第2話
アツシがトモヨに声をかけたのは現場の仕事が終わる午後五時になってからのことだった。あれだけの働きを見せたトモヨであったがさほど疲れている様子はなく、首から下げたタオルで顔をぐしぐしと拭きながらアツシと対面した。
アツシはニッカポッカに華奢な身体を包んだトモヨの美しさに息を呑んだ。遠目で見ても美しいと思ったがなぜこれほど美しい女がこんな現場仕事をしているのか改めて気になった。こんな美少女なのに不思議と周りに男は誰一人と寄り付いていない。
「なにかしら」とアツシに目を向けるトモヨの視線には多少の警戒の色があり、それも無理からぬことだとアツシは思った。むしろこのように初めに警戒をしてくる女のほうが取り組みやすいとアツシは経験上分かっていた。防御を固める相手の崩し方など百戦錬磨のアツシにすれば百の手ほど思い浮かぶ。
「僕はこの聖陵墓の設計をしましたシノザキ・アツシと申します。視察にきたところあなたのような美しい人がいることに驚きましてね、もしよろしかったら食事でもしながらお話をしませんか? このようなお仕事をされているのはなにかご事情がおありなんでしょう? 力になれるかもしれませんよ」と興奮のためにアツシは少し早口になりながらトモヨに言った。
「ふーん、力にね」とトモヨはアツシのつま先から頭のてっぺんまでをじっくりと眺め「おごりかしら? 」と笑いもせずに言った。
「もちろんですよ! 」と意気込んで答えるが、なるほどと思う。
なるほど現場監督の「話してみりゃ分かりますが」って言葉の意味がわかった。
確かにこの態度、この振る舞いは貴族の行儀作法を教育された人間のものではないとアツシは思った。あまりにも俗すぎる。
「じゃあ僕の行きつけの店にご案内しますよ。美味い魚を食わせてくれるところがあるんです」とアツシが誘うと「いえ」とトモヨは首を振り、「わたくし行きたいところがありますの。そこでもよろしくて?」とアツシの誘いをさらりと躱した。
警戒している相手のホームでは戦わない、当然のことだなとアツシは思った。しかしアツシにとっては場所など大した問題ではなかった。話ができればどこでも良いと了承する。
「少し、そこでお待ちになってて」
トモヨは現場監督の方に歩いていく。今日の分の給金を貰っているのだろう。現場監督は意味深な笑みをもってこちらを見ていた。その笑みは挑戦的なもので、まるでお前にできるかな? といった色がある。
トモヨが戻ってきて「おまたせしました。さぁ行きましょうか」と言われてアツシはギョッとする。てっきり一度解散して着替えてくるものだと思ったがトモヨはその薄汚れだ、いや濃く汚れたニッカポッカのまま食事に行くつもりのようだ。色気もへったくれもない。
多少辟易とする思いをアツシは抱いたがここでそんなに言うのならばやっぱなしと言われてるほうが怖いのでさも気にしてない風を装いトモヨと共に歩き始める。どこに連れて行かれるのか多少恐ろしくもあり、楽しみでもあった。
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やっぱりWにくにく牛丼特盛は最高ですわー! とトモヨは丼を持ち上げガツガツと胃袋の中に詰め込んでいく。辛めの味付けのにんにくの芽とフライドガーリックの二重奏の中で牛肉と白米が大胆にタップダンスを踊って舌を楽しませる。もっと! もっと! トモヨは箸を動かす。そこには淑女の嗜みも貴族のマナーもなかった。ただの労働後に飯をかきこむプロレタリアートの姿があった。
テーブル席に座った二人のテンションは天と地ほども違いがあった。一人はWにんにく牛丼特盛、豚汁サラダ付きを注文し一人は牛丼の並盛を注文した。
一人は誰かに取られまいと抱え込むようにして忙しくなく食事をして一人はそれを見ているだけでお腹いっぱいだと箸すらつけていなかった。
トモヨがアツシを連れて行ったのはスキ屋という全国的な牛丼チェーン店であった。そこに入ろうとするトモヨをアツシは慌てて止めて「ここに入るんですか! ? 本気ですか! ? 」と確認したものだ。許されるなら正気ですか! ? とも付け加えたかった。鋼の自制心でなんとか耐えた。
「えぇ」とだけ答えてさっさと中に消えていくトモヨの後に続いてテーブル席に座り、この有様ということだ。
アツシはこれだ思った。現場の男臭い労働者連中がトモヨにちっとも近付かなかったのは、もう既にこの洗礼を受けたのだ。なるほどこれなら確かに百年の恋も冷めるだろう。Wにんにく牛丼特盛をかきこむ女に愛の詩を囁く猛者は居ないだろう。
特にトモヨのその凄絶と言っていいほどの美しさがこの場合に完全に逆に作用した。上等なステーキの上に蜂蜜をぶっかけられたかのような生理的な嫌悪の念が湧いてくる。もうなにも見たくないとアツシは自分の眼鏡を粉々に砕きたいと思ったほどである。
もしこれを狙ってやってるのなら大したものだ。これ以上の男避けはないだろうとアツシは思うが……思うがどう見てもトモヨは心からこの食事を楽しんでいる。もはや食事マナーもへったくれもあったもんじゃない、口周りに米粒がつき、豚汁を音を立てて啜り、サラダはテーブルにこぼしていた。
「お話ってなんですの?」とサラダをつまみながらトモヨはアツシに問うが「いえ、よろしいのです。どうぞ食事を続けてください」とアツシは勧める。
もう自分がトモヨになんの話をしようと思っていたのかアツシは思い出せなかった。彼女に声をかけたのがはるか昔のことのように思えた。
「そう? 」と不思議そうな顔をして食事を続けるトモヨだが「それ」と箸でアツシの牛丼を指して「食べないんですの?」と聞いてくる。
その振る舞いにあまりに啞然としていると黙っているのが答えだと受け取ったのか「いただくわね」とアツシの牛丼を奪い取って食べ始める。
アツシはもう早く帰りたいと心から思った。徒労感に襲われながらスキ屋の会計を済ませて、「では」と手を上げてトモヨと別れようとした。
しかしあげた手をがしっと掴まれ「お腹いっぱいになりましたらわたくし、お酒が飲みたくなってきましたわ」とトモヨが言った。
はぁそうですか、と思ったアツシは「はぁそうですか」と心の中で思ったそのままの言葉を吐き出した。脳内税関をまったく通すことなく、心のまま思いのままの言葉であった。
「わたくし、お酒が飲みたいんですの」
トモヨは恥ずかしそうに顔を伏せ、髪を耳にかけそこから見える肌は羞恥によってかほのかにピンクに色づきそれは春の木漏れ日の中で恥ずかしげに花をつける桜のよう……ってもうそんなことよりどうでもいいくらいトモヨの口臭がめちゃくちゃにんにく臭かった。
「わたくし、お酒が飲みたいんですの」と壊れたロボットのように繰り返しどんどん近づいてくるトモヨ、近づいてくれば来るほどにんにくの刺激臭がアツシの鼻から脳にダイレクトに伝わり呼吸すら厭わしくなる。
「ぃぎっ! 」とアツシは声をあげた。掴まれた手が万力に締められたような痛みを感じたからだ。そこで気がついた。この女、脅してやがるのだ。
そして大石を軽々と持ち上げていた彼女の膂力を思い出しアツシの顔が真っ青に染まる。もし、トモヨがもう少し力を加えるとアツシの手首は圧を加えられた水風船のように破裂するだろう。
顔をあげたトモヨの顔は獲物を捕らえた肉食獣そのもののであった。不敵な笑みには絶対に人の金で酒を飲むという意志が伝わってきた。
「わ、分かりました。飲みに行きましょう! 」
「おごり? 」
「もちろんです!」
わぁい! と手を放し喜ぶトモヨ。逃げようなどとアツシは思わなかった。彼女の肉体強化の魔法の凄まじさは現場で見たとおりである。魔法にはさほど詳しくはないが肉体強化は膂力だけに作用するものではないはずだ。敏捷性も向上するに違いない。
つまりこの女、膂力が万人前に匹敵するとしたら下手したら人類で一番速い可能性すらあるんじゃないか? とアツシは背筋が寒くなる。
ここは大人しく酒をおごっておこう。早くも「ついて来てくださいまし」とずんずんと先に行くトモヨの後をまるで手下か子分のようにアツシはついていった。
トモヨをどうこうしようなどという心は彼岸の向こう側へと去っていった。今はただ己が無事に家に帰れることをアツシは神に祈った。
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