第2話 鉄棒

「体育、って何だと思う?」


 体育。私が大っっっ嫌いな科目。なぜなら運動が出来ないからだ。


 それだけ。


「……何って、何だよ」

「体育の定義。何?体を育むから体育って」


 体を育むから体育。へっ、いい感じに略してやったぜぐらいに思ってるのかもしれないけど本当に面白くない。マウンテンバイクをマイクって略しますか?略しませんよね?じゃあそれと同じですよね?こういった論法ね。


 第一運動神経なんて神から与えられた産物に過ぎないわけで、与えられなかった者は与えられた者にどれだけ頑張っても勝てない。これが運動が才能ゲーである所以で、よくいる、「運動は努力だよ!努力次第で何とかなるよ!」って言ってる昭和スポ根イズムを未だに持っている人はその背後に「自分が神から最低限の運動スキルを頂いてる」事象に気づいていない。無知というのは誠に罪であるのだ。その点で私は無知であることに気づいている。これがアリストテレス、いやワタシノテレスが言うところの「無知の知」である。

 

 と、まあ何回も言うけど知らないというのは至極恐ろしいことで、大いなる夢に溢れていた私の小学校時代、持久走で「断トツビリ、最後の最後にみんなに見送られながら歩いてんのか走ってんのかよく分からんペースでゴールした」その瞬間、私は子供心ながら「このゲーム、センスがない」と初認識した記憶がある。三人兄弟の末っ子で結構泣き虫だった当時の私でも、涙すら出てこなかった記憶があるのだ。幼心ながら、乾いた笑いしか出てこなかったのである。小3にしてこの世の理を理解してしまったが故の冷笑、何も笑えない。


 こんな感じで私の運動音痴エピソードは枚挙に暇がない。語るにはここだと余白が狭すぎる。大体なんで大学生になってまで体育の授業があるわけよ。あるのは百億歩譲って許すとして、なんで必修なわけよ。敷かれたレールを歩くだけの人生、つまらなくない?なんてそれっぽいことを言ってみたわけだけど、要は私は体育が嫌いなわけ。なぜなら運動ができないから。


「……定義?」

「そう。いい?」


 私は立ち上がった。民衆をたぶらかす悪から、救うために。


「何事もね、普通の学習ってのは定義の理解から始まるの。一つの定義にもこの学者さんが「あ、こうやって決めたら便利だなあ」とか色んな背景があって、それをひっくるめて頭に入れることが体系理解に繋がるわけね。そうやって覚えた定義を使って、頭を使いながら導出していく過程も、また普通の勉強なわけ。……でもね、体育は普通じゃないの。体育に定義なんてないの。……なんでって?ないものはないの」

「頭打った?」


「体育は普通の科目じゃないから、とりあえず体を動かすの。その成長過程は「運動神経」のみに依存するのね?つまり私はやるだけ無駄なの。無駄。グレート・ムダ。いい?グレート!ムダ!」

「本当にどうした?」


 高槻クンはそう言ってため息をついた後、立ち上がった。お、なんだ?やるのか?私の家系に代々伝わって「いない」秘奥義、ムーンサルト・プレスが火を噴く…


 ……え?


「……遊びに行こう。勉強ばっかじゃ毒だ。お前を見てて思ったわ」


 高槻クンは私の手を取り、強引に部室の外へ連れ出したのだ。えっ、ちょっと、まだそういうのは…早いって……


 

「……なんすか、ここ」


 とまあ、そんなこんなでやってきたのは公園だった。何の変哲もない、ただの公園。駅と学校の最短経路からは少しはずれたところにあるので、私は存在すら知らなかった。ただの公園ではあるが、それなりには広い。年相応のちびっ子が仲良くブランコで興じ合っている、見慣れた光景もあり、本当にただの公園ってカンジだ。


 それを見ても私は「神から選ばれし者はいいな」としか思わないのだ。そうなるのはもう、幼少期からそういう考えになっていたから。でも高槻クンはそれを矯正しに、ここへ連れてきたのだと、次の一言を聞いて分かった。


「やるぞ」


 そう言って高槻クンが指さした先にあったのは、鉄棒。普通の鉄棒。


「え?」

「やるぞ」


「……え?」

「やるぞ」


 え、ちょっ、それしか言わないんだけど。……その多くを語らないのがかっこいいとか思ってるんじゃなくて?


 高槻クンの顔色をチラッと窺う。そしてその目を見て、気づくのである。


「この人……ガチだ」


 いつもならここで私がポケットに忍ばせている煙玉を高槻クンに投げつけて、読んで字のごとく忍のように逃げるところなんだけど、この時だけは不思議とやる気が起こった……いや、起こってしまったのかもしれない。


 私は鉄棒の前に歩みよった。無機質で、冷酷な鉄の棒、これを触るのは久しい……冗談抜きでまともに触れるのは10年ぶりとかかも。


 まずは調子確認がてら、逆上がりからかな……!



「……お前、本当に運動できないんだな」


 それから30分。結論から言うと、私が逆上がりできることはなかった。その上、できそうな時すらなかった。棒を軸にして回転するだけ、地面から頂点まではたったのπ[rad]。こんなもの、最初けり上げる時に与える力と、棒まわりの力のモーメントを考えれば楽勝……ではなかった。ではなかったから、こんなことになってる。


 私の頭脳をもってしても……と歯ぎしりしそうになる私のすぐ傍で、高槻クンは空中逆上がり無限回転編。そういうロボット?そういうことが出来るように作られたロボット?


 ああ、今日はなんか気が向いてきもーちオシャレにコーディネートしてきたのに……お気に入りの紫のロングスカートが……局所的に泥まみれに……。なぜ泥まみれになっているのか?私が逆上がりが出来ないからです。ああ、私はsinの微分も積分も、cosの微分も積分も出来るのに、逆上がりが出来ないのです……。


 でも、今日はなぜか、挑戦する気が湧いてきた。なぜだろう。さすがに鉄棒くらいなら出来るんじゃないかって思っている自分がいるのか、それともー---


 もう一度、地面を蹴る。一瞬体が宙に浮く。けど、うまく回転出来ていないというのはすぐに分かって、また、さっきと同じように重力の方が強くなって下にー--


 行かなかった。


「……え?」


 高槻クンが、下を支えてくれていたのだ。


「手にグッと力をいれて!」


 何が起きてるのかいまいち分からなかったけど、反射で高槻クンの言う通りにした。そして高槻クンが上に私を持ち上げると……スッと回った。


「……私、できた?」


 言うなれば補助輪付きで自転車を初めて漕いだような感じ……だけど出来たのか?


 ……いや、出来たということにしておこう。これって、高槻クンが私に運動の楽しさを教えようとしてくれたのかな……いや考えすぎか。


「出来てたぞ。多分」


 それでも、今まで運動から徹底して逃げてきた私には当然感じたことのない、高揚感みたいな何かが体の中に残っていた。後、全体的にこれは何……?と、言うのは無粋な気がしたから心の中で言うことにする。


 ……これ、何?



 ちなみに、その日にいった平田家はいつもの1.5倍美味しかった気がした。

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