第9話 旅行編(2)
当日。
雲の切れ間から覗く太陽の一部が朧月のようにゆらゆらと霞む、絶好の隧道日和である。
隧道の開通時刻は午前10時17分61秒。朝食を済ませた今、残り時間は1時間。
さあ、最後の準備だ。
夫が持って帰ってきた『Keep Out』のテープを、家庭用汎用型強化装甲(ベーシックプラン月額380円・今だけアタッチメント3本セット)のアタッチメントNo.2の猿とともに、玄関の扉の内側や窓の内側、それから家中の家財に貼り始める。
「Ukiki、Ukkiy-kkiy!」
スタンドアローンモードで活動するSpecial Assault Reactor Unit――もといSARUには現在夫の分御霊が封入されているので、指示出し不要なほど手際がよい。
何なら、春子に指示するほどにデキる猿になっている。
本日日付が変わる瞬間に発令された辞令からの間髪入れない強制転移で出張させられた夫がとっさに飛び込んだ多目的型全自動遠心分離機によってちょっとだけ濾過分離された程度の分御霊ではあるが、分御霊とはそもそも量は問題にならない。
その権能効能御利益は本霊つまり本人と同じなのだ。
若干猿化、ではなく先祖帰りを起こしてしまう点にだけ目を瞑れば。
SARUが猿っぽいのは夫がSARUに封入されたからでもなく夫が猿っぽいからでもなく夫の先祖がSARUだからでもなくSARUの設計デザイナーが鏡に写った自身をモデルにしたからでもなく人類が知覚できない位相に座する超越存在が猿萌えだからでもなく、ひとえに濾過分離という科学的反応に起因することを忘れてはならない。
そう復唱して、あまりに馴染みすぎているSARUの夫へと春子は向き直る。
「Uki?」
バナナ?――っと違う違うそうじゃない、と夫がバナナ好きだったかどうかを考え始めかけた自分を、春子は頭を振って追い払った。
そんな春子を、どこかの動画やら写真やらで見覚えがありすぎる仕草で首を傾ける夫じゃなかった猿じゃなかったSARU。
さすがはアタッチメント3種のうちで最も指先が器用なだけはあり、春子が混乱の状態異常でターンを浪費している間にテープを貼り終わっていた。
残るは春子自身とSARUのみ。
お互いにささっとテープを貼り合って、時計を確認。
10時17分51秒。
残り10秒、9、8、7――以下略。
10時17分61秒目。
その1秒だけ、秒針ではなく『文字盤』が進む。というか開く。
『12』と『1』の間を5つに区切り、一秒を示している目盛の一つ目が、ずるりと横へ、押し出されるように、広がるように移動する。
ゼロ秒とイチ秒の間に、さらに一秒分の隙間が生まれる。
細い細いその隙間から覗く――
――朱に金の瞳。いくつもの。
ぎょろり。
同時に、がごごんっ、とマンションが上げ下げを瞬時に連打された感触が走った。
ふわぁっと、春子や家財が宙に浮き始める。
隧道内に突入したのだ。
隧道とはX軸(Width・横幅)、Y軸(Height・高さ)、Z軸(Depth・奥行)、それにT軸(Time・時間)のどれにも該当しない方向へと移動するトンネルだ。
故に人間には感知できない動きなのだが、動いていることは現実なので、結論としては疑似的な無重力状態になるらしい。
というか、春子の体感で言えば、上へ落ちているような感じだ。実際に家具も浮いているわけだし。
春子が玄関および窓へと目を走らせる。
貼ってあるテープの『Keep Out』の文字が、ノイズが走ってるかのように、ジジジッと揺らめいている。
正常に発動しているのを確認して、ほっと胸をなで下ろした。
隧道内は、乱暴な言い方をしていいなら、要するに次元が違う。人間では認識できない空間であり、である故に、認識できないモノも大量に跋扈している。
もちろん、それら全てが友好的とは限らない。
また、友好的であっても、親愛の表現方法が安全なものとは限らない。悪意が無かろうとも、産業用高圧プレス機並のハグをされればひとたまりもないだろう。
それを予防するためのテープであるが、厳密には、それらのモノを弾く作用があるわけではなく、人間の生活空間よりも陰圧になっている隧道内に放り出されることを予防するのだ。
『Keep Out』テープ…“あちら”の世界(春子の夫の出張先)の事務用品。一巻き25メートル非売品(ノベルティ)。一定以上の分子運動や変動を抑制することで貼られた物体の状態を強制的に安定させる。持続時間90分(※かかる負荷や状況によって変動します)。
なお、隧道内の安全性については、公的な隧道利用許可証を持っていれば朱に金の瞳達――通称“朱金ちゃん”(※無料のボランティア活動だがお礼に煮干しか爪楊枝をあげると喜ばれる)が見張ってくれるので大丈夫である。
そういえば……
おぼろげな記憶を頼りにパントリーを探る春子。やがてアゴ出汁の粉末パックを見つけ、家庭用台所複合機へ投入。人類が読めない字で表示されるディスプレイに首を傾げながら、確かこんな記号っぽいのが並んでるのがソレだった気がするんだけれどと思いつつ、決定ボタンらしきボタンを、あポチッとな。
どぅゥゥ羅あ褞♪どぅゥゥ羅あ褞♪
秒で作業終了。蓋を開けると、粉末がトビウオの煮干しへと変貌していた。
よしッ!!!
思わずガッツポーズを決める春子。
ディスプレイ表示どころか取扱説明書まで読めない文字、さらには製品名自体が人類には発音できない音であるこの複合機において、唯一明確に理解している『無かったことに』ボタン以外で上手くいくことは1割以下なのだ。
どうやら『復元(1段階)』を見事に当てたらしい。間違って2段階以上を選択していたら生魚かそれ以前になっていたところだ。
煮干しを朱金ちゃんへ勧める春子。
ぎょろるるるるるるるるるっ!
朱金ちゃんの眼球が残像を残す勢いで回る。
目をつむることすらできない朱金ちゃんの喜びの表現方法だ。残像が残るまでの速度となると、大喜びといったところである。
細く薄っぺらい影みたいな手で神速で煮干しを回収し、さらに目玉を回す朱金ちゃん。
うれしくなった春子もニコニコと微笑む。
「Ukkikky」
バナナ――ってだから違うそうじゃない、夫だけれど夫じゃなくって猿じゃなくってSARUじゃなくって、いやじゃなくって合ってたSARUだ、と混乱気味に頭を振りつつ春子が振り返る。
SARUが掲げるノートサイズの黒板には、「そろそろ到着」と書いてあった。
春子が見たことを確認したとたん、SARUはその黒板をポイっと放り、内蔵機能の簡易立体プリンターで続けざまに黒板を生成。「衝撃に備えて」と掲げたと思いきやポイっと放り、次は朱金ちゃんに「ありがとうございました」と掲げた。
ぎょろるん。
眼球が上下左右へと往復して帰って行く朱金ちゃん。
ほぼ同時に、またもやがごごんっと衝撃が――
――ぐにゃらり。
追加された奇妙な振動、というか歪みに、春子がふらついて膝を突く。
次いで体を支えるために突き出した手が床に当たり、その熱っぽさに目を丸くした。
事前に夫から聞いていたとはいえ、建物が唐突に『熱っぽく』なるのは、やはり違和感がある。
しかし、これはどうやら必然の事象らしい。
マンションは建築面積約600平方メートルの5階建。
対して、温泉旅館は約400平方メートルの3階建。
客(マンション)の方が宿よりも大きく、そのまま移動すれば、マンションが温泉旅館を踏み潰してしまう。
であるからして、マンションは分子間距離から縮めて、圧縮して小型化させることになったのだ。分子レベルで密度を上げたのだから、熱量が発生するのは致し方のない話である。
もっとも、それでも旅館内に格納できるほどには小さくならない(※これ以上小さくすると核融合を誘発する危険性がある)ので、やむを得ずマンションと温泉旅館を融合させる方針となったのだが。
春子が『Keep Out』テープを貼りまくった理由が、まさにソコにあった。
最終的には安全に分離される、と旅行会社のアルバイトさんの飼い猫が念話および手話で丁寧に説明してくれたが、旅行中に壁と一体化したまま等になったら、さすがに不便だろう。
片っ端から貼っておいたから無事――
がたたん。
何かがガタつく音。
春子が振り返ると、コケた飼いウサギのメネスがそこにいた。
運動神経抜群なのに珍しい。ああ、電源コードに引っ張られたのか。それにしても後ろ足が無いとやっぱり不便だよね、前足は短いからブラウン管の体を起こすのは難しい……ん? ブラウン管の体?
あ。メネスにテープ巻いてなかった。
がたたん。
ぐらまらすブラウン管ぼでぃをガタつかせて抗議するメネスを起こしてあげる春子。
メネスの現状は、ブラウン管テレビの上にウサギの頭、左右に前足がくっついているような状態だ。その自身の有り様はメネスも自覚しているらしく、起こしてもらって早々に瞑想を始めてしまった。
ただひたすらに鼻がひくひくするだけのメネスに、春子は餞別代わりに人参スティックを頭の横というかテレビの上というか、まあその辺りに並べて置く。
三千世界の旅から帰ってきたら、きっと空腹だろうし。
で、改めて周りを見回す春子。
だだっ広い畳の間に自宅の家財がバラバラに置いてある、といったところだ。どうも団体客が食事をとるような大広間と融合したらしい。
フローリングの材質で編まれた畳とは珍妙な、と春子が興味津々で見ていると、少し離れた位置――大広間の後ろ半分が春子宅の範囲らしく、その範囲外となる前半分の辺り――はさらに珍妙な状態になっている。
ざっくり言って、家具の類まで全て融合している感じだ。
お隣の伊狩八千代さんはテープを全く使わなかったのだろうか?
隣家に勝手に入るのは気が引けるが、今は一つの大広間なのだからと意識を切り替えて伊狩さん宅エリアに進入。フローリングとベッドと冷蔵庫と呪符と電球と靴箱と犬神と本棚と巻物等々々々で編まれた、そして組み込まれ切れずにそれらが部分的にあふれて突き出している畳をよくよく調べてみると、何やら陣を組まれていた形跡が散見された。
なるほど。
春子は手を打ち鳴らした。
どうやら、伊狩さんは自身の陰陽道で防ぐつもりだったようだ。現代の陰陽庁(一般社団法人伝統的陰陽道の存続と責務を担う有志による非公式同好会、略称『陰陽同人』)に勤める者としての矜持だろう。
その心意気や良し――しかし、隧道の中はほぼ“あちら”の世界と同じで、物理法則からしてこちらの世界とは異なる。
彼らが物質世界および非物質世界の律令を司る調停者とはいえ、さすがに畑違いと言わざるを得まい。
そう、心意気は買うけれど……と眉をしかめて天を仰ぐ春子。
その視線の先で、伊狩八千代さんとばっちり目が合った。
というか目が合わざるを得なかった。
天井一面、伊狩八千代さんの顔である。
「…………」
「…………」
ばつの悪いところを見られてしまった無言と、見てしまった無言。
衝突し、しのぎを削る静寂同士。
突如、天井の顔がふんっ、ふんっと悶える。
が、すぐに諦めた。
どうあがいても身動き一つとれないらしい。
伊狩八千代さんのセクシーぽってりタラコ唇からため息が漏れる。
春子の唇からもため息が漏れる。
合わせるでもなく、自然と声が重なった。
「「だめだこりゃ」」
(続く)
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