第3章 勤労令嬢と王子様
第21話 たった一人の
何かを忘れている。
とても大切な存在だ。
それなのに、どうしても思い出すことができない。
その肖像画を前に、マクリーン侯爵は文字通り身動きが取れなくなっていた。
画家の青年はとうに退出し、応接間には侯爵一人きりになっている。
「……閣下」
大きなガラス窓から夕日が差し込む頃になって、しびれを切らしたノアが声をかけた。
「……私は、何を忘れているんだ?」
「わかりません。ですが、私も同じように……何かを忘れている気がしてなりません」
肖像画の中では、ぎこちない笑顔のマクリーン侯爵の隣で黒髪の少女が幸せそうに微笑んでいる。そして、侯爵が握りしめている紙片にも、まったく同じ構図で二人の姿が描かれている。
画家の青年が言うには、こうだ。
『この女性が誰なのかは、私にもわかりません。けれど、この紙に描かれている通りに肖像画を描いてほしいと、ご注文を受けました。……そういえば、こちらのお嬢さんの腰を少し細く描くように言われた気がします』
誰に言われたのかは憶えていないと話していた。
「これは、何だ?」
「……わかりません」
侯爵の指が、ぎこちなく紙片を撫でる。
「魔法で生み出されたものだろう。だが、これはどんな魔法なんだ?」
『新しい魔法』と呼ばれるものだということは、ノアにもわかった。しかし、それがどんな魔法なのか、想像もできない。
「……私は、この魔力の持ち主を知っているはずなんだ」
紙片には、わずかに魔力の
「これは、誰だ?」
「……生きていれば、あの子と同じくらいの年頃か」
『
「いえ……ご子息よりも、いくつかお若いように見えます」
もし生きていれば、今年で26歳になる。よくよく見れば、肖像画の女性は結婚前の年頃に見えた。
「そうか」
「はい」
その息子には、侯爵もノアも会ったことはない。二人が戦場にいる間に生まれ、数カ月後に病死した。侯爵夫人も時を同じくして、同じ病で亡くなっている。
「あの子と同じように、この子のことも愛していたように思う」
侯爵が再び肖像画を見つめた。
「私が忘れているのは、この子だ。私の、たった一人の……」
そこまで言ったところで、侯爵の頭に激しい痛みが襲いかかった。
「閣下!」
頭を抱えてうずくまった侯爵に、ノアが駆け寄る。
「ダメだ! 消えるな!」
侯爵が叫んだ。その視界を、黒いモヤが覆い隠そうとしている。
「やめろ!」
無意識の内に魔力を練り上げる。自分から大切なものを奪おうとしているのが誰かの魔法だと、本能で気付いているのだ。
(この魔法が、私からこの子を奪ったのだ!)
腹の底から、激しい怒りが湧き上がる。
(魂を解放しろ。怒りを抑えるな。心のままに、望みのために……!)
侯爵は、自分の胸の内で燃え盛る炎に願った。
(もう一度、会いたい!)
蒼い炎が、燃え上がった。
* * *
『ねえ、クリフォード』
侯爵家の領地の風景だ。鏡のような美しい湖の
『この子が生まれたら、今よりももっと私のことを愛してくれなきゃ嫌よ?』
少し
『君を? その子ではなくて?』
その様子があまりにも可愛らしくて、つい意地の悪いことを言ってしまった。
『あなたがこの子を愛することなんて、当たり前よ。血を分けた子どもなんだもの。きっと、愛しくて愛しくてたまらなくなるはずよ』
彼女は
『私のことはね、何度でも愛してるって言って。……忘れないでね。お願いよ』
一陣の風が吹き抜けて、舞い上がる白い花びらが視界を
* * *
『私が、かわいそうだったから?』
次いで見えたのは、悲しそうに
小さな手が、スカートをギュッと握りしめている。
『そうだ』
優しく抱きしめればよかったのだろうか? そうすれば、彼女は安心したのだろうか?
(それでは、意味がないと思った)
心から信頼できる家族にならなければ。そう思ったのだ。
子供らしく振る舞うことを、彼女自身が許せる日が来ることを願って。
『働かせてください』
あの日。不安に瞳を揺らしながらも、そう訴えた少女に対して芽生えたものは、確かに愛だった。
『ただいま、お父様』
あの瞬間、全身が喜びに震えた。
『私は、お父様の後継者を目指します』
嬉しかった。
『……愛しています、お父様』
愛おしかった。心から。
ぼんやりとしていた姿が、徐々に鮮明になっていく。
小さな少女が、クルクルと表情を変えながら、少しずつ成長していく。
『お父様!』
ああ、私のたった一人の愛しい子だ。
「ジリアン!」
* * *
「侯爵!」
水から浮き上がるようにして、意識が戻った。
目の前には、金色の瞳。
「殿下……」
「大丈夫ですか!」
脂汗をかいて呼吸を荒げる侯爵を、アレンが助け起こしてソファに座らせる。執事が冷えた手ぬぐいで汗を拭くのに、侯爵はされるがままになった。
「何があったんですか?」
「……思い出した」
「え?」
「思い出したんだ!」
侯爵が、アレンの両肩を掴んだ。その勢いのまま、アレンの身体を激しく揺する。
「ジリアンを助けなければ!」
その言葉に、アレンが息を呑む。
「侯爵も……」
「時間がない! 通してもらうぞ!」
アレンの言葉は、玄関から響いてきた怒声に遮られた。言い争う声と物音が、応接間に近づいてくる。
──バンッ!
応接間の扉が乱暴に開かれた。そこにいたのは、テオバルトだった。
「やはりここに!」
テオバルトが慌ただしく二人に駆け寄った。そして、侯爵とアレンの様子を見て、ひとつ頷く。
「どうやら、お二人とも思い出したようですね」
アレンも頷いた。
「ああ。だから、急いでここへ来たんだ。……お前も?」
「はい。……ジリアンを、助けに行きましょう」
間もなく日が暮れるという時間から、マクリーン侯爵の屋敷はにわかに騒がしくなった。武装した騎士たちが続々と
「ジリアンは、ディズリー伯爵邸です」
馬を走らせながら、三人で情報を共有する。街中を行くため全力疾走はできないので丁度いいといえば、丁度いい。
「ソフィー・シェリダンがスチュアート・ディズリーと婚約したそうですから、間違いありません。ハワード・キーツの目的はわかりませんが、必ず手元に置いておくはずです」
ふと、テオバルトがアレンのポケットに目をやった。
「それは?」
「なんだよ」
「ポケットの中です。強力な
「ああ。カフスボタンだ。……たぶん、ジリアンからの贈り物」
その言葉に侯爵の肩がピクリと揺れた。何やら言いたいことがありそうだが、ぐっと堪えている。そんな話をしている場合ではないからだ。
「そのカフスボタンには、魔大陸の
「
「ええ。たいへん複雑な
「どんな
「あらゆる邪悪な魔法から、あなたを守る
アレンがジリアンにかけられた『
「お前は、どうやって思い出したんだ?」
「その話は、後にしましょう。まずは、彼女を取り戻さなければ」
「……その通りだ。急ぐぞ」
侯爵が馬の腹を蹴った。郊外に差し掛かってきたので、交通量が減ったのだ。三頭の馬が、ぐんと速度を上げる。
「この
侯爵の背からは、殺気が立ち上っている。
「殺す必要はありません。かなりの魔力を消費しているはずですから、『
「魔力の供給を断てばいいというわけだな」
「はい」
そうこうしている内に、ディズリー伯爵邸に到着した。
その途端に、
──ボォッ!
立派な門扉が一瞬の内に燃え上がって、そして
侯爵の魔法だ。
慌てる門衛になど構うことなく、侯爵は騎馬のままで庭に入った。
「
次の瞬間には、赤レンガの美しい邸宅が炎に包まれた。
「これが、英雄の魔法か……。絶対に、怒らせてはならない人だな」
テオバルトの呆然とした呟きに、思わずアレンも頷いたのだった。
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