月野さんのギター

寒竹泉美

第1章 ドッペルゲンガーと偽物の夕焼け

 今、俺のななめ前のテーブル席に、ナナミと西山が並んで座っている。後ろ姿しか見えないが、見間違えようがない。西山の腕はナナミの腰に回されていた。それから、二人は見つめあって笑うと濃厚なキスをした。

 あれだあれ、そっくりさん。なんだっけ。そう、ドッペルゲンガーと、つぶやいてみる。少しだけ愉快な気分になった。いや、嘘だ。まったく嘘だ。愉快な気分になんかなれるわけがなかった。

 俺は携帯電話を握りしめたまま、こんなメールを送る妄想をする。今さ、俺、お前にそっくりなやつ見たよ。すると、目の前のドッペルゲンガーナナミがカバンの中に手を入れて携帯電話を取り出し、中を確認するだろう。きょろきょろと周りを見回し、振り返って俺を見つけ、親指を猛烈な勢いで運動させてメールの返信をする。ほんと? そういえばわたしの後ろにも真に似た人がいるよ。真は京都にいるはずなのにね。


 それが東京に来てるんだな。


 隣から耳が痛くなるような笑い声が沸きおこった。男女同じ数の六人組が、テーブルをずっと陣取っているのだ。ナナミと同じ大学の学生だろうか。サークルの集まりか何かなのだろう。甲高い女の声、上ずった男の声、しゃべってる内容は頭が悪い。すべてが俺の神経をいらだたせる。春休みの旅行の話をしているようだった。キョートに行こうよ、キョートに。一人の女が奇声をあげる。キョートいいねえキョート、とほかのやつらも騒ぎたてている。来んな、馬鹿。お前らみたいなんが来たら、俺の吸う空気が濁る。


 ファミリーレストランとは名ばかりで、ファミリーの姿はない。いるのは学生ばかりだった。周辺に大学が多いから、金のないやつらの溜まり場になるのだとナナミが言っていた。夕飯に何を食うか思いつかず、途方に暮れたときなんかは、俺とナナミも二人でここに来た。ナナミの家の近所だからだ。


 店員を呼び止めて、薄くて煮つまったコーヒーのお代わりをもらう。まだいるのかと店員が嫌な顔をする。まだいるよ。いつまでいるのか俺にだって見当がつかないんだ。

 俺はもう、二時間はここにいた。ずっと二人の様子を観察していた。本当なら、俺はまだ京都にいるはずだった。明日の夜行バスで京都を出て、東京に到着するのは、あさっての朝のはずだった。でも、急に気が変わった。一日早く予定が終わったから、そのまま新幹線に乗った。予約していた夜行バスの運賃の方が圧倒的に安かったのだが、金なんかどうでもいい、一刻も早くナナミに会いたいと思って、予約もキャンセルした。俺ってナナミのことが本当に好きなんだなと思った。そして、そんな自分に満足だった。新幹線に乗ったことはナナミに言わなかった。ナナミのバイトが終わるのを待って、実はもう来ているのだと知らせて驚かせてやろうと思った。そして、この店でナナミを待っていた。


 俺は、二人が入ってくるところからずっと見ていた。二人の手は指を交互に組み合わせてしっかりとつながれ、腕と腕はくっついていた。くっつきすぎるせいで、何度も体がぶつかって、ひどく歩きにくそうだった。

 俺は黙ってその様子を観察しつづけた。二人の前に歩み出て、片手を上げ、やあと言うこともできたはずだった。そうすれば、二人はあわてて何か適当な言い訳でごまかすことだろう。俺の方だって、ごまかされたいと願っているのだ。全員の利害が一致しているわけだから、その場は丸く納まるだろう。でも、俺は、その貴重なチャンスを逃した。口を開けたまま、二人を凝視していただけだった。


 それから二人は、奥のボックス席に隣同士に座って、いちゃつき始めた。そのときでさえ、チャンスはまだ失われてはいなかった。俺が立ち上がり、不自然に空いている向かい側の席に座って、やあやあと言って笑えばよかったのだ。怒ってもいいだろう。一体どういうことか説明してもらおうかと、テーブルをたたいて二人を問いつめる。だが、それもしなかった。目を凝らしてやつらの一挙一動を観察しながら、コーヒーのお代わりをもらい、尻に根を生やして席に座ったまま、俺はいつまでも動けなかった。カフェインが膀胱を刺激しつづけていたが、やつらの席の横を通らなければならないせいで、トイレにも立てなかった。いっそ、二人が振り返って俺に気づいてくれれば、話は次の段階に進むのに、完全に自分たちの世界に入っていた。人の彼女を、なにしょぼいところに連れこんでるんだよ。もっとうまいもの食わせてやれよ、と俺は口に出してつぶやいた。


 店内は騒がしかった。いや、騒がしいどころじゃない。もう狂乱を極めていた。ブースに分かれた席は通行人から丸見えにもかかわらず、それぞれが思い思いに好きなことをして入り乱れていた。おいおい、ここはラブホかよ。西山とナナミも例にもれなかった。


 メールが一件。ナナミからの返信。そう、本当は、ナナミはきょろきょろして俺を見つけたりはしなかった。何でお前は西山と一緒にいるんだ、なんていうメールを俺は送らなかったからだ。今バイト? 家に帰って暇になったら教えて。電話するから。と送っただけだ。携帯を見る。返事は、うん、分かった。ハートマーク。


 西山が、ナナミの携帯を肩ごしにのぞきこんだ。ナナミが何かを言って、二人は笑った。やつの腰に回していない方の手は、ナナミの髪の毛をもてあそんでいる。ナナミは別にそれを嫌がる様子はないし、それどころか、首をかしげて、やつの肩に頭を置いたりしている。


 お水お注ぎいたします、と、すっとんきょうな声で急に店員が現れた。反射的に顔を伏せて、店員の陰に隠れる。


 二人が立ち上がってレジに行ったので、俺も思わず立ち上がった。立ち上がってみたものの、これからどうするのか考えてはいない。が、店員の冷たい視線を感じたので、再び座ることはできなかった。ジャケットをはおり、荷物を肩にかけて、金を払ってファミレスを出た。


 三月に入って急に温かくなったけれど、夜はまだ肌寒かった。俺は、かろうじて姿を確認できる距離をあけながら、二人のあとをとぼとぼとついていった。この瞬間に、二人が足を止めて振り返ったら、かなり恥ずかしい思いをするだろう。でも早く見つけてほしい気もした。できることなら、この羞恥プレイに終止符を打ってほしかった。


 京都に住み始めて花粉症が治ったかと思ったのに、東京に戻るとやっぱり鼻がむずむずした。くしゃみをした。歩きながらティッシュを出して、はなを勢いよくかんだ。でも二人は振り向かなかった。いいかげん腹が立ってきて、続けざまにくしゃみをした。ものものしいマスクで顔の半分を隠した通行人が、気の毒そうな顔を向けて通り過ぎていったが、ナナミは俺に気づかなかった。二人してわざと気づかないふりをしているのではないだろうか。そもそも俺は二人に気づいてほしいのだろうか。それとも気づいてほしくないのだろうか。本当に気づいてほしければ電話をしてもいいし、走っていって声をかけてもいい。なのに、俺はやっぱり一定の距離を保ったまま歩いていた。


 意識のすべてが二人の動きに集中していた。自分の魂が体から抜けて二人に乗り移って歩いている気がした。西山の後ろ姿を見ているうちに、あれは実は俺じゃないかと思えてきた。意識はここにあるけれど、ナナミと手をつないで笑っているあの男は俺に違いない。だって、ナナミの彼氏は俺なんだから、ナナミの隣にいるのは俺のはずじゃないか。


 西山とは予備校時代からの付き合いだった。ナナミも予備校仲間の一人だった。西山がナナミのことを好きなのは知っていたし、二人は同じ大学に通うことになったのだから、自然な成り行きと言えなくはない。でも遠距離とはいえ、ナナミは俺とつきあっているんだし、つい昨夜だって電話でしゃべって、さみしい早く会いたいと言われたばかりなのだ。冗談じゃない。西山はいかにも幸せそうだった。冗談じゃない。そんな馬鹿な話があるか。でももう、怒りは感じなかった。怒るにはエネルギーがいる。体中の力が抜けて、気持が萎えていくのを感じた。いつまでもどこまでも、深く底のない穴に落ちていく。最低な気分だった。


 二人は仲良く並んで、ナナミの住むマンションに入っていった。俺もついていく。エレベーターより速すぎないよう遅すぎないよう調整しながら、階段を駆けのぼっていく。三階に到着して、そっと廊下をのぞき見ると、二人は一番奥の部屋の前に立っていて、ナナミが部屋の鍵を開けて、一緒に中に入るところだった。レモンイエローの明かりがもれて、二人が中に吸い込まれた。

 足音をたてないように歩いていって、閉められたドアの前に立った。鉄の戸一枚へだてた向こうに、ナナミがいる気配があった。カチャンと鍵をかける音がして、チェーンのじゃらじゃらという音が聞こえた。それからナナミは俺に背を向ける。フローリングの上で軽やかな足音をたてながら、遠ざかっていく。


 俺はドアから少し離れて、手すりにもたれて通路に座りこんだ。そんなことをしていても、誰も俺を見とがめなかった。一人だけ、学生らしき女が不審者を見るような目で俺を見て、三つ手前の部屋に入っていったくらいだった。


 ところどころに赤いさびが見えるアイボリー色のドア。ずっと見ていると、何度も遊びに来たはずなのに、ここがナナミの部屋なのかどうか、確信が持てなくなった。隣のドアからナナミが出てきて、何してるのよ? と俺を笑い飛ばしそうな気がした。でも、そんなことは起こらなかった。


 アイボリー色の向こうでは、かすかに音楽が鳴っていた。俺の知らない歌だった。くしゃみももう出なかったし、寒くもなかった。ドアの向こうの二人にとって、俺は存在していないことになっている。頭をそらせて廊下の手すりにくっつけると、半分建物にさえぎられた月が見えた。丸くて、妙にふくらんでいた。俺は、その月を眺めて耳だけを澄ましていた。そうしていると、自分の輪郭が曖昧になって、本当にここに自分が存在しているのかどうか、疑わしくなっていった。


 やがて、決定的な声が聞こえ始めた。こんなに外にもれるのなら、次のときは気をつけなければと俺は思った。

 次のとき? 

 思考を停止させる。それ以上のことを考えるのは、また今度にしよう、と俺は決めて立ち上がった。

 携帯を見た。二十二時ちょうどだった。俺はドアから離れると、階段を使って一階に降りた。


 マンションを出る。今までいた場所を下から見上げる。ナナミの部屋のカーテンは赤いから、外からでもすぐ分かった。一緒に選んだカーテンだった。部屋的には沈静の青だろうと言ったら、夕焼けの赤なのと言い返された。まあいっか、ナナミの部屋なんだろ、と俺は適当に納得した。結局、ナナミは俺を連れまわしたあげく、自分の選びたいものを選んでいったのだから、一人で買い物をすればよかったのだ。でもナナミは、いちいち俺の意見を聞きたがった。二人の部屋を決めるみたいに。俺も、それにいちいち意見した。同棲ごっこみたいで楽しかった。


 部屋は内側からライトで照らされて、卑猥な感じだった。赤がまのびしてふくれあがり、空気を染めていた。今、あの同棲ごっこのセットの中にいるのは、西山なのだ。俺は、ふたたび思考を停止させる。そして、ナナミからの連絡を待つ。


 ベランダにナナミが出てきた。彼女は偽物の夕焼けの中に立っていた。部屋着の上にコートを着ているのがよく見えた。手には携帯電話を持っていた。ガラス戸をきっちりと閉めて、それから電話を耳にあてた。尻ポケットが震える。俺はポケットを手で押さえた。確かに震えている。深呼吸をして、電話をとった。目をつむる。俺の頭の中で、ナナミは、バイトから帰ってきて着替えて簡単なご飯を済ませて一段落して、もしかしたら風呂に入って、ドライヤーで髪を乾かして、テレビはつけっぱなしで、そして、そうそう思い出したというように俺に電話をかけているはずだ。きっと、ベッドに寝転がったまま、だらだらとした姿勢でしゃべっている。


「メールしてくれれば俺からかけたのに」

 と、俺は言った。いいよいいよとナナミは上機嫌な声を出した。あさってはそっちが来てくれるんだし。早く会いたいよ、とナナミは言った。めまいがする。目を開ける。ベランダにいるのは、いったい誰なんだろう。どうしてこんなに遠いのだろう。

「ごめん、あさっては行けなくなった」

 どうして、とむくれたり怒ったりするナナミに対して、上の空で言い訳をでっちあげた。バイトのやつが熱出してさとか、そんな話をした。その間、俺は、ベランダに立っているナナミを見上げていた。ナナミは心持ち顔を上げてしゃべっていた。あのベランダからは月がよく見えるのだ。寒くないのかよ、もういいから中に入れよ、と、俺は電波を介さず心の中で彼女に言った。


 俺が行けなくなったことをナナミは責めているが、本気かどうかまったく分からなかった。何で責めるんだよ。ちょうどいいじゃないか。西山と二人で、と思いかけたとき、ごぼりと何かを吐き出しそうになった。喉の下をぐっとつかむ。

「なに?」

 と、ナナミが言った。

「いや、なんでもない」

 また行く日が決まったら連絡するから、と俺は言って電話を切った。赤い光に包まれていたナナミが、ベランダから姿を消した。もう一度、ごぼりと何かが食道を通り抜けた。膝を折って地面につっぷす。口を開けたが、何も出てこなかった。


 急に尿意を思い出して、マンションの敷地内に植えてある木に向かって長々と小便をした。白い湯気が立って、ずうずうしい匂いが親しげに俺を取り巻いた。

 その後のことは覚えていない。泊まる場所も思いつかなかったし、帰る気力もなかった。それなのに気がつけば、俺は自分の部屋のベッドの上にいた。次の日の昼だった。なんだ、と俺は思った。どこかでのたれ死ねばよかったのに、帰巣本能というやつなのだろうか。なんだ、ともう一度俺は思った。そして固く目をつむって、眠りが訪れてくれるのをいつまでも待った。

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