第3話
それから毎晩のようにダーデンはアンリの部屋を訪れ、本を読み勉強して深夜遅くに寝るという生活を送っていた。その幾日のなかダーデンは一度もアンリに触れようともしなかった。
そのことについてアンリは安堵する反面、女としての自尊心を傷つけられような気がしてなんだか腹が立つような情けないやら不思議な気持ちになりその感情を持て余していた。
しかし決してダーデンと会うのは嫌ではなく、むしろダーデンがやってくる時間近くになるとそわそわと部屋を歩き回り髪を撫でたり、鏡をチェックしたりと忙しくなくなる有様だ。
そんなアンリの気持ちなど知る由もないダーデンは今日もまたアンリの
ダーデンが黙って本を読むその横顔が日に日ににアンリは好きになっていった。開きっぱなしの口から涎を溢れようとするのをアンリはさっとハンカチで拭く。その仕事がアンリにはひどく価値のあるようなものに思え、このダーデンの口から溢れる涎を昼間は側付きのものが拭っていると知ってその者に軽い嫉妬までしたほどである。
「朕は……」と珍しくダーデンが口が開く。
ダーデンは毎日この部屋に来るくせにやってくれば本を読み、時間になれば寝て、朝にはさっさと部屋を出ていくといったふうに過ごしているのでアンリと話をするのは稀であった。
じっと涎に集中していたアンリがその声に我に返り「はい」とダーデンのどろんとした半開きの目を見る。
「朕は、魔法を使えぬ。いつも
ダーデンの唐突な感謝の言葉にアンリが呆然としている。この国において魔法を使えるというのはつまり走れるとか物が掴めるということと同義であり、魔法が使えない者は不具者とすら呼ばれひどい差別の対象となる。
アンリは思わずごくりと唾を飲み込む、この話は危険だと思った。この魔法国家とも呼んでいいエンリ王国の王が魔法を使えない。この重大な意味が分からないアンリではなかった。
「お戯れを……」と言うのが精一杯であった。
しかしそんな逃げをダーデンは許さなかった。
「いや、戯れではない
その三つの魔法は基本中の基本であり、才能があるものだと三歳児でも使える。
「ふっ……別に国家機密でも、知れば始末されるとかそのような類のことではないから安心するがいい」
顔色が真っ青になっているアンリを安心させるようにまたは自分を嘲笑うように唇を歪めた。
「今更、朕の悪評が一つ増えようが大したことはない。朕が魔法を使えないと知れても多くのものはなるほどあの王なら魔法が使えなくても不思議じゃない、と思うだけだ」
「そ、そのようなことは」とアンリが否定しようとするが「よい」とダーデンは言う。
「それで良いのだ。皆、朕を笑い、蔑ろにしていればいい。それで良いのだ」と自分に言い聞かせるように呟くとまた本に目を落とした。
───────────
また別の日、ダーデンはまた本を読みながらアンリに声をかけてきた。
「朕は、なにもしようとして来なかった。する必要がないと信じていた」
そうぽつりと話始めるダーデンの声にアンリは静かに耳を傾けた。
「朕の兄上はまさに神の加護を一身に受けたお方であった。文武に秀で、人格穏やかでありまさに万民に好かれていた」
「そのようにお聞きしております」
ダーデンはアンリの言葉を聞いているのかいないのか、本に書かれている文字を目で追いながら次に発する言葉を探しているようだ。
「朕の乳母殿は……そのような兄上を見て朕を賢く強く教育することをやめた。勘違いいたすでないぞ、なによりも朕のためを思い、そしてエンリのためを思ってそうしたのだ。朕には元より兄上と張り合うような才はなかっであろう。しかしもし朕が人並みの人物になれば必ず朕を持つ出す者があると乳母はそう考えた。兄上と争えば朕に勝ち目はない。愚かさこそ盾になると思ったのだろう」
ダーデンはまるで昔を思い出すかのように言葉を一つ一つ吐き出していく。
「しかしお兄様と陛下は仲睦まじかったとお聞きしましたが? 」
私がそう言うとそれこそ愉快そうにダーデンは笑った。
「そうだ。我らは仲が良かった。それこそ王侯貴族数居れど我らほど仲が良かった兄弟も居るまい。なぜだと思うか? 」
「ご気性がお合いになられたのではありませんか」とアンリが答えるとまたもやダーデンは声をあげて笑い、「違うな」と言った。
「答えは私が愚かな男であったからだ。どうやっても自分とは争うことのできない、誰一人王の座へと導くことのない男だとはっきり分かっていたから兄上は朕を愛した。人は牙のあるイノシシは飼わん、豚だけを飼うものだ。兄上にとって朕は無害な豚と等しい存在であった」
その言葉には深い悲しみがあった。しかしそれと同時にまた深い愛しさのようなものもあり、ダーデンが兄に向ける感情の複雑さを示しているようであった。
「そう思うとあの乳母殿の朕の教育方針というのはある一定のところまでは正しかった。まさか兄上が亡くなるというのはさすがに乳母殿も想定していなかっただろうからな」
「その、陛下の乳母様は今どちらにいらっしゃるのですか?」
アンリはこの方にはあまりにも味方が少ないと思った。どうにかこの方をお支えする人があればいいのにと思った。私ではダメだとアンリは思っている。なぜならアンリ自身、ダーデンの味方ではないのだ。いや、アンリの心理としてはいまやダーデンに深い愛情とも労りともつかない感情を抱いているがしかしアンリはある貴族の娘だとダーデンを欺きこの場に居るのだ。偽物の側室としてダーデンに侍り、それが知れればダーデンは怒るであろうとアンリは考えている。
そんなことを思案していると「乳母殿とそなたは会っているぞ」と思いがけないことをダーデンはアンリに告げた。「えっ」とアンリが首を捻っていると「乳母殿はそなたの身体検査をしたはずだが……」とダーデンはこともなげに言った。
あっ! あの意地悪な目つきをしていた老婆かと思い出すとまたムカムカと胸の奥が熱くなってくる。だけどもダーデンの乳母にしては年配すぎるとアンリが思うとダーデンもそれを察したのか「乳母殿も心労がたたってめっきり老け込んだのだ。気が付かなくても無理はない」と物憂げに言った。
あの老婆の意地悪な目つきや態度はたわけだの白痴だのノータリンだの言われるダーデンを守るためのものだったのだろうか。自分の乳を吸って大きくなった子が可愛くないはずもない、その子を必死に守るためにやってきたことが今その子の悪評となりみんなが我が子とも等しい存在を嘲笑う。それがどれほど辛いことだろう、どれほど悔しいことだろう、そしてどれほどダーデンに申し訳ないと思っていることだろうか。アンリはあの老婆へと向けていた怒りの炎の火力を少しばかり下げることにする。
見方を変えれば人間の姿かたちとはまったく別物に変わるものだなとアンリは思った。そしてアンリの中でもっとも姿を変えた人間は気が付くともうお話はお終いとばかりに本の世界へと戻っていっていた。
アンリはその好ましい横顔から溢れようとする涎を静かに拭いてあげました。
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