第九話「テトラポッド」

 ぼくは車を飛び出した。彼女はどんな表情で、どんなことを考えて来たのだろう。ぼくはどんな表情で、どんな言葉をかければいいのだろう。そんな考えが頭を駆けめぐらないうちに彼女はもう手の届きそうな距離まで迫っていた。


「ごめんなさい、仕事が長引いちゃって」


 彼女は本当に申し訳無さそうにそう言いながら、いつもと変わらない、少なくともぼくにはそう感じられた、あの笑顔を向けてくれた。会う時刻と場所を告げていたのだから待ち合わせをしていたことは確かなはずなのに、目の前に彼女が立っていることがしばらくの間ぼくは信じられなかった。


「車に乗ったほうがいいですか?それとも海辺を歩きますか?」


 自分にとって恥ずかしい記憶がまだ生温く残る車内だと再び彼女と言葉を交わすことが耐えられなくなる気がして海沿いを歩くことにした。そこは二人でこれまでに何度か、横並びに三人で歩いている端っこ同士くらいの距離感を保ちながら歩いた道だった。


 ぼくのボソボソとした話し声を遮るようについ今朝まで声高らかに鳴いていたせみたちが、きっと自らの代の役目を無事に果たし終えたのだと、一安心できるほど海辺の空間は静寂で包まれていた。ぼくたちは示し合わせたかのように同じタイミングで立ち止まった。


 辺り一面真っ暗な世界から向かってくる波が足元のテトラポッドにぶつかる音が聞こえて、自分がまだこの世界に存在していることが分かるような気がした。ぼくは静寂を破るのにふさわしい言葉を探した。でも先に口を開いたのは彼女だった。


「理さんのせいで目が腫れちゃって大変だったんだから。今日は責任をとってもらおうと思ってきたのよ」


 彼女はやはり何も変わっていなかった。あの涙を経てもなお、気丈に振る舞える女性なのだとぼくはもう知っていた。一方で自分自身の浅慮さを申し訳なく思った。女性は大変なのだ、色々と。


「本当にごめんなさい。そのお詫びは何なりと」


 そう謝るぼくに向かって彼女は数秒だけ、眉間に皺を寄せて睨むような仕草をした。確かにいつもより少し目蓋まぶたが腫れているようにも見えた。


 そしてすぐにまた、苦しいような、痛いような静けさが訪れる。手紙を渡して「じゃあね」と、それだけでいいはずなのにただひたすらふたりで暗闇から聞こえる波の音を聞いていた。


 そのとき、少しだけ高い波がテトラポッドを打ち、舞い上がった飛沫しぶきがぼくたちの足元を濡らした。ぼくは左の胸ポケットに忍ばせている手紙に手を伸ばし、便箋に指がかかったとき、彼女がまた先に口を開いた。


「絵を、あなたの絵を描かせて欲しいんです」




 もう波の音は聞こえなかった。




 いち段落、

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