「明日世界が滅ぶとしても、今は笑ってくれ」と俺は言った
世界が終わるらしい。
詳しいことは知らないが、どこかの国の名前も知らない誰かが、世界を終わらせるボタンを押したのだという。そんなボタンが存在していたこと自体、まったくもって初耳なのだが、とにかく一度始まってしまった終末へのカウントダウンはもう誰にも止められないそうだ。
この世界に与えられた時間は、あと一日だった。
混乱の中で世間があらゆる機能を失った今、高校が休校になったからといって特に何をするでもなく、俺はいつも通りに登校した。どうせ誰も居ないだろうから図書館の本でも読もうかと思っていたが、教室にはサクラが居た。サクラは窓枠にもたれかかって、遠くの空を眺めていた。
「おはよう、サクラ」
「ん、紹廸だ。おはよ」
サクラは三割引のシールが貼られたおにぎりを頬張っていた。
「まさか僕以外にも登校してくるなんて思わなかった。どうしたの」
「家に居ても、やることが無いから」
俺はサクラの隣に並んで街を見た。高台に建つ高校からは街の様子がよく見えた。いつもよりも静かな気がしたのは、校舎に俺とサクラのふたりしか居ないからではなさそうだった。街は静まり返っているようだった。それは、たとえば元旦の早朝と似ていた。
「サクラは?」
「僕も同じだよ。母さんは今日も明日も集会。世界の終わりは他の信者と一緒に迎えたいらしい。みんな揃って次の次元に旅立てるのは、神様のお導きなんだってさ」
夢見がちだよね、とサクラは呟いた。
サクラの家庭事情は少し複雑で、母親は俺たちが小学生の頃から新興宗教にのめり込んでいる。見かねた父親はサクラを連れて離婚しようとしたが、教会に手回しをされて親権を取ることが出来ず、サクラは母親の元に残ることとなった。その母親も普段は教会に入り浸っていて家にはほとんど帰らない。たまに帰ってきたと思えば、信仰心が足りないと言ってサクラを殴る。父親からは毎月欠かさず生活費が振り込まれるし、教会の監視の目をくぐり抜けてこっそりと会うこともしてきたが、それではサクラを救えないのが現実だ。
「紹廸のお父さんは?」
「あの人が帰ってくるわけないだろ」
俺の家庭事情も、よくある感じに複雑だ。俺の両親は愛の無い結婚をした。互いに親権を押し付け合った結果、俺の父親は仕方なく俺を引き取って、仕方なく一緒に暮らしていた。俺が小学校も高学年になって、ひとりである程度の家事が出来るようになった頃に、真実の愛とかいうものを見付けたらしい。運命の人に巡り会えたと言っていたようにも思うが、言い回しは何であれ、俺にとって父親は月に一度、家に来ては俺の生存確認をして生活費を置いていくだけの存在になった。俺もその時だけ自分にまだ父親という存在があるのだと感じたが、それは他人と家族のどちらからも外れた存在だった。
「他人の心配をしなくて良いと思えば、いっそのこと楽だ」
俺もサクラも、家族が意味を成していないという境遇では似ていた。だからというわけではないけれど、サクラとは気が合う。
「それじゃ、せっかくだからバケットリストを作ろうよ」
サクラが俺を見て言った。初めて聞く言葉に俺は首を傾げた。
「バケット?」
「よくあるでしょ、死ぬまでにやりたいことリスト」
「ああ、あれ」
床に置いていた通学鞄の中から数学のノートとペンケースを取り出すと、サクラは机の上にノートを広げた。俺はサクラの前の席に座った。
「紹廸は何がしたい?」
「急に聞かれても困るな。サクラは?」
「僕はねぇ、高校の坂道を自転車のブレーキを掛けずに下りたい」
「あー、危ないからって普段は禁止されているもんな、確かにロマンはある。でもサクラは徒歩だろ」
「うん、だから紹廸の自転車の後ろに乗る」
サクラは嬉しそうにシャーペンを走らせた。紹廸と一高坂を自転車でノーブレーキ。サクラの少し角張った字で最初の一行が埋まる。
「何か思い付いた?」
「いや、まったく」
「思い付いたら教えて。あとは、霊園の猫たちに鰹節をばらまきたい」
そう言いながらサクラはまたノートに書き込む。街の郊外の山にある霊園には野良猫が多い。地域猫として世話されているらしいが、心霊スポットより猫スポットとして有名だ。
「じゃスーパーで鰹節を調達しないとな」
「スーパーに寄るなら、大きいサイズのアイスを食べたい。あ、でも絶対にお腹を壊すから、やめておこう。終末を腹痛で過ごすのは嫌だ」
「小さいサイズにすれば良いだろ、アイスを諦めるなよ」
「それもそうだね。普段は買わない味を買おう」
初めての味のアイスを食べる。最後の一日分のおみくじを引く。天体観測をする。河川敷の芝生を段ボールで滑り降りる。ボウリングでストライクを出す。レイトショーを観る。サクラのささやかなやりたいことがリストに加わっていく。
「僕のやりたいことばっかりだ。紹廸は? 何かあるでしょ」
「俺? そうだなぁ」
サクラのやりたいことを聞いていて、自分のことを考えるのは忘れていた。俺は思考を巡らせたが、何ひとつ思い浮かばなかった。
「やらないまま死んだら後悔することって、そう簡単には出てこないものだな」
「でも、何かひとつくらい紹廸のやりたいことをしようよ」
「そうは言ってもなぁ……まあ考えておくから、終わるまでには思い付くだろう。効率よく進めないと時間が足りなくなるだろうから、まずは、自転車で坂を下るところからスタートだな」
俺は自転車の行を指先で突いた。
「で、スーパーでアイスと鰹節を調達したら、河川敷でアイスを食べて段ボールで滑る。その後は神社でおみくじを引いて、次はボウリングか?」
「霊園が一番遠いから、先にそっち行かない?」
「それなら、おみくじを引くのは山の麓の神社にするか。で、猫たちに鰹節をあげたら駅前に行って、ボウリングからのレイトショー、最後が天体観測。この順番で行くとするか」
「良いね。そうと決まったら早速行こう」
そういうわけで俺とサクラは教室を出て駐輪場に向かった。誰も居ない駐輪場には俺の自転車しか無い。俺は自転車の後ろにサクラを乗せて、ペダルを漕いだ。最初は少しふらついたが、すぐに真っ直ぐ進んだ。
「普段は二人乗りも怒られるよね」
「そりゃバランスを崩しやすくて危ないからな」
校門を出るとすぐに長い下り坂が待っている。一高坂と呼ばれるその坂道は、傾斜はそれほど急ではないものの、思いのほか長いことと、途中に大きなカーブもあって、下校時間には生徒がスピードを出しすぎないように先生たちが見張っている。そういうわけでいつもはほとんどの生徒が自転車を押している。その坂も今日は無人だ。
「しっかりつかまっていろよ」
サクラの腕が俺の腰に回された。
俺もサクラも、多分、この世界そのものにはたいした未練など無くて、ただ日常の延長に世界の終わりがあるに過ぎなかった。
ゆっくりと下り坂に入った自転車は、徐々にスピードを上げていく。街並みが近付いてくる。ペダルを漕がなくても自転車は風を切って進んだ。梅雨前の青空の下、ゆったりとカーブを曲がって、坂道の終わりが見えてきた。サクラは後ろで笑っていた。坂道の終わりでブレーキを掛けた。自転車はギュッと止まって、サクラの頭が俺の背中にぶつかった。
「どうだった?」
「楽しかった。風の中を通り抜けるのも、見慣れた景色があっという間に後ろに消えていくのも、すごく良かった。ジェットコースターより好きだな」
サクラはノートを取り出して、自転車の行に線を引いて消した。
俺はサクラを後ろに乗せたままノロノロと自転車を漕いでスーパーに向かった。スーパーは空いていたけれど、思ったよりも客がいた。通りすがりにカゴの中身を見ると、すき焼きとか、カレーの材料とか、寿司とかケーキとか、そういったものが入っていた。
「みんな、家族と過ごすんだね」
鰹節の袋を手に取って見比べながらサクラが言った。その声は、少し驚いているような感じに聞こえた。
「普通は大切な家族と過ごすんじゃないか?」
「それだと紹廸のお父さんも普通の人ってことにならない?」
「今になってあの人が俺に手を差し伸べても、俺はその手を握らないよ」
俺たちにとって家族というものは、とっくの昔に壊れていて、それが本来はどんな形であるべきなのか、フィクションの世界の情報しか知らない。テレビの中の家族は、ひとつのテーブルを囲んで食事するらしい。休日はショッピングモールに出掛けたり、行楽地に行ったりするらしい。授業参観は小綺麗な格好をして来るし、運動会は家族で弁当を食べるらしい。らしい、という曖昧な知識しか持たない。憧れは無かった。けれど、今の生活が幸福だとも思わなかった。
「紹廸はどれにする?」
「俺はカップのアイスが良い」
食べるの遅いから、と俺はアイスが並んだ冷凍コーナーの前を行ったり来たりして、ストロベリーのカップアイスに決めた。サクラはチョコミントのアイスをカゴに入れた。
「あと飲み物とおやつも買っておこうよ」
サクラはクッキーと棒付きキャンディーをカゴに入れた。俺は煎餅とスポーツドリンクを選んだ。俺たちは通学鞄に買ったものを詰め込んで、ペットボトルが入っていた段ボールを二枚貰った。
スーパーから川はすぐそこで、俺たちは堤防に自転車を止めた。芝生に座ってアイスのフタを開けた。川面を水鳥たちがのんびりと漂っている。
「家族って、そんなに良いものなのかな」
唐突にサクラが尋ねた。俺は、うーんと唸りながらアイスの表面を削った。イチゴの香りがした。
「良いものらしいんだが、どうにも現実味が無くて想像出来ない」
「だよねぇ」
チョコミントのアイスをひとくち食べたサクラは俺にカップを突き出した。
「交換して」
「冒険失敗か」
俺は自分のストロベリーとサクラのチョコミントを交換した。
「どこかで何かが変わっていたら、俺たちも今頃は家族と最後の時間を過ごしていたかもしれないな」
口の中がスースーとした。この清涼感は嫌いじゃなかった。
「あの意味分かんない宗教と、暴力さえ無ければ、母さんのこと少しは好きになれたかもしれないのに」
「自分のことを大事にしてくれない人のことを好きになんてならなくて良いよ」
「普通で良かったのになぁ」
アイスを食べ終わった後は、畳んだ段ボールの上に座って、河川敷の芝生を勢いよく滑り降りた。サクラは途中でバランスを崩して転がり落ちていった。大きな口を開けて笑っていた。
「想像していたより爽快だね」
芝生に寝転んだままサクラが言った。俺は吹き飛んでいったサクラの段ボールを回収して、サクラの隣に屈んだ。
「満足?」
「うん、満足」
俺はサクラを引っ張り起こした。シャツに引っ付いた葉っぱを払い落とす。
「こういうの、本来なら小さい頃に家族とするんだろうね」
「かもな。でも、居ないだろ、俺にもサクラにも、そんな普通の家族」
俺たちは河川敷を上って、また自転車に二人乗りした。
次に目指すのは、神社と霊園だ。ここからは少し距離がある。サクラは自転車の荷台に横乗りして、片腕を俺の腰に回していた。
「この乗り方、一度やってみたかったんだ。昔の映画みたいだよね。ノスタルジックでしょ」
「リストに入れていたか?」
「あとで書き足しておく」
二人乗りしていても、誰も何も言わなかった。みんな、自分のことで精一杯だ。空がどこまでも青かった。後ろでサクラはご機嫌に歌を口ずさんでいた。
「何だっけ、それ」
「恋はみずいろ」
どこか哀愁のあるメロディーをサクラの少し掠れた声が紡ぐ。曲調が一気に明るくなると朗らかな声に変わった。サクラの歌は風に流されていく。スズメの群れが俺たちの隣を飛んでいた。世界がもう少し続けば、今年も梅雨がやって来ただろう。けれど、この世界は雨の季節の前の、爽やかな季節のまま終わる。
夏服になってもサクラは長袖だった。袖の下には痣がある。同級生たちは知らないし、先生だって知らないだろう。サクラの傷を知っているのは俺だけだ。
やり返すという選択肢もある。殴られてばかりではなく、殴り返すことだって出来る。俺たちももう高校生だ。少し力を入れれば、反撃くらい容易いだろう。けれど、サクラはそれを選ばなかった。口を噤むことを選んだ。耐え忍んだ先に何があるのだろうか。もう終末だ、この先には何も待っていない。
「過去に戻れるなら、あの両親は選ばないなぁ。それぞれ別の人とくっつけば良いのに」
信号待ちでサクラがそう言った。
「でも、そしたらサクラは生まれないかもしれないぞ?」
「僕はね、それでも良いかもしれないって思うんだ」
腰に回されたサクラの指先は俺のシャツの端をしっかりと握っていた。
「特別なほど悲劇的な人生ではないし、たぶん、もっと苦しいことってこの先たくさん経験するだろうから、今が底辺じゃないって分かっている。でもさ、もし仮に今、選べるのなら僕は、この人生を選ばない」
そう思えるほどには苦しいのだ。さっきまで恋の歌を紡いでいた同じ口から、今は絶望が零れ落ちる。
「紹廸の兄弟になりたいな。両親が出て行っても、兄弟ふたりならきっと寂しくないでしょ」
「俺はこれが当然だったから別に寂しいと思ったことは無いけど」
信号が変わった。俺はペダルに体重を掛けた。
「でも、サクラが家族っていうのは、悪くないな」
「良いでしょ? 掃除と洗濯は僕がするから、ご飯は紹廸がよろしくね」
サクラはまた恋はみずいろのメロディーを口ずさんでいた。
神社に着く頃には、俺の首筋を汗が伝っていた。鳥居の手前の空いたスペースに自転車を置いて、石畳の参道を歩いた。手水舎で手だけ洗う。
「紹廸、小銭ある?」
サクラが財布を覗きながら尋ねた。
「百円玉がある。あ、六円も」
「ちょっと僕の分も出しておいて」
俺は賽銭箱に百円玉と五円玉と一円玉を一枚ずつ入れた。ひとりあたり五十三円の賽銭だ。これでどれくらいの願いが聞き届けられるのだろうか。二礼、二拍手、長い祈り、梢の揺れる音、一礼。
「世界が終わったら、神様たちはどうなるんだろうね」
「八百万の神々って言うくらいだから、世界の終わりを担当している神様も居るんじゃないのか」
「確かに、物事を始めた神様が居るのなら、終わらせる神様が居ても不思議じゃないね。でも、出番が遅いから神話には登場出来ないんだなぁ。出てきたら世界が終わっちゃうんだから」
社務所の前に置かれたおみくじを引いた。こっちはサクラが支払った。サクラは小吉で、俺は凶だった。
「凶のおみくじって初めて見た。見せて、見せて」
サクラは物珍しげに俺のおみくじを読んだ。
「過ちは何度も繰り返すって。謙虚な姿勢で臨むべし、だってさ。おみくじってだいたい謙虚とか慎みとか説いてくるよね。結ぶ?」
「いや、記念に持っておく」
俺はおみくじを財布の中に仕舞った。
神社の前の道をもうしばらく走ると霊園の入口に着く。昔は平地だけだったが、それでは足りなくなって、裏の山を削っていった。今では山の斜面も含めた広い敷地の霊園だ。階段状に整備された霊園は、街のほとんどの人が世話になるはずだっただろう。空っぽの駐車場の隅に自転車を止めて、俺たちは霊園を進んでいった。手入れが行き届いている敷地は、誰も居なくて寂しい感じはしても、怖いとは感じなかった。
「そういえば、神社で何をお願いしたの」
サクラが俺に聞いた。
「他人に話すと成就しないって言うだろ」
「今さら成就も何も無いでしょ、明日の朝に世界が終わるんだから」
「明日の朝まで世界は終わらないだろ」
そんなことを話しながら歩いていると、規則正しく並んだ墓石の間から猫が出てきた。一匹、二匹と次々猫が集まってくる。花壇の傍の葉桜の根元に猫用の器が用意されていたので、俺たちはその器に買ってきた鰹節を入れた。猫たちは我先にと鰹節に飛びついた。
石で出来たひんやりとしたベンチに座って水分補給をしながら、俺とサクラは猫を見ていた。
「もうすぐ昼だけど、どうする?」
俺はサクラに尋ねた。
「最後の晩餐は今夜の夕飯になるのかな」
「だなぁ」
「何でもリクエストして良いの?」
「外食なら何でも構わないけど、家で食べるなら一般的な家庭料理に限る」
サクラはしばらく考えていた。俺は膝に乗ってきた三毛猫を撫でた。温かかった。足下ではスニーカーの紐で白猫が遊んでいた。
「商店街のパンケーキ屋さん、まだやっているかな。一度で良いから五段くらいのパンケーキを食べてみたかったんだけど」
クラスの女子たちも話題にしていた、商店街にあるパンケーキ屋のことだろう。俺はスマートフォンで調べてみた。今日はもう営業していなかった。
「じゃ、家で焼くか、パンケーキ。材料を買って帰ろう」
サクラはノートを取り出して、おみくじと猫を消して、パンケーキのことを新しく書き加える。
「過去を変えられたとしても、生まれ変わったとしても、俺の兄弟には生まれてこないでくれよ」
俺の言葉にサクラはノートから顔を上げた。
「どうして?」
「俺のところに来るなら猫にしてくれ。猫なら鞄の中に入れてこっそり連れ出せる」
三毛猫はゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「わざわざ両親がクズの家に生まれてくる必要は無いよ。それに俺は、クズとクズのサラブレッドだから、ゆくゆくは俺だってクズになる」
「マイナスとマイナスの掛け算はプラスだよ」
「そうだと良いんだけどな。でも、マイナス要素は無いほうが良いだろ」
名残惜しいが猫たちに別れを告げて、俺たちは霊園を後にした。帰り道にスーパーでパンケーキの材料を買うことにした。スーパーも午後三時で閉店だという。売り場に並ぶ生鮮食品はまばらだった。
「あ、レイトショーも駄目だ。映画館も休業だって」
俺の後ろをついてくるサクラが俺のスマホを触りながら言った。サクラは父親と連絡を取っていたことがバレて母親に没収されてしまった。それ以降、スマホを持っていない。
「ボウリングは?」
「あー、ちょっと待って。うーん、予約がいっぱいだ」
「じゃあ家で映画を観るとするか。夕飯のリクエストは?」
「カツ丼」
サクラはすぐに答えた。卵をパックで買ってもパンケーキで使った残りを無駄にせずに済みそうだった。
家に着いて、さっそくパンケーキを焼いた。パンケーキなんて久しぶりだったが、我ながら上出来だった。サクラの希望通り、小さめのパンケーキを五段にした。たっぷりのバターとシロップとクリームを用意して、贅沢な仕上がりになった。サクラは喜んで食べた。
昼食の後は眠くなったので、俺たちは昼寝することにした。最初に立てた計画はずいぶんと変更になった。サクラはボウリングとレイトショーを消した。昼寝するという項目が書き込まれた。日の当たる和室で俺たちは横になった。しばらくは言葉を交わしていたけれど、やがて、俺もサクラも黙った。風にカーテンが揺れていた。いつもと何も変わらない昼下がりだった。すぐそこまで世界の終わりが来ているなんて信じられないような青空だった。
しばらくの間、まどろんでいた。心地の良い浮遊感があった。けれど、息苦しさに目を覚ました。
サクラの手が俺の口を塞いでいた。
「僕はね、紹廸。君と手を繋げるし、キスだって出来る。セックスが出来るかって聞かれたら、僕は紹廸を抱けるよ。でも、それじゃない」
サクラの手は冷たかった。早口の言葉は、静かに零れ落ちた。
「僕が欲しいのは、それじゃないんだ」
知っている、と思った。違う、とも思った。サクラのことは特別な存在だと思う。サクラが幸せならば、それが俺の傍でなくても、ましてや俺の腕の中で無くたって、どこだって構わなかった。サクラの幸せを祈る、そして、それが出来れば永遠と同じくらいずっと続くことを願っている。
サクラの求める愛情と、俺からサクラに渡せる愛情が、同じではないことくらい分かっている。でも、その違いは俺とサクラが離れる理由にはならなかった。けれど、ずっと一緒に居る理由にもならないだろうと思った。
どこかで依存している。足りないものを求め合っているのに、けれど、本当に必要なものは互いに持っていないから、永遠に満たされないままだ。寸分の狂いも無く、正しく合うパズルのピースを持たない。いつだって歯車は軋みながら回る。綺麗なままで壊れていく。俺はサクラの気休めにはなっても、本当の意味でサクラを救うことは出来なかった。
サクラの手は俺が反論することを許さなかった。同意も出来なかった。俺はただサクラの瞳をじっと見詰めて、サクラの言葉を聞いていた。それは懺悔と似ていて、まるで、告解を聞かされている気分だった。サクラは答えを求めていない、ましてや、俺の意見に耳を傾けるつもりもない。
その手がそのまま俺の首を絞めてくれても構わなかった。世界の終わりより先に俺の命を終わらせてくれたって良かった。だけど、サクラにはそれが出来ないことを俺は知っていた。俺たちはこのまま漫然と終末を迎えるのだろう。
スマホが鳴った。俺はサクラの手を払いのけて電話に出た。
「もしもし」
寝起きの声は乾いていた。
『紹廸』
名前を呼ぶ声に、それが父親だと分かった。歯切れの悪い感じに、何を言おうとしているのか察しが付いた。
「もし今、あんたが俺に謝ったり、一緒に終末を迎えようなんて言ったら、俺は絶対にあんたを赦さないからな」
ふと目を遣ると、サクラは畳の上で丸まっていた。打ちひしがれているようにも見えたが、丸い姿形は猫と似ていた。サクラが猫ならば、鞄に入れて、どこまでも行けるような気がした。どこまでも、どこまでも行けばそのうち、名残惜しくも無い程度には平凡な世界も、その世界に迫り来る終末からも、抜け出せるような気がした。でも、そんな翼を俺たちは持たない。
「こっちは最初からずっと期待なんてしていないんだ、期待させてもくれなかったんだから。あんたはそっちで勝手に絶望してくれ」
歩み寄るつもりなんてこれっぽっちも無かった。今さら遅い。俺はもう、親が居ない世界に慣れ過ぎていた。今になってどうにか出来ると思っているなら、なんて好都合な幻想に酔いしれているのだろう。
電話の向こうは沈黙していた。それが答えだった。俺は電話を切った。
「紹廸は」
丸まったままのサクラが俺に言う。
「ついに最後まで自分の望みを口にしなかったね」
サクラの言う通り、俺のバケットリストは空っぽのままだ。
「だけど本当に、何も思い付かないんだ」
「いつもと同じことが、紹廸にとっては一番なのかな。日常の延長線上に終末があるの」
「誰だってそうだろ、いつかは死ぬんだから、終わりなんてものは誰だって等しく持っている。今はただ偶然、終わりが明確に見えているだけだ」
「もし、終わらなかったらどうする? 僕たちが知らないだけで、実は終末が回避されていたら?」
「そしたらまた同じ日々がやって来るだけだろ」
「違うと思うよ、僕は。終末より前に戻ることなんて無い。そんな綺麗な話じゃないもの」
「サクラは……」
俺は口を開いて、そして何も言わずに閉じた。
「何、言ってよ、気になる」
「いや……」
「最後なんだから、心残りを置いていかないで」
サクラが身体を起こして俺と向き合った。俺は観念して言葉を続けた。
「お前は世界を愛したいんだろうなって、そう思っただけだ」
「僕が? まさか」
サクラは笑い飛ばしたけれど、その瞳はどこか憂いを含んでいたから、本心では無かったと思う。
「僕が世界を愛するとすればそれは、自分の手の届く、ほんの小さな世界だけだよ。その他大勢なんて気に掛けるほど暇じゃないし、すべてに優しくなれるほど諦めてもいない。僕は救世主とか勇者とか、そういう存在になれるような器じゃない。それくらいのことは自覚している」
外でサイレンが鳴り響いた。終末まであと十二時間。明日の朝焼けを待たずに世界は終わる。それでも風はいつも通りで、窓から落ちる光も、その光の中を漂う埃も、何もかもが日常と同じだった。揺れたレースのカーテンの隙間から注いだ光の眩しさに俺は目を細めてから言った。
「願いならある」
サクラが興味深そうな顔をして俺の言葉の続きを待っていた。
「明日世界が滅ぶとしても」
訪れるはずだった真夏のきらめきも、今は陽炎だ。明日の朝、まだ空の端が白み始めるより前に、この世界は終わる。どこかの誰かが破滅のボタンを押したせいで、全員の未来がぷっつりと途切れる。
悲しくはない、寂しくもない。喜ばしいことだとは思わなかったけれど、でも、本当に悲しくはなかった。ただ、恨めしかった。
俺がもう少し優しければ、正しい嘘もつけただろう。
俺がもっと強ければ、世界から破滅を遠ざけられただろう。
俺があと少し信じていれば、今度こそ君を救えたでしょう。
さりとて懐かしさを感じさせてくれるほど、この運命は甘くないのです。
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