第5話 アルバイト編
金が無い。
大学院生向け練習帳『初めての家計簿』をにらみつつ、水素発電池式電卓を突っつきつつ、春子は呻いた。昨日の晩に夫が持ち帰った給料袋の中身が、予想していたよりも少なかったからだ。
ただし、夫の名誉のために注釈をつけると、給料が減ったわけではない。
結果的にではあるが、先日の出張でかかった出費、具体的にはラクダの瘤及びサボテンのレンタル移植費用が補填されなかったのだ。
普通ならこれは間違いなく経費で落ちるものであり、実際、今回も給与明細上はちゃんと支払われている。それ以外の項目が減ってるわけではもちろんない。何も変わってはいない。
変わったのは、金の価値だ。
会社の経理部が給与計算をしているまさにその時、水星・金星・火星・木星・土星が歪ながらも五芒星に配列されるという激レア天体イベントが発生した。
これは惑星直列(※完全に直列になる天文学的確率版の惑星直列)を上回る珍事で、しかもちゃんと木→火→土→金→水と五行相生となる配置であり、5つの“星”霊はお互いの勢力を高め合う状態となった。
そんな時に地球は金星に最接近してしまい、お祭りテンションでやや壊れ気味な金星霊の金気をモロに浴びた結果、地球上の金の価値が爆上がりしたのである。
話は逸れるが、過去に五芒星配列になったことが2回あったらしい。
一つは水星に最接近してしまい、箱船以外は全て大洪水で押し流される惨事に。
一つは火星に最接近してしまい、火山爆発にメテオストライクに地殻変動にと恐竜が絶滅する惨事に。
星霊、恐るべし。
閑話休題、で、あらゆる相場が混乱を極めたカオス状態に――は、圧倒的大多数が損を恐れて静観もしくは守りに入ったため意外とならなかったが、春子の夫には多大なるダメージとなった。
今月の給料袋には、20グラム少々しか砂金が入っていない。
毎月、大体30グラム前後の砂金払いだったのに。
金の価値が上がったままなら、グラム数が減っても問題はない。
問題なのは、金の価値の爆上がりが、給与計算の間だけだったということだ。
金星から少し離れただけで金“星”霊の影響は泡と消えて、金の価値は元通りに戻っている。したがって、給料袋の砂金は、現在はもちろん20グラム分の価値しか無い。
実質給料30%減、である。
経理部が七日七晩のデスマーチ会議を続けていなければタイミングは外れていただろう。
家計簿の隅の一言アドバイス欄にある『長時間の会議は損失』に、春子は激しく同意していた。
しかして、金が足りないものは変わらない。
……久しぶりに、やるか。
まずは申請をしなければならない。
家計簿の最後に付属している半紙を切り取り、面相筆を手に取る。
そして、家計簿に記載の表を参照しながら筆を進める春子。
普通の言葉をコンピュータ言語に置き換えるのはコツが必要、ある意味で職人のカンと同類のものだ。
0101000011101010010101001001010101001010100101010100101010101010101010101010101000000111111110101010……
何しろ0と1しか単語がないのだから、どうしても長文化してしまう。
何とか半紙12枚に収めて、くるくるっと巻いて紐で縛り封蝋をした。
で、菜箸も併せて手に取り、春子はベランダへ出る。
菜箸でベランダの手すりを、リズムを取りながら叩いた。
かーんかーんかーん、かかかかかーん、かかかかかっかかかーん。
カアカア!
省略版で最後を「カラスの勝手でしょ」で切り上げた春子に、カラスのマリアが合いの手を入れつつ訪れた。
マリアは手紙を咥えて空のかなたへ飛んでいく。
そう長くはかかるまい、と思っていた通りに、菜箸を仕舞ったところで春子のスマホにメールが届いた。
ディスプレイの中では、ギザギザになってカクカク羽ばたくマリアが添付ファイルを咥えている。
ファイルを展開して内容を確認し、うなずく春子。
それから、中に閉じこめられたままのマリアを優しく撫でるように、ディスプレイをなぞる。
「……白黒つけましょう……?」
カアアアアアァァァァァッ!?
絶叫とともにポンっと消滅するマリア。意外そうに目を丸くした春子がスマホを振っても、ホーム画面に戻ったままで何も起きない。
まあ、いずれどこかでまた会えるかもしれないはずと思われるらしいのではないかな。
前向きに気持ちを切り替えて、窓の外の空へ目を馳せる。
と、その後頭部にテントウムシがぶつかってきた。
テントウムシは黄色、ということは宅配ボックスだ。
春子は桐箪笥の中から極薄の大判ストールを引っ張り出す。そして、飼いウサギのメネスを抱き上げた。
準備完了である。
次の瞬間、虫の知らせの通り、宅配ボックスからの通知音が鳴り響いた。
「貴殿へのォ御貢物を承りて御座候ッ! 貴殿へのォ御貢物を承りて御座候ォッ!!」
野太い声はむさ苦しく「いざッ! いざッ! いざッ!」と連呼し続ける。この段階でも既に近所迷惑なのに、放っておくと段々大きくなっていくという、何が何でも受け取らせる気満々の素敵仕様なのだ。
おそらく、設定者の親切心は振り切れていたのだろう。
とにかく次の段階(声量)に進む前に行かなければならない。
迅速に宅配ボックスへ赴き、警報停止ボタンを押す春子。野太い声が小さく「ちっ」と舌打ちするのを聞き流し、呼吸を整えて、ボックスの扉に手をかける。
鬼が出るか蛇が出るか――
十一面観音菩薩が出た。
間髪入れず、ノイズすら走らず、風景が変容した。
小さなホールみたいな空間に金銀赤青黄緑紺紫他諸々の色とりどりのシャンデリアやらネオンやらが煌めきまくり、銀紙みたいなのが花吹雪のごとく舞いまくっている。
輝く文字は「観自在菩薩」だの「度一切苦厄」だの「是故空中無色」だの「掲諦掲諦」だのと、ありがたいのだが正直ありがた迷惑な気もしないでもない勢いで圧が強い。
もっとも、圧で言うなら十一面観音菩薩が一番強いのだが。何しろ空間に胸元から上しか入りきれていない。デカい。
電脳空間、所詮幻で何でもありの好き放題とはいえ、もう少し仏にリスペクトを払うべきでは?
首を傾げる春子の目の前にポップアップウインドウが出現する。
【受け取りに挑戦しますか? はい/いいえ】
春子は【はい】をタップして観音菩薩を見上げる。
観音菩薩の11の顔が、ルーレットのごとく回転し始めた。
ルーレットが止まる。
暴悪大笑面。
またハードなのが当たってしまった。悪人を蔑む笑いとも、人間の救いがたい愚かさに笑うしかないからとも、もはや笑うしかないほどのブチ切れとも言われる笑顔だ。
これは気を抜けない。
電脳空間で肉体的にダメージを負うことはないが、精神的ダメージは別の話だ。大笑面ともなれば、並ではあるまい。
【受け取りに失敗した場合、この姿を撮影しネットという大宇宙へ放流します】
メッセージと同時に表示された画像は、宅配ボックスに頭を突っ込んだまま動かない春子を、使用量の検針に来たガス会社職員と水道局職員が怪訝そうに見ている様子だった。
「ぐっ……!」
膝から崩れ落ちる春子。
始まる前から大ダメージを喰らってしまった。というか、これが現実の今の様子かと思うと、可及的速やかに成功しなければならない。
にらみ返す春子に、十一面観音菩薩が提示したのは、布が張られた刺繍枠だった。
【勝利条件:十一面観音菩薩よりも精巧な金剛界曼荼羅の刺繍】
制限時間は1分です、とアナウンスが流れ、カウントダウンが始まった。
メネスを頭の上に載せ、その上からストールをふわりと被る。
そして、刺繍枠と針を手に取る春子。
この空間では物理的なステータスは役には立たない。電脳空間であるが故に、勝敗を分けるのはただ一点、情報処理能力だけだ。春子は大体3.8GHzの4コア相当ぐらいだろうか。
ちなみに、宅配ボックスはスパコンとネット接続している。
【start】
春子も菩薩も、ミシン顔負けの速度で針を動かす。素人目にはどちらが速いのか見分けが付かない程の運針速度だ。
普通に考えれば、スパコン相手に勝てる道理はない。
しかし、宅配ボックスにもアキレス腱はある。
ネット接続が未だにISDNで128kbpsなのだ。
対して、春子は幻獣のバクの毛で編まれたストールを使ってメネスと接続して並列処理できる。
メネスは、クロック数は春子と同じ3.8GHzだが8コア相当の処理能力を誇る。十分に勝機はある。
【stop】
春子と菩薩が手を止めた。
両者の刺繍枠には精巧な金剛界曼荼羅が縫われている。どちらも素晴らしく優劣がつけられない――
にやり、と笑う春子。
厳かに裏返された春子の刺繍枠。
そこには、裏面にはこれまた見事な胎蔵界曼荼羅が縫われている。
打ちあがる花火と【excellent!】の表示、そして十一面観音菩薩のサムズアップ。
それらがふっと消えて、宅配ボックス前に戻る。
で、ボックス内部の段ボールを取り出した春子に、後ろから十一面観音菩薩が声をかけてきた。
「あ、すみません、他に郵便物などもありますので、こちらにサインいただけますか?」
自分と同じ背丈の菩薩が物腰低く差し出す受取証にサインをして、こちらも丁寧に返す。
「ありがとうございます。ではこちらをどうぞ」
それでは失礼します、と重ねて頭を下げて階段を降りていく菩薩を見送り、菩薩様も難儀だなぁと同情したところで、頭上のメネスがぴょんと飛び降りて跳ねていった。
今回は並列処理で脳を使ったから、栄養が足りないのだろう。彼は軽井沢に牧草ハウスを所有しているから、それを食べに行ったに違いない。
2階構造で壷庭にウッドテラスにベランダ付きとはいえマンションの一室に過ぎない春子宅に比べて、メネスの家は100坪の邸宅なのだが、さすがに全て牧草で造られていると嫉妬心もおきないものだ。
まあ、晩ご飯には帰ってくるだろう。
広い心で見送ってから戻った春子は、段ボール箱を開封する。
中には薄っぺらい紙のようなものが2枚入っていた。
地図である。
一枚は右上の角に今年の年月が表示されている。もう一枚には10年前の年月が表示されている
今回のアルバイトは、地図の照合なのだ。
今の地図と10年前の地図を見比べ、変わっているところにマークを入れる。
2枚の地図は極薄の4世代型有機ELディスプレイなので、終わるごとに画面を切り替えて続けていく。
画面ごとに800円の出来高歩合制。
で、仕様通りなら、2枚を重ねてパラパラとめくり、違ってるところを見つけてマークすれば良いだけなのだが、それだと記録されている20画面分以上は稼ぐことは当然できない。
そこで、裏の仕様である。
10年前の地図の年月表示のところを「※※※※」に入力し直す。
その上に現在の地図を重ねる。
上の地図の角を摘まんで、パラパラとめくっては戻す。
どんどん速くする。
とにかく速くする。
パラパラパラパラパラパララララララララアアアアアアア――
で、十分に速度が乗ったところで、
「だーるーまーさーんーがー、こーろーんーだっ!」
で、めくって止める。
そうすると将来、この先変わる場所が表示されるのだ。
その未来を現在の地図に書き込んでいくのである。
2023年9月、この交差点の信号の電球が切れる。
2031年2月、この路地にお地蔵様が建てられる。
2028年12月、この銀行が襲われ半壊する。
2035年7月、この橋にストリートアートが描かれる。
2033年5月、この街路樹が枯れる……
見つけたポイントを片っ端から書き込んでいく春子。
どれだけ見つけられるかは腕次第、見つかれば見つかるだけ儲けられる。ただし1件につき30円のため、とにかく数をこなさなければならないのが勝負どころだ。
夕方、陽が山裾へと傾いたところで、ようやく春子は一息入れた。
表の仕様は完遂し、裏の仕様も1600件近くまでやったはずだ。
これだけやれば、まあ及第点か。
このデータは某研究所にて集計・分析されて、より精度の高い情報をはじき出すそうだ。
が、その結果の天気予報があまり当たらないところを見ると、エシ●ロンも何でも知っているわけではない、ということだろう。
おっといけない、某システムも、だ。
気を取り直して、大きく背伸びをして、首と肩を回す春子。
さすがに疲れた。
気分転換に、とテレビの電源を入れる。
「速報です! 先ほど、ス●ソニアン天体物理観測所に、正気に返った金星霊から、一連の事態への謝罪と補償についてメッセージが届いたとのことです!」
テレビ画面を前に固まる春子。
ならば、砂金10グラム分が補償されるということで。
ならば、今回のアルバイト代は予定外の増収である。
春子の脳裏に、夫との約束が再放送された。
予定外の収入分は、好きにして良い。
春子の顔が、今日イチ華やいだ。
それはもう、キラッキラに。
よし、般若面を買おう!
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