番外編5 護衛騎士の一日
夜明け前。いつもと同じ時間に自然に目が覚める。ランプに火を灯し、その小さな明りを頼りに身支度を整えた。時間が惜しいので、洗顔には寝る前に汲んでおいた水を使う。すっかり冷えているが、戦場でのことを思えば気にならない。
「おはようございます」
騎士寮を出て庭を進む。屋敷の勝手口まではすぐだ。
「おはようさん。それ、味見しとくれよ。初めて出すんだ」
コックが指差したのは、焼きたてのパンだ。
「……美味しいです」
「他には?」
「……」
「聞いた私が馬鹿だった。美味しいなら、それでいいさ」
気の利いた感想が浮かばずに申し訳ないと思ったが、コックの方も気にしていないようだった。
「おはようございます」
廊下を進むと、お嬢様の侍女であるオリヴィアと行き合った。
「本日は学院ですね」
「ええ。今日は午後までめいいっぱい講義が詰まっています」
お嬢様の部屋に向かいながら、二人でその日の予定を確認するのが日課になっている。
「ご帰宅後は、晩餐まで予定はありません。遅めのアフタヌーンティーをご準備いたします」
「晩餐は閣下と?」
「はい。その後、本日はご入浴の予定です」
「分かりました」
お嬢様の寝室の前室に入って、夜番の騎士と引き継ぎをする。特に異常はなかったらしい。以前、
そのまま前室でお嬢様の起床時間まで待つ。
起床時間になるとオリヴィアが洗顔用の湯と紅茶を運んできた。ドアの隙間から寝室を覗き見て、お嬢様の顔色を確認するのも日課だ。支度の後では、化粧で顔色をごまかしていることがあるから。
(昨夜は、よく眠れたらしい)
「おはよう、ノア」
「おはようございます、お嬢様」
支度を整えて部屋から出てきたお嬢様の後ろをついて行く。食堂に入ると、マクリーン侯爵がすでに着席していた。
「おはよう、ジリアン」
「おはようございます、お父様」
お二人が食事を摂っている間は控室に下がって少しばかり休憩する。マクリーン侯爵の側にいるときは、お嬢様にとって最も安全な時間だからだ。また、侯爵は二人きりで食事をとることを好む。
(はっきりとおっしゃったわけではないが……)
邪魔だと言わんばかりに騎士や使用人を見るので、察しない方が難しいというものだ。
他の使用人たちも、早々に給仕を終えて食堂から退散する。本来であれば誰かが中に残って何くれと仕事があるものだが、それには目を瞑っているようだ。最近では、執事頭のトレヴァーが侯爵の手元に呼び鈴を置くようになった。
「それでは、行ってまいります」
「気を付けて」
侯爵と使用人による見送りも日課だ。使用人たちは大勢で見送りたいが、お嬢様は大仰だと嫌がられる。仕方なく、見送りに出てくる使用人は5人までと決められた。毎朝くじで誰が見送るかを決めているらしい。
今日は洗濯室に新しく入った少女も顔を見せていた。お嬢様に声をかけられて頬を染める様子が微笑ましかった。
学院に到着すると、護衛騎士の仕事はがぜん忙しくなる。
不届きな男子学生たちがチラチラとお嬢様に目線を寄越すので、その都度睨みつける必要があるからだ。騎士に睨まれた程度で怯むならば、初めからお嬢様の尊いお姿を視界に入れるべきではない。
「ノア」
「はい」
「その恐い顔、やめてちょうだい」
「……地顔です」
「違うって知ってるのよ?」
これには無言を貫いた。お嬢様の方が諦めたようにため息を吐く。
「もう。困った護衛騎士ね」
「侯爵閣下のご命令ですので」
「はいはい」
もちろん、理由はそれだけではない。
(お嬢様は美しい。それなのに、ご自分に向けられる視線の意味を、まったく理解していない。私がお守りしなければ)
これは、天がお与えになった使命なのだ。
「ジリアン!」
だというのに、お嬢様に気安く話しかける人物がいる。身分の差があるため、表立って文句を言うことはできないが、できることなら今すぐ決闘を申し込みたいところだ。
「おはよう、アレン」
「今日の髪型、可愛いな」
「そうかしら?」
「ああ。そのリボン、よく似合ってる」
「ありがとう」
嬉しそうに微笑むお嬢様に、目眩がする。
(危機感を持ってくださいと、あれほど言っているのに!)
二人の間にズイッと身体を割り込ませれば、彼に睨みつけられた。
「ご自重下さい」
その一言で、二人とも察したらしい。ため息を吐いて見つめ合っていた視線を逸した。彼の方は、こちらに恨みがましい目線を送るのを忘れない。
(特に注意するように侯爵閣下からも命じられているのだ)
護衛騎士を間に挟んで三人で連れ立って歩く異様な光景を、ぎょっとした表情で見る学生がいた。新入生だろう。他の学年の生徒たちは、すっかり見慣れた光景なので気にも留めないのだった。
講義はすべて、滞りなく終了した。
講義中にお嬢様に話しかけようとした男子学生が3名、休憩中に話しかけようとした男子学生が6名、昼食に同席しようとした男子学生が4名。新入生がほとんどだ。だが、すべて顔と名前を覚えたので問題はない。
(明日からは、近づく前に……)
「ノア」
「はい」
「また何か、物騒なこと考えてるでしょ?」
「まさか」
「……ノア」
「……お嬢様が気になさることではありません」
「もう」
帰宅後は、着替え等が終わるのを部屋の前で待つ。今日は温室でアフタヌーンティーの予定だ。
「今日は私の護衛騎士殿をご招待したいのだけど」
「私ですか?」
「ええ。甘くないお菓子も準備してもらったわ」
「よろこんで」
お嬢様は、お茶の席には必ず騎士や使用人を招待する。いつも周りにいるのだが、そもそもテーブルについているのが自分一人というのが寂しいらしい。
お嬢様が手ずからお茶を淹れてくださる様子に、思わず胸がぎゅっと締め付けられた。
(毎回これでは、心臓が保たないな)
丁寧な手付きでお茶を淹れる姿を見ていると、どうしても思い出してしまうのだ。あの、夏の日のことを。
「今日の茶葉は気に入ってくれるかしら? バラの香りがついているのよ」
「ああ、良い香りです」
「でしょう?」
お嬢様が選んだ茶葉ならば、どんな茶葉でもよいと思えるのに。お嬢様はいつでも丁寧にもてなしてくださるのだ。
その後の晩餐は、朝食と同様にお嬢様と閣下の二人きりで楽しんでいただく。給仕の方も諦めて、大皿で料理を出すようになった。すべての料理は、お嬢様が作った魔法道具で完璧に温度管理されているので問題ない。護衛騎士も、使用人用の食堂で夕食をとる。
晩餐の後は入浴の予定なので、この時間を使って浴室の準備をしているらしい。使用人用の通路から浴室までが慌ただしい。とはいえ、ここでもお嬢様の魔法道具があるので、バスタブいっぱいの湯を溜めるのには、それほどの人手は必要ない。
メイドたちが最も時間をかけているのは、髪を洗う石鹸や香油選びだ。あれこれと話す声が聞こえてくるが、男には全く理解できない領域である。
「気持ちよかったわ」
ネグリジェ姿で浴室から出てきたお嬢様を、咄嗟に背の後ろに隠した。背の後ろから、ふわりと花の香りが漂ってくる。しっとりと項を伝った汗は、見なかったことにするしかない。
首を傾げたお嬢様だったが、特に何も言わずに後ろをついて歩いてくださった。
すれ違う使用人たちに視線を向ければ、分かっていますとばかりに頷いて、お嬢様から視線を逸らす。新人騎士の一人が、湯上がりのお嬢様を不躾に見つめていたが、隣の騎士が頭を押さえつけて小声で怒鳴りつけていた。
(顔は覚えた。……次の訓練で、教え込まなければならないな)
お嬢様を部屋へ送り届けて、そのまま前室で警備につく。
しばらくすると、寝室のドアが開いた。就寝の時間だ。
「おやすみ、ノア」
これも、お嬢様の日課だ。護衛騎士など放っておけばいいのに、こうして毎晩就寝の挨拶をしてくださる。
(8歳の頃から、変わらない)
その優しさは色褪せることなく、今も私の心を温めてくれる。
「おやすみなさい、お嬢様」
そのまま、日付が変わるまで前室に待機する。交代の騎士が来たら騎士寮に戻って、就寝。
そしてまた、夜明け前に目覚めるのだ──。
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時系列としては、第1部と第2部の間くらいのお話です。
お楽しみいただけると幸いです。
第3部連載再開は7月中旬頃を予定しています。
予定よりも時間がかかっており、申し訳ありません。
もう少々、お待ち下さい……。
※サポーター様限定で公開していた番外編の再掲となります。
本日、サポーター様限定で新しい番外編「王子様のわがまま」を公開しています。
そちらの再掲は未定です。
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