうなほど熱い。床に落ちていたタオルを拾い上げて、メシをくるんで取り出し、適当な平皿に転がした。ふりかけがあるかと思ったけど、どこにもなかった。冷蔵庫を開ける。いちごジャムがあるくらいで、飯と一緒に食べられそうなものはない。仕方なく塩をかける。白いメシを食いながら、暗いので卓上ライトをつけたら、安っぽい刑事ドラマの自白を強要されている犯人のような気分になった。


 白い電球に浮かび上がる部屋を見渡す。舞台のセットのようにも見えたし、前衛芸術のオブジェのようにも見えた。この部屋にはテレビもパソコンも雑誌も新聞もない。遊びに来た人間はそれに気がつくと、酸素が足りない金魚のようにそわそわと落ち着かなくなる。水面に顔を出して、じゃあ何して過ごしてるんだと俺に尋ねる。本を読んで、と言うとますます苦しそうに口をぱくぱくして逃げていく。


 きどってるとか人間味がないとか変態とか、別に好きなように言えばいい。画面の中できらめく映像も、大量の凡人が雑感を垂れ流すネットも、日々の事象を拾い上げて陳列する新聞も、まったく俺の関心を誘わない。本といっても、読むのはすべてフィクション、小説だった。世の中をうまく生きる方法が書かれた新書にも興味がなかった。一人の作家の頭の中で作られた完全な世界、そこで過ごしている間は、俺は自分の人生を生きなくて済む。何冊の本を読めば俺の人生は無事終わることができるだろうか、と考えながら次の本を選ぶ。俺は閉じられた箱庭の中から、自分の住む世界を眺める。いろんな人間がわめいたり泣いたり笑ったりしている。それもまた一つの箱庭にすぎない。どこにもつながらない、どこからも侵食されない。


 床には読み終わった本が大量に散らかっていた。ナナミが来るまでにそれなりにどうにかしようと思うけど、俺が汗をたらして頑張ったところで、ほとんど片付かない。汚い部屋を片付けるのはナナミの得意とするところで、いつもいやな顔もせず、むしろうれしそうに片付けてくれた。魔法みたいだと俺が言うと、ナナミは笑った。その魔法教えてよ、と俺が言うと、いやだと断られた。いつもわたしが片付けてあげるから。


 勝手に片付けられることは嫌いじゃない。俺は、きれい好きだからだ。きれい好きなのにこんなゴミ溜めに住んでいるのは、片付けが嫌いという感情の方が勝るからだ。よって、誰かが片付けてくれた部屋は大好きだ。

 ナナミに隠さなくちゃいけないものはない。携帯電話だってロックしていないし、アルバムだって本だって、ナナミが見ようと思えばいつでも見られる場所に放置してある。と、いう態度を取っている俺に、わざわざ何かを探り出すような真似をする彼女はいないだろう。


 本当は、一つだけ、ナナミに見られたくないものがあった。ベッドの枕元に置いてある小さなテープレコーダーだ。今どきカセットテープを使っている場合じゃないのは機械音痴の俺にだって分かるが、これは電池一本で簡単に録音も再生もできて、しかも安かった。ぎりぎり手のひらに収まる。中には一本の爪が折られたテープが入っている。再生専用だ。何度も聞いているせいでテープの強度が不安だったが、いっそ擦り切れて聞けなくなったら、あきらめがつくかもしれないと思って、毎日聞く。

 巻き戻す。再生ボタンを押すと、ギターの音が流れ始める。コードを一定のリズムで弾くだけで、特にうまいというわけではない。やがてギターに合わせて、丸みのある伸びやかな女の子の声が聞こえ始める。気持よさそうに歌うその声は、高音部で少しだけかすれる。人の足音や車のクラクションも混じって声の邪魔をする。もっと近づいて録音できたらよかったのだけど、これでも精一杯だった。何せ盗み録りなんだから。スピーカーに耳を押し当てる。


 この声を録音したのはもう四カ月も前のことだった。

 立ち上がり、レコーダーを本棚の奥深くに隠す。見つけられたとしても、あやしまれることはないだろうが、ナナミに触られたくなかった。


 お前、意外に冷静だよなと西山は言った。そうかもしれない。俺は意外に冷静だった。安っぽい電球の照明が俺の顔半分を照らし出し、俺にせまる。そろそろ素直に吐いたらどうだ?

 何を白状すればいいのだろう。俺が意外に冷静だった理由? 理由は本棚の奥にしまった。俺は今、ナナミ以外のほかの女の子にも恋をしている。

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