嘘つき

ミドリ

嘘つき

 アリサがショウと出会ったのは、とある新宿歌舞伎町のクラブでだった。


 家にいたくなくて、毎晩の様に電車を乗り継いでは新宿東口アルタ前に降り立った。イラン人の店主が経営する小じんまりとしたクラブに行き、酒を飲み、同年代の女の子達と始発までマックで過ごすのが純粋に楽しかった。


 受験から解放され、後は入学するだけ。大した友達もおらず、地域に知り合いもおらず、アリサは同年代と過ごすことに飢えていたのだ。


 二日酔いのまま誰もいない開店したばかりの店のソファーで寝ていると、次に入ってきた、誰にでも優しいチャラいケイゴが寝顔にキスを落とす。アリサは、それを寝たふりをしてやり過ごした。あいつを狙っているちょっとやばい女がいる、とはキョウコの話だった。彼女でもないのに彼女面。そういうのが周りにいても、本人は気にしていない。そういう奴だ。近寄れば痛い目をみると、アリサは本能的に理解していた。


 暫く通い続けると、少しずつメンバーが変わっていく。アリサの後から来た子は、常連でない男達に無理矢理飲まされ、トイレで回された。アリサがついこの間吐き方をキョウコに教わった、そのトイレで。


 自己防衛が出来ていない。もっと警戒しないと駄目だろう。ここは、子供の遊び場ではない。そう思い、同情はしなかった。


 だが、アリサも子供だった。


 アリサは、このクラブでショウと出会った。建設現場で働いているという二十代前半の男。何度かクラブで顔を合わせる内に、付き合ってくれないかとショウに言われ、アリサは頷いた。これだけ相手を観察してきた。だから自分は大丈夫、そう思った。


 ショウは、顎になんともセクシーな黒子があるが、後は全体的にシンプルな作りの顔だ。ちょっと垢抜けてはいるが、派手ではない。そこが、他のチャラい男達と比べて違い、安心要素でもあった。


 それからは、クラブに行く回数が減った。代わりに、バイト終わりに最寄り駅まで迎えに来てくれたショウとご飯を食べに行き、ホテルに行く。お互い、終電前には別れる。そういう日常に切り替わった。


 愛されている。必要とされている。


 その事実が、それまで胸にポッカリと空いていたアリサの穴を、埋めた。



 ショウは、自分の話をしない。子供の頃の話はしても、流行りものは何が好きだったか、どんな歌手が好きだったか、何も教えてくれない。ショウはいつも、アリサがどこでどんな風に生きてきて、毎日何をして、これからどうやって過ごすつもりなのかをニコニコと楽しそうに聞く。


 だから、この人は人の話を聞くことが好きなのだな、そう思った。


 これまでの人と違い、ショウの抱き方は優しかった。気遣いがあり、決して独りよがりではない。包む様に抱き締められ、これまで欲望のままに動かれる経験しかなかったアリサにとって、それは新鮮だった。


 優しい人なのだな。そう思えた。


 ショウといない時、ショウと一緒にいる気になりたくなった。だから、それまで吸っていなかった煙草に手を出した。


 銘柄は、マイルドセブン。ショウがいつも吸っているやつだ。初めて吸った時は、むせて暫く咳が止まらなかった。だけど、どうしてもショウの匂いを感じていたかったから、無理をして吸い続けてみた。


 吸っている内に、やがて慣れた。肺の中まで煙を吸い込むと、爽快感を得ることが出来、それがアリサを少し大人になった気にさせてくれた。


 ショウは、クラブには行かないでという。アリサが飲み過ぎるから心配だと。変な男がいるから怖いと。だからアリサは、クラブに行かなくなった。キョウコからも、やがてメールは来なくなった。キョウコも、クラブ通いを辞めようかと悩んでいたから、多分辞めたのだと思う。あそこの新陳代謝は早い。そうやって、また次のアリサやキョウコがあそこを訪れるのだろう。


 アリサは、少しずつ日常に戻っていった。今度は、ショウと共に。


 ショウと過ごし始めて、三ヶ月が経った。相変わらず、泊まりはない。土日も仕事なのだという。建設現場は、そんなに忙しいものなのだろうか。


 ちっとも変わらない距離感。会って食事をして、やる。ショウは、相変わらず優しい。


 でも、ショウのことは何も知らないままだった。


「今度、泊まりで温泉に行こうよ」


 思い切って、そう提案してみた。返事は次に会う時まで待って、そう言われたから素直に待った。


 次に会い、やはり食事をした後にホテルに行った帰り道、ショウはアリサに言った。


 実は、童顔だが三十歳なこと。


 彼女と同棲していることを。


 騙されていた。真っ先にそう思ったが、これまで過ごした優しい時間を、偽りだけのものだとは思いたくなかった。


 騙されても、それでもまだ信じたかった。ショウは優しい。彼女とは、上手くいってないらしい。だったら、自分が本当の彼女になれないか。


 次に会う時に聞かせて。


 そう言って、その日は別れた。


 数日後、ショウと会う日がきた。


 やはり一緒に夕飯を食べて、そして当たり前の様に抱かれた。返事をしないままよく誘えるな。そう思ったが、返事をしないということは、アリサを選んだということなのかと都合よく考える。


 でも。


 よく考えたら、これまで夜しか会ったことがなかった。建設現場で働いているから、筋肉質だ。肌艶もよく、童顔なのも確か。だが、だが。


 よく見たら、手はきちんと年齢を重ねていた。果てたショウに、免許を見せてとねだった。


 嘘は、本当だった。


 急に、平然と数ヶ月も自分を笑顔で騙していた目の前の男が見知らぬ人間に思える。


 これまでは、暗くて見えていなかったのだろう。暗いのをいいことに、ショウは年齢を、彼女の存在を、何ヶ月もの間黙っていた。彼女がいるというのに、何故今回も当たり前の様に抱けたのか。


 理由は簡単だ。


 アリサがショウに惚れているのを理解しているからだ。ショウの方が優位に立っていると思っているからだ。


 アリサは、終電が近いからとショウを急かし、外に出た。一分一秒たりと、嘘つきと一緒にはいたくない。


 もう春は、すぐそこに迫っていた。風は冷たいが、南風の匂いがする。少し、潮の香りもした。


 ショウが、当たり前の様にアリサの手を取ると、言う。


「帰ろうか」


 ショウは、返事をするつもりがないのか。愕然とした。


 嘘だろう、そこまでクズだったのか。そう思いながら、尋ねる。


「ショウ、彼女とは別れた?」


 ショウは、夜の歌舞伎町の安っぽい光の中で、大いに躊躇う。嫌な予感がした。そして気付く。


 いつの間に警戒心を解いていたのだろうかと。


 何故、何も晒さない男を信用していたのか。


 ショウは、しょんぼりと項垂れる。


「ごめん……彼女は、何ていうか、もう家族なんだ。情が湧いてて、切れないんだ」


 唖然とした。冗談だろう。じゃあ、何故抱いた? アリサが尋ねなければ、このままずるずるとやっていくつもりだったのか。


 頭が、急に冴える。涙は、一粒たりと出なかった。


 これまでにない位、アリサは冷静だった。


「今すぐ、携帯に入ってる私の番号を消して」


 途端、ショウが焦りだす。泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。思っていたのだろう。だって、これだけ簡単に騙せた相手だ。これからも、余裕で騙せると思っていたに違いない。


 ショウが、情けなく眉を垂らす。


「ま、待ってよアリサ、俺、アリサとは別れたくない」

「消して」


 アリサは、譲らなかった。目の前の男は、これまでアリサの目に映っていた男ではなくなっていた。情けない三十路の男。馬鹿だ。アリサもショウも、両方馬鹿だった。


 自分の携帯を取り出し、目の前でショウの電話番号を消してみせる。


「ほら、早く」


 笑ってしまうくらい冷たい声が出た。ショウが、アリサを驚いた表情で見る。こっちの方が驚きだ。善人ヅラして、どれだけヤリたいんだ。呆れて笑いも起きない。


 ショウが、渋々アリサの番号をメモリから消した。だが、着信履歴で残っている。


 ――知らない番号は、出なければいい。


「じゃあね」


 アリサは、その場で立ち去ろうとした。すると、ショウが慌てて引き止めようとする。


「ま、待って! 俺、別れたくないよ! 連絡、またしていい⁉︎」


 アリサは軽蔑の眼差しをショウに向けた。


「いや、無理」

「ご……ごめん、でも」

「じゃあね、二度と連絡しないで」


 アリサは、その後一度も振り返らずに早足で駅へと向かう。途中、煙草が無性に吸いたくなった。ポケットを漁ると、マイルドセブンの箱が出て来る。だが、残りは一本。フィルターの所で折れていた。


 ――ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!


 煙草の自販機を見つけ、急いで駆け寄る。コインを投入し、マイルドセブンのボタンを押そうとし――やめた。


 代わりに、隣のボタン、マルボロライトメンソールのボタンを押した。これは、キョウコに何度かもらったことがある。マイルドセブンよりも、余程好みだった。


 アリサの後ろから通り過ぎようとした同年代の男が、アリサに声を掛ける。


「お姉さん、どうしたの? 大丈夫?」

「なんでもないです」

「でも、泣いてるじゃん」

「大丈夫ですから放っておいて下さい」


 そう? と、男はあっさりと引き下がり、時折振り返りつつも、駅の方面へと歩き去った。マルボロライトメンソールを一本取り出し、カチ、とライターを点ける。


 思い切り吸い込むと、メンソールが身体の中に入り込み、爽快感がアリサを襲った。


 ――なんだ、こっちの方が全然いいじゃないか。


「……糞ったれ」


 白い煙と共に呟く。


 折れた煙草が入っていたマイルドセブンの箱を握り潰すと、灰皿の下にあるゴミ箱に放り込む。


 メンソールの香りがアリサを包む度に、マイルドセブンの香りは消えていった。あいつがアリサに触れた感覚と一緒に。


 そして同時に、涙も消えていった。




 その後数日、知らない番号から複数回電話があった。


 三日目になり、アリサはそれを着信拒否に設定した。


「……糞ったれが」


 メンソールの煙を、空に向かって吐く。


 もう、マイルドセブンの香りはどこにも残っていなかった。

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