第2話
ついにその日はやってきた。あのたわけで白痴でノータリンと評判のダーデン陛下と床を共にする日である。アンリの心臓はかつてないほど鼓動を早め喉はカラカラに渇いている。庭師の父と共に居た頃では見ることもできない調度品に囲まれて、アンリ自身も自らの命よりずっと高価なのでは? と思われるようなドレスやアクセサリーを身に着けている。まったく身が落ち着かない、壊してしまったら破いてしまったらどうしようという思いばかりが募ってくる。
無論今夜がアンリにとって初夜である。なんとそれは宮中に上がる際に意地悪な目つきをした老婆にしっかりと確認された。あの恥ずかしさや情けなさ、そして怒りは単調な生活をしてきたアンリをはじめておそった激情であった。あの老婆許すまじ、なによりあの見下しきった目を思い出すだけで身を焦がすほどの怒りが巻き起こる。自らの体内にこれほどの炎が眠っていたのかとある意味新鮮な気持ちであった。
だからといってその老婆を蹴り上げるわけにもいかずじっとされるがまま検査が終わるのを待っていた。なにをそんなにそんなところを見ているのだろうと早く終われと念じていた。
「よろしいでしょう」
そんな傲慢な老婆の声がまだ耳の奥にへばりついて離れない。よろしいでしょう? よろしいでしょうってなにがそんなによろしかったのでしょうか? お気に召したようでとても安心致しました、とこれでわたくしのなにがそんなによろしいのか、わたくしにお教えくださるかしら? と無茶苦茶な言葉になってないような言葉が胸中に吹き出してくる。
あのとき言ってあげれば良かったとアンリはどんどん怒りのボルテージをあげていく。しかし、ふと目についた姿見に映る美しく着飾った自分の姿を見てため息をついた。さっきほどまでパンパンに膨らんだ風船のように張り詰めていた怒りが急にしゅんと萎んでどこへ飛んでいった。
はじめてはお花畑で白馬に乗った王子様と、そんな夢を見ていたわけではないが自分の意に沿わぬこんな形で自分の貞操が右から左へと流されていくように扱われるとはアンリは思ってもいかなった。
そりゃ貴族の娘さんやお姫なんかはそういう顔も見たこともない人といきなり連れ添うことになるということはあるでしょうけど私みたいな平凡な平民がこんなことになるなんてちょっと理不尽じゃないですか? アンリは天上に座する神に物申す。
そこでくすくすとアンリは一人で笑う。お花畑で白馬に乗った王子様ではないけど、宮殿で国王様とってある意味想像よりも立派じゃないかしら? そう考えるとどんどんおかしくなってきたようで体を折り曲げて大声で笑いだしてしまう衝動に耐える。
──────────
そこでなんの前触れもなくがちゃりとドアノブが回り一人の小太りの青年が入ってきた。ダーデンである。
アンリは慌てて立ち上がり挨拶をするがそれを無視して部屋中を歩き回り壁をペタペタ、テーブルの下をペタペタ触って「そうか」と一人呟く。
せっかく一ヶ月みっちり練習した挨拶を完全に無視された形のアンリはまた頭に血が登りかけていた。この一ヶ月ストレス塗れの生活を送っているアンリはずいぶんと怒りやすくなっているようであった。
「お前は
そう聞かれてこくりとアンリは頷いた。家庭教師がいれば大目玉間違い無しの返事の仕方だがダーデンは気にた様子はない。
ダーデンが服をもぞもぞと動かすのでアンリは脱ぐのかと思い自分もドレスを脱ごうとすると「脱がんでいい」ぴしゃりとダーデンに言われる。
羞恥と怒りで頭がおかしくなりそうになりながらもアンリはこのダーデンという男がずいぶん前評判と違うということに気がついた。
噂では獣並みの理性しかないという話だったのに部屋に入ってきてからの振る舞いはしゃんとしどろんと半眼になっている瞳にも知性の光が灯っていた。
もぞもぞと動かした服からダーデンは本を取り出し、「こっちへきてくれ」とアンリをベッドの方に招く。覚悟はしていたがベッドの方に行くのはなんだか抵抗感があったアンリだったがそう言われては仕方ない。たわけで白痴でノータリンと言われてもいてもこの人はこの国で一番偉い人なのだから。
アンリがベッドの近くまでくるとダーデンは燭台の灯りを消し、ベッドに潜り込む。体を固くしていたアンリだったがええいもうどうにでもなれとダーデンと同じようにベッドに潜り込んだ。
「
文字が読めないアンリにはなんの本かは分からなかったがそのずっしりとした分厚さと装丁の地味ながらも美しいことからずいぶん難しい本なのではなにかしらと思った。
アンリは「なにをされているんですの?」とダーデンに声をかけたが、その瞬間自分がひどく愚かな存在のように思えた。本を読んでいるに決まっているじゃないか。
「勉強してるんだ」
ダーデンは笑いもせずそう言うとじっと本を読み始め、アンリはそれからなにも言わずその横顔を眺め、垂れそうになる涎を拭いてあげた。
──────────
「寝る。
ダーデンが言うのでアンリは魔法を使うのをやめた。そして真っ暗になると無性にドキドキとしてきた本を読む横顔はとてもたわけで白痴でノータリンだとは思えなかった。この人にはきっとなにか事情があるのだわとアンリは思っていた……思っていたがそのようなことより今から自分がどうなるのかそちらの方がどうしたって心配で気がかりだった。とても痛いと聞くけど大丈夫かしら、と。
しかしいくら経ってもダーデンはなにもして来ず、それどころか身じろぎ一つしなかった。
アンリは「あの……」と思わず声をかける。ダーデンは答えない。闇に慣れた目で覗ってみるとどうやら瞼を閉じているようだ。本当に寝ているのかなと訝しがる。
さらにアンリが「あの……」と問いかけると仕方ないと言ったふうに「なんだ」とダーデンは口にする。
どうしようかとアンリはしばらくもじもじうじうじしていたが意を決して「あの、しないんですか?」と問いかけた。
その瞬間ぷっとダーデンは吹き出して、くくくと笑った。馬鹿にされた! そう瞬間的に察したアンリはついに爆発してダーデンの揺れる肩を思いっきり平手で叩いた。
しまった! やってしまった! と思いつつも乙女の一世一代の勇気の問いを馬鹿にされて笑われるなんてこと許せずはずもなかった。
「いや、許せ。馬鹿にして笑ったわけじゃない」と叩かれたことなどなにも気にしてないかのようにダーデンは言った。さらに続けて「可愛らしく感じてつい笑ってしまった。重ねて言うが馬鹿にしたわけじゃない。許せよ」
そこまで言われてはアンリとてなにも言えなくなる。ただ私は私の役目があるのだからそれを聞いておかないと、とも思った。
「叩いてしまい申し訳ありませんでした。ただよろしいのですか? 私はその……」
とアンリが言いかけたところで「よい」とダーデンは短く答える。
「まだ、よい。もう今夜は寝よう」
ダーデンは思いの外優しい口調でアンリに言うと今度こそしっかり目を閉じ、すぐに寝息が聞こえてきた。
こうしてたわけで白痴でノータリンと言われるダーテン・シュトラス・ウィンゲーツ・エンリと庭師の娘として生き、親に売られたアンリの初めて夜は終わった。
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