定食屋で始まる恋愛もある

釧路太郎

前編

 会社で嫌なことがあった日に決まってすることがあるのだが、僕は帰宅途中にある定食屋に寄っておばさんに勧められたものを頼むのだ。それが僕の苦手なものだったとしても、断らずに頼んで完食する。それに何の意味があるのかわからないが、不思議とその日は穏やかな気持ちで寝ることが出来るのだ。どんなに嫌なことがあったとしても、おススメされた定食を食べて家に帰ると気分がすっきりしているのだ。


「あら、いらっしゃい。今日は何にするのかな?」

「そうだな、今日のお勧めは何ですか?」

「今日はね、赤魚の煮付けだね。もう残りわずかなんだけど、どうする?」

「じゃあ、それをお願いします。あと、サイダーをください」

「はいよ。いつもありがとうね。先にサイダーを持ってくるね」

「あの、すいません。私も赤魚の煮付けいただけますか?」

「はいよ。そちらのお客さんも赤魚の煮付けだね。定食で良いかな?」

「はい、定食でお願いします。あの、ご飯は少なめでもいいですか?」

「量を減らしても料金は変わりませんが、大丈夫ですか?」

「はい、それは大丈夫です。せっかく作ってもらったものを残すのって申し訳ないので」

「はいよ。お二人ともちょっと待っててくださいね。今すぐ作りますからね。お父さん、赤魚の煮付け定食で二人前お願いしますよ」


 食堂のおばさんはいつも元気いっぱいなので、僕はそれを見ているだけでも嫌な気持ちが吹き飛んでしまっているのかもしれない。それに、寡黙ではあるのだが、厨房にいるおじさんの腕も確かなので、料理自体も凄く美味しいのだ。実家のような安心感のある定食屋ではあるのだが、その料理の味は僕の実家よりも美味しかったりするのだ。


「はい、サイダーお待たせ。料理ももう少しでできるから待っててね」


 僕はお酒が飲めないのでサイダーで喉を潤すのだが、ここでストレスの溜まっている大人だったらビールなんかを頼むんだろうなと思い、自分がまだ子供なのではないかと苦笑してしまった。

 お酒を飲めないのは体質なのか味自体が嫌いなだけなのかわからないけど、僕は会社の飲み会でもお酒は滅多に飲まないのだ。少しくらいなら飲めるのだけれど、ある一定の量を超えると次の日が物凄く辛くなってしまうのだ。その量は日によって変わるので何とも言えないのだが、僕は連休の前の番にしか飲まないと決めているのでその量を見定めることは出来ないのだ。


「本当にごめんなさいね。他の料理だったら大丈夫なんですけど、赤魚の煮付けは残り一人前だったんですよ」

「そうなんですか。じゃあ、野菜炒め定食でお願いします」

「本当にごめんなさいね。野菜炒めも美味しいですからね」


 ちょっと離れた席に座っているあの女性も僕と同じ赤魚の煮付けを頼んでいたと思ったのだけれど、残り一人前って言われてるな。もしかして、その一人前って僕が頼んだので最後だったって事なのかな?


「あの、すいません。赤魚の煮付け一人前しかないって聞こえたんですけど」

「ああ、お兄さんので最後だったんですよ。私もちゃんと確認しておけば良かったんですけど、お父さんにも怒られちゃいました。お兄さんは気にしないでくださいね」

「え、いや、そう言われましても。あれだったら、僕の頼んだのをあちらの人に回してくれても大丈夫ですよ。ここの料理はどれも美味しいので僕は何でも大丈夫なので」

「本当に良いんですか?」

「ええ、僕は赤魚の煮付けが食べたいってわけでもなくて、おばさんのお勧めだから食べたいって思っただけなんで」

「あら、じゃあ、あちらのお客さんにちょっと聞いてきますね。でも、本当に良いんですか?」

「はい、その次にお勧めのやつでお願いします。じゃあ、たまには中華なんてどうでしょう。回鍋肉定食がお勧めですよ」

「それでお願いします」


 僕は別におばさんが進めてくれる物だったら何でもいいのだし、あの人がどうしても煮魚が食べたいというのなら食べたい人に食べてもらった方がみんな嬉しいだろう。そんな気持ちで僕は空いたグラスにサイダーを注いでいた。


「あの、最後の煮魚を譲っていただけると窺ったのですが、本当によろしいのですか?」

「大丈夫ですよ。僕はここの料理だったら何でもいいんで」

「でも、おススメを聞いてソレにしたのに本当に良いんですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。僕の事は気にしないで大丈夫ですから」

「もしかして、煮魚が好きじゃないとかですか?」

「いや、普通に好きですよ」

「じゃあ、なんで私に譲ってくれたんですか?」

「それは、僕よりもあなたの方が煮魚を好きそうだったからですかね」

「え、私は確かに煮魚が好きなんですけど、どうしてそう思ったんですか?」

「どうしてって、注文した時に嬉しそうだったし、売り切れって言われた後にガッカリしているように見えたからですかね」

「もしかして、私ってそんなにわかりやすいですか?」

「普段はどうかわからないですけど、煮魚を好きなんだなってのは分かりましたよ」

「やだ、もう恥ずかしい。それじゃあ、まるで私が子供みたいって事じゃないですか」


 僕は会社以外で人とこんなに話したのはいつ以来だろうと考えていたのだけれど、お店の人を除いてしまえば学生時代までさかのぼってしまうかもしれない。そもそも、学生時代を含めてもこんなに女性と会話をしたことがあったのかどうかも思い出せないのだ。

 それくらい、僕は誰かと関わる時間を持ってこなかったという事だ。


「じゃあ、せっかくなんで、オカズを二人で半分こにしませんか?」

「え、そんなに気を遣ってもらわなくても大丈夫ですよ。僕は本当に何でも大丈夫なんですから」

「いや、そうさせてください。私が一人で全部食べちゃうのって申し訳なさ過ぎて、今日からしばらく眠れなくなりそうなんでお願いします。私を助けるためと思って、提案を受け入れてください。あ、でもそれだったら注文した時に分けてもらうようにすれば良かったですかね。私って、失敗してばっかりだな」

「そんな事を気にする必要は無いと思いますよ。僕は一口くらいでも大丈夫なんで、それで手を打ってくれませんか?」

「いやいや、それじゃこっちの方が申し訳なく思ってしまいます。せめて、半分ずつでお願いします」


 そんなやり取りをしていると、おばさんが僕のテーブルに回鍋肉定食と赤魚の煮付け定食を持ってきた。


「今日はごめなさいね。おじさんとおばさんからお詫びの気持ちにデザートを出させてもらうけど、メロンは大丈夫かな?」

「私はお兄さんのお陰で食べることが出来るんで大丈夫ですよ。そんなに気を遣わないでください」

「僕も別に気にしてないんで大丈夫ですよ」

「それと、こっちの席で一緒に食べるんだったら、お姉さんの荷物持ってこようか?」

「あ、すいません。すぐ持ってきます。お兄さんは先に煮付け食べてていいですよ」

「あら、二人は知り合いだったの?」

「いや、違いますよ。初対面です」

「そうなんだ。でも、お兄さんはいつも一人みたいだからたまには誰かと食べるの良いかもね。それに、こんな可愛いお嬢さんと一緒だなんてね」


 このおばさんはいい人だし悪気は無いというのはわかっているのだけれど、それでもこんな風に言われるのはあまり嬉しくなかった。それに、僕が良かったとしてもお姉さんがそう思っているとは限らないじゃないか。

 まあ、おススメを一人で食べることは出来なかったけれど、気にしないでおこう。

 おばさんの言葉を借りてしまうが、可愛いお姉さんと一緒に晩御飯を食べることが出来ただけでも幸せと思わなくちゃね。

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