「所で、どうやらあなたは私よりずっと後の世を生きていたようだ。だが私がここに来た時にはあなたは既にきるけえの館の住人だった。これはどういう事だろうか」

 とむはふうっと大きくため息をついた。

「本当に全部あのくそったれ女のせいだ、最低だぜ」

 とむはふんと鼻を鳴らすと、床をだんっと黒いかんじきで踏みしめた。

「俺にゃ全く分からねえ話だが、時間や空間や俺たちが『有る』って思っている全ての物や概念は、本当の所はただの幻影なんだと」

 海豚いるかの坊さんの受け売りだがなと、とむが苦笑した。


「私たち各人が、五感で対象物を『有る』と認識しているに過ぎぬと言う話か。そんな経文きょうもんが確かにあるな」

「あんたも坊さんなのか。俺みたいな船乗りにゃ何度説明されても分からねえ」

「いや、私は坊主ではなく織物商だが、仕事柄神社仏閣との付き合いもあってな」

 私なぞは生臭坊主にもなれはしないほどの俗人だ。

 勝手に誤解されては困ると焦った私は、何度も坊主ではないと繰り返した。


「織物商って事は、船に荷を積んであちこち回ってたのか」

「ああ、そうだ。申し遅れたが、私は名を二瓶十兵衛にへいじゅうべえと申す。桃山幕府御用達ももやまばくふごようたしの織物商人として諸国を巡っている最中に、嵐に巻き込まれてこの海岸に打ち上げられた次第だ」

「そうかい。俺も似たようなもんだ。大英帝国海軍に潜り込めたまでは良かったが、何の因果か潜水艦の乗組員に引き抜かれたのが運の尽き。気が付いたらあのくそったれ女の生贄いけにえとばかりに、波打ち際に打ち上げられていた」

 はあっと大きなため息をつくと、とむは腰掛にしては大きな台にぼすっと音を立てて座った。


海豚いるかの坊さんは、俺たちは『俺たちだと認識している』肉体の俺たちそのものではないってほざきやがる。どうやら俺たちの肉体があるここ以外にも、別の世界があるらしくてな」

 トムは足で一本の線を描いた。

「例えばこの線を平面の世界としよう。俺たちは平面に高さを加えた立体の世界に『いる』から、その視点から線の世界を理解できる。これと同じように、立体の世界に『いる』俺たちを観察している俺たちも『いる』」

 私は相槌を打って先を促した。


「俺たちの肉体が『いる』ここは三次元、それに時間の要素を加えたものが四次元。そのもう一つ上の世界が五次元な。この五次元って世界には、あらゆる姿の俺たちが同時並列的に存在するらしい」

「織物商の私、僧侶としての私、漁師としての私、それ以外の存在としての私が同時に幾通りも存在すると言う訳だ」

「坊さんの説明からするとそんな理屈になる。それを俺たちの肉体が存在している三次元に映し出す時には、二つの方法があるらしい」

 私はじっととむの言葉に耳を傾けた。


「一つ目はあらゆる姿の中から一つを現出させるやり方」

「もう一つは?」

「『時間と言う名のだまし絵』を使うやり方だ。つまり同時並列的に存在する無数の可能性のうちの幾つかを、時系列に沿って展開させることになる」

「つまり織物商としての生涯を選ぶのが一つ目のやり方で、例えば漁師から織物商になり後に出家して僧侶になるのが二つ目のやり方と言う事だな。だがその仮説が正しいならば、時系列に沿って私がここに来るのが先だと思わないか」

 とむは大きくかぶりを振って手を広げた。


「あんた『時間と言う名のだまし絵』って言葉に引っ掛かりを感じないのか」

「確かに『時間と言う名のだまし絵』と言われても、時間は『ある』し時間が『ある』から期日通りに金の回収も出来る訳で」

「そうだろう。朝日と共に文句言いながら起きて、ばさっばさのパン一枚を押し込みながらつまんねえ仕事。お偉いさんがワインやエールを飲むのを横目に、ジンやらグロッグを浴びてクソ見たいな事で喧嘩。それで寝ゲロして床に這いつくばりゃ一日が終わる。船に乗ってりゃ、交代で直ぐにたたき起こされてグロッグで迎え酒。その繰り返しだろ」


 とむの言葉には聞きなれない単語がたくさん出てくるが、どうにもろくでもない毎日を送ってきたらしい。

「それこそが一日の流れで、それが続く毎日は昨日・今日・明日と流れがあるわけだろ。クソみたいな毎日だとしてもだ。それを『時間と言う名のだまし絵』で本当は時間は幻影なんだって言われても、そりゃただの暇人の言葉遊びじゃねえか」

 私は無言でうなずいた。


「坊さんの話として聞いてくれ」

 とむは慎重に言葉を選んでいるようで、しばしの沈黙の後に再び口を開いた。

「俺たち人類は『時間は存在すると言う約束事』に基づいて社会生活を営んでいるから、過去現在未来の時間軸に沿って出来事が起こるように見えるだまし絵が、俺たちの肉体がある三次元世界に現れる」

 私は目線で先を促した。

「そしてだまし絵を見て『時間は存在する』と、社会の構成員それぞれは疑うこともなく過ごす。その繰り返しが『時間の概念』が三次元世界に導入されてから、営々と各世代の人類に受け継がれる。かくして『時間と言う名のだまし絵』が人類を支配する力は益々強固なものとなる」

「その『だまし絵』の呪縛を解く鍵を持つのがきるけえなのか」

 私は思わず身を乗り出した。


「あのくそったれ女は『時間と言う名のだまし絵』に束縛された三次元と、同時並列的にあらゆる事象が存在する五次元を中途半端に結合させる存在だってのが坊さんの見解だ」

「それはつまりどういう事だ」

 とむは大きく息を吸って、私をオオヤマネコのような鋭い眼光で見据えた。

「『時間と言う名のだまし絵』の呪縛を解く鍵を持つとは即ち、それぞれが分かれて存在してしかるべき次元同士をひずんだ形で結合させると言う事だ。要するに」

 とむはぐいっと私に顔を近づけた。

「海豚の坊さんが作った潜水艦のおかげで、俺たちが元居た世界に戻る可能性はある。だが下手をしたらあんたが生まれる前の世界に戻る事になるかもしれない。あるいは別の人生を生きるあんたの世界に投げ出されるかもしれない」

 ほのかな予感はあったがいざ覚悟しろと言われると動揺を隠せなかった。


「海豚の坊さんが言うには、タコつぼ渦こそが次元のひずみの入り口だ。だから潜水艦でタコつぼ渦を抜けられれば、出口はどこであれここからは脱出できるだろう」

 ウツボ海の漁師たちに恐れられていたタコつぼ渦に、私の船も引きずり込まれたのだろう。

「とむはここから逃げ出す気はないのか」

「あのくそったれ女は無意識のうちに男を呼びやがる。坊さんの法力を借りて短い時間ながらも人語がしゃべれるのは俺一人だ。坊さんだって法力で人型の男と話せはするが、内容が普通の人間にゃ理解不能だろ。逃げ出せるかよ。」

 とむは真っ黒な革のかんじきを履いた足をダンと床に叩きつけた。


「獣にならずにこのくそったれな腐れ小島から逃げおおせたけりゃ体を許すな。一度たりともだ」

 もとより私にその気はないが、意志に反してきるけえに体を欲しいままにされる可能性は否めない。

「黄金色の毛並みの犬は一度体を貪られても、獣にならなかったのだろう」

 私は探るようにとむを見た。

「まあな。ふらんそわは特別だったから」

 ふらんそわも若いのにかわいそうになあと言いながら、とむはため息をついた。

「ふらんそわと言う名前だったのか。さぞ優しそうな青年だったろうな。あなたと違ってきるけえによく懐いているようだが」

「あれは犬の習い性ってやつだろう」

 とむは鼻をフンと鳴らした。


「あのくそったれ女は、気付けの膏薬とやらを被害者の唇に塗り込める所から始める。あんたも覚えているだろう」

 私は荒めの砂が背中に食い込む中、体が急に重くなったあの感覚を思い起こした。

「それから被害者の唇に塗りこめた気付けの膏薬を舌で押し込み、大量に分泌した唾液と合わせて口内に塗りこめていく。その時頭を押さえられなかったか」

 私はかくかくとうなずいた。

「あれは顔を押さえながら、指で男の頭に呪文を書いているんだ」

 どうりで髪を梳く手つきが尋常ではなかった訳だと、私は妙に納得した。


「呪文を書き切る前に指を振りほどいた男は呪文が完全に発効していない。彼らは呪いが不完全なので獣面人体になっている」

 身動きの取れなかった私はすでに呪文が完全に効いているから、何かの拍子で獣化した際は完全体の獣になるらしい。

 私はぞっとしながらとむの仮説を聞いた。


「男の中には薬や呪いが効いてあの体の虜になるものもいるが、しょせんどいつもこいつも体だけがお目当てだ。愛だけは呪いのせいで決して手に入らない」

「つくづく意地の悪い呪いだな」

 私の漏らした感想にとむは同意した。

「あれは男に愛される事に飢えきった上に、男に愛される方法を知らない。だから神殿巫女稼業で鍛えた男受けする仕草を、馬鹿の一つ覚えで会う男会う男にして見せる。だが呪いのせいで愛は貰えない。それで結局薬や呪文に頼っては男に体だけを与えて、愛はこの世の終りまでお預けだ」

 心底うんざりした表情でとむはため息をついた。


「結局の所、愛した男にあなただけを永遠に愛してるって言ってもらいたいだけなんだ。乞うても乞うても得られぬ愛の連続に、心が壊れてとんだ化け物になっちまった哀れな女だ。そんな女の体だけを貪る男の末路が獣になるってのも、皮肉が効いてるがな」

 とむは自嘲するように乾いた笑いを漏らした。

「だが素性も知らぬ男をいきなり押し倒してくる女を愛するなんて、呪いを抜きにしても無理だ。しかもあいつは年を取らないだけで、どのぐらい生きてるかも分からない化け物だ」

「まあな」

 呪いを掛けられたきるけえには酷な事だとは思うが、いきなり砂浜で人事不省の男の腹にまたがる女が愛される訳がない。


「求める愛がまた与えられないと気付いた時のくそったれ女の絶望と来たら。それでまた男を獣に変える。変える気が無い時でも気が付けば獣に変わっちまってて慌てふためいて泣き叫ぶ。始末に負えねえ」

「しかしいしゅたるの呪いのせいだろう。きるけえばかり責めるのは酷だ」

「責めずにいられるかよ。フランソワなんて、女も知らない敬虔けいけんで純潔な若者だったんだ」

 敬虔で純潔であったと言うふらんそわは、きるけえと体を合わせてもすぐに獣化する事はなかった。

 その理由が分かれば対応策も取れるのではないかと、私はほのかな期待を抱いた。


「結局どうしてふらんそわはしばらく無事だったんだ?」

「聞いてもあんたは真似できないぜ」

 とむは芝居がかったように片方の眉を上げて見せた。

「聞いてみなければ分らんだろう」

「いや、無理だね。グロッグ1パイント賭けてもいい」

 ぐろっぐもわんぱいんとも何の事だか皆目見当もつかなかったが、私はとむの話に水を差さないようにした。


「何てったってフランソワは純潔が過ぎて女に対する扱い方っつうか、とにかく」

 とむは、かわいそうに、かわいそうにあんなくそったれ女に、と何度もつぶやきながら話した。

「女性経験が無かったと言うことか」

「経験自体はもちろんの事、普通の男が持っていてしかるべき欲の無い奴だった」

 私は頭をぶるりと振った。


「俺がフランソワに気が付いたのは湯屋に人の気配がしてからだった。慌てて駆け付けた時には、フランソワは裸に布を一枚掛けられたままで寝込んでたのさ」

 とむはオオヤマネコの姿の時のように、右手をぶんと振った。

「蛙のおっさんと一緒に前足であいつを起こしたら、酷い声を上げてひっくり返っちまってな。どこにいるのかも分からず、見たこともないようなデカい猫と蛙面の人間がいてみろよ」

「そりゃ誰だって驚くな」

「そうだろ。そうしたらあのくそったれ女は澄ました顔して『兄様あにさま、お加減は良くなりましたか』なんて言いながら水差しと着替えを持ってきやがった」

 ふんと鼻を鳴らすと、とむはオオヤマネコの時のように不意に身を低くした。

「自分で呼びよせておきながら、『あなたの乗られた船は難破して、何とかあなただけはお助けできたのですが』と来たもんだ」


「きるけえは無意識のうちに船を呼び寄せているのか。それとも男が欲しくて意図的にまじないで呼んでいるのか」

 とむは猫のような瞳をくりくりと動かした後、私に向き直った。

「完全に無意識だな。だからあの毒牙から逃れるのは至難の業なんだ。あの偉い坊さんですら海豚いるかにされちまった位だからな」

 とむの言に私はがっくりと項垂うなだれた。


「男が獣に変わる時は、キルケが法悦状態に入った時か男にひどく拒まれて怒りと渇きを感じた時なんだ。猫の女中にいきなり手を出そうとして獣にされた奴もいるが、これは俺の知る限り一人しかいない」

「つまりふらんそわは純潔ゆえにきるけえを法悦に導く事もなければ、敬虔ゆえに神のご意思としてきるけえを受け入れた」

「そうだな。結果的に感情を上下させなかったのが良かったのだろう」

「では私が彼女を怒らせないようにかつ関係を持たぬように誘導できれば」

「そう簡単にいけば良いがね」

 とむは皮肉そうに片頬を上げた。


「まさに海豚いるかの坊さんがそれで失敗したんだ。彼はとっさにキルケに掛けられた呪いを見破って解き始めた。だが島全体があのくそったれ女の歪んだ次元に支配されているから、三次元の住人である坊さんは太刀打ち出来ずあのザマだ。坊さんですら無理だったんだから、あんたみたいなただの凡夫にゃなおさら無理だろう」

「では、なるべくその気にさせなければ良いわけだ」

 とむは渋い顔をした。


「至難の業だがな。とにかく奴は愛に飢えている。優しい言葉や態度を見せれば、その場はしのげる。だが、呪いのせいで心と体が一体となった愛情を注ぐのは不可能だから、いずれは渇望が爆発して被害者は獣化させられる」

「とにかく彼女を認めてやれば、少しは間が持つのだろう」

「本心からあんたがその気持ちを持つなら、ある程度は効果があるだろうな。だが甘く見るな。清らかで無垢なる愛によってきるけえを癒そうとしたフランソワさえ、結局は獣に変えられた」

 とむの体はオオヤマネコに戻りつつあった。

「船が出来上がる前に満月が来ちまう。坊さんも急いでくれるとは思うが、満月の夜は特に注意しろ」

 とむはそれだけ早口で告げると、完全にオオヤマネコの姿に戻ってぐったりと床に寝込んだ。

 ぐにゃりと視界が揺れて、私たちの前に海豚いるかの顔をした男が現れた。


 海豚いるかの顔をした男は、殺風景な部屋に戻ったこの空間で何事も無かったかのように私たちを出迎えた。

 設計図と作業日程が記された大判の紙を見せられた私は、何か手伝える事は無いのかと聞いてみた。

 海豚いるかの顔をした男は首を横に振ると私の額に手を当て、もう一方の手を自身の額に当てた。

 彼の思念は私の脳内に直接送り込まれた。

「湧水を毎日飲めだと? どこに行けば良い」

 私の質問に、海豚いるかの顔をした男はぐったりと放心したとむを指さした。

「とむ、後で湧水を汲める場所に連れて行ってもらえないか。きるけえの呪力を弱めるのに必要だそうだ」

 とむは大儀そうに、しっぽを一振りした。

 

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