アップルパイを一緒に
夏目綾
第1話
村瀬愛梨、19歳。
彼女はいたって普通のどこにでもいる少女だ。
昼は大学に普通に通っている。授業を半ば寝ながらやり過ごし、その後は友達とバカな話で盛り上がる。
夕方からは自分のワンルームマンションにほど近い小さなパン屋でバイト。
大学一回生の頃から勤めているので手つきも慣れたものだ。
なんの変哲もない普通の暮らし。自分でもそう思っている。
だが、ただ一つ。
彼女には非日常を感じる瞬間があった。
それは金曜の夕方。おおよそ、19時くらいにその瞬間は訪れる。
閉店1時間前。客もそこそこ減ってきた頃。
その女性は現れるのだ。
年の頃は三十代前半か、栗色の髪に鼻筋のすうっと通った日本人離れの端正な面立ち。
一般住宅街には不釣り合いすぎる、まるで外国の写真集の中から飛び出してきたような品の良い女性だ。
高価そうなスーツを着こなし、綺麗に磨かれたピンヒールを履いて彼女は店内に入ってくる。
彼女は店で何を買うか。
それは、アップルパイ一切れ。
毎週変わることなくそれだけを買って帰っていく。
それがここ半年くらい続いているのだ。
愛梨は、彼女が現れてアップルパイを買っていく瞬間だけ、なぜか時間の流れが緩やかに感じられ、またひどく興味をそそられた。
常連客には積極的に声をかける方だし、物怖じする性格でもない愛梨だが、この女性に限っては、あまりにも別世界過ぎて声をかけることができなかった。
どこに住んでいて、何をしてるのか、名前は、そしてどうしてアップルパイを?
聞きたいことは山ほどある。
だが、どうにも言い逃してしまう。
何か良いきっかけはないものか。
アップルパイの女性が店を訪れた日の夜はそればかり考えてしまう。
だが、愛梨は深く考えるのが苦手なもので、すぐに頭がいっぱいになって眠ってしまうのであった。
きっかけさえあればいつか話せる日は来るのだろうか。
いや、もうずっとこのままかもしれない。
まぁそれはそれでもいいのかもしれないけれどとぼんやり考えながら愛梨は今日も答えが出ないまま布団をかぶった。
ある日のこと。
その待望の瞬間は、唐突に訪れた。
「…あの、すみません。」
いきなり声をかけられたので愛梨が慌てて見てみると、声の主はあのアップルパイの女性だった。
「ぎゃっ!?」
愛梨は焦って思わず変な声を出してしまった。
取り繕うようにどうしましたかと返したが、呂律はあまり回っていない。
女性は少し不審そうな顔をしたものの気を取り直して愛梨に質問する。
「今日は…その、アップルパイは売り切れでしょうか?」
愛梨はアップルパイのある棚を見て見た。
するとそこには珍しく一切れも残ってはいなかった。
「そうですね…いま出ている分だけなので。申し訳ないですが。」
それを聞いた女性は、ふぅ、と一つため息をつく。
「そうですか。仕方ないですね。わかりました…。」
いつも眉ひとつ動かさない彼女であったが、今日ばかりは違った。
心なしか肩も落としている気がする。帰ろうとした彼女に、愛梨は今しかないと勇気を出して声をかける。
「あ、あの!」
「はい?」
「他のパンもあるので!よろしければ。」
「…ありがとうございます。でも、アップルパイが欲しかったので。」
「アップルパイ…好きなんですね。」
「え?」
「いえ、いつも、買っていかれるから。その…。」
それを聞き女性は参ったなと言ったような顔で答えた。
「ここのは美味しくて。でも毎週なんてよほど目立っていたのでしょうね。お恥ずかしい。」
「いえ、すごく綺麗な方がこんな小汚い店にいつもいらっしゃるからつい目がいっちゃって。すみません、お気を悪くしたなら。」
「気にはしていませんよ。それに私は綺麗でもありませんしこの店は小汚くもないですよ。とても美味しいアップルパイをつくる良いお店です。」
そう褒められ自分の店ではないが、嬉しいやら恥ずかしいやらで、愛梨は顔が熱くなった。その勢いか、次の瞬間には自分でも予想のつかない言葉を口にしていた。
「…もしよければ、金曜の夜はアップルパイをお客様のために一つ取り置きしておきましょうか?」
「いえ!そんな!悪いですよ!」
「大丈夫ですよ。その話をしたらきっと店長も喜んでくれるだろうし。私、よほどのことがない限りいつもこの時間にいますし。ね?」
すると、女性はしばらく考えたが、にこりと微笑むとそれではお願いしますと言った。
「実はね、売り切れないかと心配で毎週慌てて会社を出ていたんです。」
「ははは、そんなにですか?これからは安心してください。」
愛梨はガッツポーズをして微笑んだ。
その後、女性は頭を下げると、ではまた…といって店を出ていった。
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