勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜

鈴木 桜

第1部 勤労令嬢、愛を知る

第1章 勤労令嬢と侯爵様

第1話 ある夏の日の客人



 ジリアンの朝は早い。

 夜明け前、一人で起きて仕事を始める。


 まずは家畜小屋の掃除。えさをやり、水を足す。馬は馬場ばばに放して、にわとり小屋で卵を集める。今日もたくさん産んでくれた。

 次は畑の世話。この季節は雑草が多いから大変だ。食べ頃の野菜も収穫していく。


 外の仕事が終わったら今度は屋敷の中の仕事だ。

 家人が起きてくる前に玄関と廊下の掃除をして。絨毯じゅうたんのほこりを払っていく。階段の手すりのワックスがけをおこたると、後でしかられてしまう。

 最後に食堂の家具を磨き上げて、花を飾る。


 水を汲んだら厨房ちゅうぼうへ。火を起こして湯を沸かし、朝食のパンを焼き始める。


「ジリアン! ジリアン!」


 その頃に起き出してくる家人。

 それぞれの部屋に、湯と紅茶を運ぶ。


「そのドレスは嫌よ。ブルーのやつを出して」

「髪は結い上げてちょうだい」

「おい、新聞はどこだ」


 ジリアンのであるオニール男爵、継母ままははであるその夫人。夫妻の娘であるモニカ嬢。

 三人が起きてくると仕事はさらに忙しくなる。洗顔を手伝い、髪をブラッシングして、衣服を着せていく。


 それが終わったら、ようやく朝食だ。

 もちろん、ジリアンの席はない。


「今日もきちんと半熟だろうね、ジリアン」

「はい、奥様」


 夫人がエッグスタンドの卵をスプーンで叩きながらジリアンをにらみつけて。その隣でモニカ嬢が鼻を鳴らし、男爵は素知らぬ顔で新聞に目を通す。


「よろしい」


 夫人のお許しが出た後には、三人の部屋を掃除してベッドメイキング。朝食が終わるまでに済まさなければ夫人の機嫌が悪くなってしまう。


 その後も、仕事が途切れることはない。


「ジリアン、手紙の返事を書いておけ」

「はい」


「ジリアン、これつくろっておいて」

「はい」


「ジリアン、スコーンなんか嫌よ。トライフルを持ってきて」

「はい」


「ジリアン!」


「ジリアン!」


「ジリアン!」





 オニール男爵家に使用人はいない。いるのは、めかけの子であるジリアンだけ。

 彼女一人で全ての仕事をこなしている。娘であれば給金を払う必要がないから。


(貧乏だから仕方がないわ)


 ジリアンは、愚痴ぐち混じりに、村の大人にその話をしたことがある。

 『そんなこと大人でも出来るはずがない。ましてや君みたいな子供に……』と笑われた。

 貧乏とはいえ、貴族の家の仕事すべて。本来はの子供一人でこなせる仕事量ではない。

 

(私もそう思う)

 

 ジリアンが、普通の子供だったなら──。





「失礼、お嬢さん」


 ある夏の日の午後。

 男爵夫妻とモニカ嬢がピクニックに出かけている時、その人は来た。


「はい」


 声は門の方で聞こえた。

 ジリアンが慌てて駆けていくと、そこにはフロックコート姿の立派な体躯たいくの男性がいた。年の頃は男爵よりも少し若い。

 見るからに平民ではない。貴族だ。


「お仕事中に申し訳ない」

「いえ。こんな格好で申し訳ありません」


 ジリアンは恥ずかしくなって、草だらけのエプロンを外した。


「どなたか、大人の方をお呼びいただけませんか?」

「あいにくと、旦那様も奥様も出かけております」

「では、執事の方などは?」

「おりません」

「おられない?」

「はい。この屋敷の使用人は私一人ですので」


 オニール家の事情を知らない人には、ジリアンは使用人だと名乗るようにしている。そうしておけば男爵も夫人も機嫌が良いから。


「では、男爵様がお戻りになるまで、待たせていただいてもよろしいでしょうか?」


 勝手に屋敷に招き入れれば、後から叱られるかもしれない。

 逆にここで断れば、大切な客人を帰してしまったことを叱られるかもしれない。この男性にも無駄足を踏ませることになる。


「……もちろんです。どうぞ」


 結局、ジリアンは自分が叱られて済むならと屋敷に案内することにした。


 馬は男性の手で厩舎きゅうしゃに入れてもらった。飼い葉と水を置いてから、男性を応接間に案内する。

 そこで、はたと今朝読んだ新聞に出ていた記事を思い出した。『使用人がお茶の準備で席を外した隙に……。銀製品盗まれる!』という見出しの記事を。


(お一人にしてはいけないわね)


 だとしても、客人に茶の一つも出さないわけにはいかない。


(仕方がないわ)


 ドアを開けて、右手を一振り。

 すると。


 ──カラカラカラ。


 茶器を乗せたワゴンが廊下の向こうから

 ワゴンを押して応接間の中に戻ると、男性が小さく首を傾げる。


「使用人は、お一人だったのでは?」

「はい。私一人です」


 もう一度、男性が首を傾げる。


(何が不思議なのかしら?)


 応接間の中に何かあるのかとも思ったが、男性はジリアンの方を見ている。


(私の格好が変かしら?)


 それとも、男爵の娘なのに給仕をしていることがわかってしまったのだろうか。

 視線を感じながらも、ジリアンはお茶の準備を進めた。



 を使って──。



 まずは銅製のケトルを

 その間に、ポットもティーカップも

 茶葉をポットへ。そこへ沸かした湯を注いでフタをして、蒸らす。砂時計が落ち切ったら、ポットの中をスプーンで軽くひと混ぜして。

 出来上がったお茶を、茶こしでこしながらティーカップへ注ぎ入れる。


(いい香り)


 客用の茶葉は、貧乏男爵家にしては高級品を置いている。これで気を悪くする客人はいないはず。


 それなのに。


 男性の前にそっとティーカップを置くと、その手がビクリと震えたのが視界に入った。

 どうしたのだろうかと顔を上げると、男性の顔が真っ青になっていた。


(何か、気を悪くさせるようなことをしたかしら)


 ジリアンも同じように顔を青くした。


(ああ、そんなことよりも!)


 ジリアンが慌てて右手を振ると、洗濯室から綺麗なハンカチが。そのハンカチを、さっと


「大丈夫ですか?」


 よく冷えたハンカチを手渡すと、男性の手はさらに震えた。


「……どうかされましたか?」


 尋常じんじょうではない様子に、ジリアンが尋ねる。

 男性は唇を震わせながら、ようやっと、という様子で口を開いた。


「それは、魔法・・ですか?」


 その問いに、今度はジリアンが首を傾げた。


(それがどうしたのかしら?)


 男性も貴族。

 貴族ならば、使のはず。


「どう、やったのですか?」

「え?」

「どのような、魔法を使ったのですか?」


 男性の震える声に、ジリアンはだんだん不安になってきた。


(きっと、使用人だと思っていた私が魔法を使ったから驚いているのね)


 ジリアンはきちんと名乗らなかったことを後悔した。貴族の血を引いていない人間が、魔法を使えるはずがないのだから。


(私がちゃんと名乗らなかったから。怒っているんだわ)


 今度はジリアンの手が震えはじめた。


(しかられる……!)


 ジリアンはぎゅっとスカートを握りしめた。


「はぁ」


 男性が息を吐いたのがわかった。何も答えられないジリアンに呆れているのかもしれない。

 さらに怖くなったジリアンが唇を噛むと、男性がジリアンの前にひざまずいた。


「教えていただけませんか?」


 男性は優しい手つきで、固く握りしめていたジリアンの手を解いていく。さらにその手を握ったまま、ジリアンの顔を覗き込んだ。

 ジリアンがそっと視線を上げると、チョコレート色の優しげな瞳がそこにはあって。カチリと、目が合った。


 その瞬間。


「ジリアン! ジリアン!!」


 玄関から聞こえてきたのはオニール男爵の怒鳴り声。


「ごめんなさい!」


 ジリアンは慌てて男性の手を振り切って、応接間を飛び出した。帰ってきた三人を出迎えなかったことに、男爵はおかんむりなのだ。


「おかえりなさい」

「何をしているんだ!」

「申し訳ありません」

「さっさと着替えを準備しろ」

「はい、ただいま。あの、でも……」

「口答えするのか!」


 ──バシン!


 ジリアンは客人が来ていることを告げようとしたが、それは言葉にすることができなかった。男爵にほほたたかれたからだ。


「申し訳ありません」


(今日は機嫌が悪いらしい)


 こうなっては、何を言っても何をしても叱られる。気がすむまで叩かれるしかないことを、ジリアンはよく知っていた。

 すぐ近くには夫人もモニカ嬢もいるが、もちろん止めてはくれない。


「この、のろま!」


 ──バシン!


「誰がここまで育ててやったと思ってるんだ!」


 ──パシッ。


 三発目の平手は、ジリアンの頬に当たる前に乾いた音を立てて止まった。誰かの手が、男爵の平手をさえぎったからだ。


「割り込んで申し訳ない。しかし、この仕打ちはあまりにも……」


 応接間にいるはずの、男性だった。


「……どちら様ですかな?」


 オニール男爵が男性の頭から足の先までを舐めるように見る。

 失礼な様子だったが男性は気にした様子もなく、さっと腰を折って挨拶した。


「失礼しました。私はノア・ロイド。マクリーン侯爵の騎士団の者です」


 それを聞いた途端、男爵の表情がガラリと変わった。


「あの英雄、マクリーン侯爵閣下の! では、あなたも『魔法騎士』でいらっしゃる!?」


 『魔法騎士』とは、文字通り剣と魔法を使って戦う人のことだ。ジリアンも新聞で読んだことがある。


(西の海で『魔族』と戦う『魔法騎士』……? この方が?)


 ジリアンには、そうは見えなかった。物腰の柔らかい、素敵な紳士に見えていた。


「戦争が終わって、こうして安全に暮らせるようになったのも『魔法騎士』の皆様のお陰でして……」

「我々は務めを果たしただけですよ」

「いやいや、ご謙遜けんそんを……」


 男爵がへこへこと頭を低くして両手を揉み合わせる。その様子に、夫人もモニカ嬢も驚いている。


「ささ、こちらへ」

「いえ、けっこうです」


 男爵はロイド氏を応接間へ案内しようとしたが、ロイド氏は笑顔のままで首を横に振った。


「え?」


 肩透かたすかしを食った男爵が間抜けな声を上げる。


「用件は済みましたので」


 それだけ言って、ロイド氏は颯爽さっそうと玄関から出ていった。

 ジリアンは、慌ててその背を追いかける。


「ジリアン!」

「お叱りは後で! お見送りしてきます!」


 男爵はまだ何か怒鳴っていたが、ジリアンは構わずに厩舎きゅうしゃへ駆けた。預かっていた馬を返さなければならない。


「申し訳ありませんでした」


 馬の手綱たずなを差し出すと、ロイド氏が微笑んだ。


「あなたは何も悪くありませんよ」

「ご気分を悪くされたのでしょう?」


(私のせいで、怒らせてしまった)


 そのせいで、ロイド氏は男爵への用件を果たせずに帰ることになったのだ。


「いいえ。そんなことはありません」

「では」

「本当に、私の用事は済んだのです」

「……そうですか」


 こう言われてしまっては納得するしかない。


「では、またお会いしましょう。ジリアン嬢」

「はい」


 それは、社交辞令だとジリアンにはわかっている。

 男爵の娘ではあっても、ジリアンは令嬢ではない。貴族であるロイド氏と、次の機会があるとは思えなかった。


 ロイド氏は、何度かジリアンの方を振り返りながら帰っていった。

 その後ろ姿が丘の向こうへ見えなくなるまで、ジリアンは手を振って見送ったのだった。


(さあ、あとは……)


 屋敷へ戻ると、玄関には顔を真っ赤にして怒っているオニール男爵がいた。


(ああ、今日はたくさん氷を作らなければ)




 魔法・・で──。





 ルズベリー王国は、戦の絶えない国だった。

 西の海を挟んだ向こうには『魔族』が暮らす大陸があり、常にその脅威にさらされ続けてきたのだ。

 20年前、ルズベリー王国の王子が海上で殺された事件をきっかけに戦争が勃発。かつてないほどの激しい戦いとなった。

 互いに魔法・・を駆使して殺し合った戦争は、後に20年戦争と呼ばれることとなる。

 その戦争が、つい数ヶ月前に終結した。『魔族』の皇帝と講和条約を結んだのだ。

 こうしてルズベリー王国は、ようやく平和の時代を迎えた。


 魔法・・が【武器】ではなく【生活】のために使われるようになる、時代の転換期の訪れである。


 後に『時代を変えた天才魔法使い』と呼ばれる少女は、この時まだそれを知らない──。


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