第5話 赤か白か
「んーやっぱコンティラ産の赤はいいねー、深みが違うよ」
クラウネス王は夕食を終え、食後のワインを楽しんでいた。夕食は軽めに取り、そのあとでフルーツとワインを楽しむのが日課だった。城の隣には国王の個人的なワイン蔵があり、常時ソムリエを待機させていた。そこは王妃や宰相や大臣でさえ勝手に立ち入ることが許されておらず、国王の私的な、絶対的な空間だった。
「明日は何飲もうかな? ねえ、何がいいと思う?」
グラスを回しながら、国王は夢を見るような視線でセルジュに問いかけた。
「は、昨日今日と赤ですので、明日は白がよろしいのでは?」
セルジュは宰相ではあったが、国王の秘書のような役割も果たしていた。早世した父の跡を継いで若くして宰相に任ぜられ周囲からの反発は大きかったが、国王からの寵愛とでもいうべき扱いに異を唱えられるものはいなかった。また優秀でもあり、弁論でセルジュを超えるものは、現大臣の中にはいないように思われた。
セルジュの仕事は王の暇つぶしの相手でもあった。本来であれば片づけねばならぬ仕事は山積しているが、可能な限り王の隣に立ち、微に入り細に入り、細かな些事にまで関わるのが仕事だった。
「白? んー、どうかな? そろそろさ、あれが出来るでしょ? ミンターのロゼ。あれがいいな!」
「はっ、確かに、明日からはミンターのロゼが解禁となります。失念しておりました」
「ははっ! セルジュでも忘れることがあるんだね! まーいいよ、よく冷やして用意しておいて!」
クラウネス国王は楽しそうにワインを飲み干した。
ミンターのロゼは既に用意してあった。また今の時期に出回り始めるほかのワインも手配済みであり、何を言われても対応できるようにしてあった。
あえて隙を作り、それを国王に言わせる。些細なことだが、この積み重ねが肝心だった。怒らせぬ程度に無知を装い、必要なことに関しては的確に助言をする。その呼吸は才覚であった。国王のそばに使えるという立場を守るために、セルジュは心を砕いていた。いざというときに、強権をふるえるように。
セルジュの野心は燃えていた。しかしその炎は黒く、闇の中では見えない。暗い心の内で誰にも知られず、セルジュは己の目的のために戦い続けていた。
伝令の兵が脇のドアからそっと入ってきた。セルジュは一瞥し、壁の方へ下がって伝令を聞く。その内容にセルジュは眉一つ動かさなかった。全ては想定の中であった。そろそろ伝令が来るであろうことも分かっていた。
伝令が恭しく頭を下げて部屋から出ていく。セルジュは足音を立てずに王の側に戻った。
「……何かあった?」
クラウネス国王は空になったワインを見つめていた。本来ならセルジュが注ぐ所であるが、セルジュは先に答えることにした。
「ゲノザウラーの件です。急ぎの知らせがありました」
「やめてよ、もー! せっかくいい気分で飲んでるのにさ、その名前を聞くだけでなんか嫌な臭いがしてくるんだよ! 台無しじゃん!」
クラウネスは机に拳を振り下ろした。グラスや皿が揺れ、音が部屋に響く。
「……で、何だって?」
「失敗です。一〇〇メートル引く計画でしたが三〇メートルで綱が切れました。腰から下は河原の中のままです。現在綱を修復して引き直す準備をしているようですが、まず無理でしょう。兵の体力も限界です」
クラウネスは何も答えず、まっすぐに虚空を見つめていた。呆けたかのような顔。それが鬼のような形相に変わり、目の前のグラスを手で払った。そしてテーブルのフルーツや皿をめちゃくちゃに投げる。
「何だよそれ! できるって言ったんだからやれよ! ふざけんな!」
テーブルに激しく拳を打ち付ける。何度も、何度も。やがて肩で息をしながら、乱れた前髪を手で直した。
「誰の責任?」
「は。総責任者は勇者であるソーディアンです。彼が一般人の参加者を募り、自らも参加しています。人数がもう少しい多ければ、また、ソーディアン自身の力がもっと強ければ、あるいは成功したかと」
「あっそ。じゃ責任取らせないと。無理でも何でもソーディアンにやらせろ!」
クラウネス王はワインボトルを持って席を立ち、自室へと歩いて行った。部屋には割れた皿やつぶれた果物が散乱し、甘い匂いを漂わせていた。お気に入りだったグラスも、無残にも砕けていた。
王が持って行ったワインボトルにはまだグラス一杯分が残っていた。グラスに注がなくて正解だった、と、セルジュは思った。
ソーディアンや兵士たちは綱を直し、夜通しゲノザウラーを引いていた。篝火が焚かれ、夜の闇に太鼓の音が響く。だが、誰もかれも疲れ果てていた。
午前二時になり、ゴウラ元帥は作戦の中止をソーディアンに提案した。実質的にはゴウラ元帥が仕切っていたが、あくまでもソーディアンが総指揮をとっているという建前だった。
「はい……中止しましょう。再度やるとしても、夜が明けてからですね……」
「ああ、そうなる。兵は限界だ。お前も……休むといい。国王から何を言われるかわからんが……ひとまず終わりだ。しかし、ひどい臭いだ」
ゴウラ元帥は顔をしかめた。ソーディアンはゲノザウラーの肛門から染み出てきた腐敗した体液を浴びてひどい有様だった。毒ではないので命には関わらないものだったが、常人ならとっくに気絶しているだろう。それほどのひどい臭いだった。
「災難だったな、まったく……」
「はい……」
悪臭から逃げるように、ゴウラ元帥は指揮所に戻っていった。
ソーディアン自身も限界だった。強化術も数時間で切れ、再度強化術をかけ直したが、本来の半分ほどの力だったろう。
切れた綱を何とか直し引き直したが、ゲノザウラーは僅かしか動かなかった。それでも、僅か数センチずつでも動いたので、兵士たちは力の限り引き続けた。ソーディアンも全力で押し続けた。だがこれ以上は限界だろう。
兵士も術師も限界だ。旗手や鼓手だって一日中続けて限界のはずだ。夜が明けてからやり直しても……無駄だろう。体力が回復していない。
綱も新しいものに替えないと十分には引けないだろうが、替えはない。漁具、作業用のロープ、農業用の縄やその他ありとあらゆる綱になりそうなものをかき集めた。もう一度同じことをやろうとしても、もう材料がない。
人も綱も限界だ。これ以上打てる手はなかった。ゲノザウラーの死体は、どうやっても川の外に運ぶことができない。
「ソーディアン……大丈夫……大丈夫じゃないわね?」
声に振り向くと、キュスラが来ていた。その後ろにはアテルもいる。だが二メートルほどの距離で、それ以上は近づいてこなかった。
「ごめんなさい……ちょっと、ひどいわね……」
キュスラが鼻声で言った。口で呼吸をしているようだった。
「湯を持ってきた……向こうで風呂も沸かしてくれているから……うぅ、駄目だ……」
アテルは湯桶を置いて走り去っていった。ヤーガジュ族は人間よりも五感が鋭敏だ。その優れた嗅覚では、この臭いもよけいひどい臭いに感じていることだろう。
「浄化の魔術だけでも使ってみるわ……効くかしら」
キュスラが杖をソーディアンに向ける。そして呪文を唱えると、青白い光がソーディアンを包んだ。
浄化の魔術とは不浄なもの、穢れを払う神聖魔法だ。通常はアンデッドや死霊を追い払ったり土地や武具の呪いを払う効果がある。付加効果として汚れや繊維の黄ばみなども取れることが知られており、推奨はされないが一種の洗濯としても役立つ。魔術の習得には時間を要し、使用に際しては相応の格を持つ装具が必要となるため、実際に洗濯として使うものはいない。
しかしソーディアンの様子があまりにもひどかったので、キュスラは浄化の魔法を使ったのだ。
ゲノザウラーの体液が白い光で焼き切られるように消えていく。服にしみこんだものや鎧にこびりついたものも消えていく。臭いはまだ残るが、見た目にはかなりきれいになっていた。
「すごい……こんなに綺麗に取れるなんて……良かった。少しはましね」
キュスラはまだ鼻声だった。
「ああ。もう鼻が馬鹿になってる……自分が臭いのかどうかも分からない」
ソーディアンは自分の腕の臭いを嗅いで首を傾げた。
「不死鳥が永久に灰のまま燻ってそうなくらい臭いわ。このお湯でざっと洗って、向こうでお風呂に入るといいわ。ゾンビよりひどい」
「そんなに? ゾンビ以下とは……なんかショックだ」
「でも……これからどうするの? 今のところ引っ張る作戦しかないんでしょ? まだ半分くらい川にはみ出してる。綱ももうボロボロだから、これ以上引けないんじゃ?」
「ああ。何か手を考えないと。さもないと俺は……」
ソーディアンはキュスラの目を見つめた。
「……でも、千年前もそうだったんだろ?」
「ええ……リゴア神殿の封印図書館にあったわ。ずっとこもって調べたおかげで、ようやく分かった。千年前の戦いで、どうやったのか」
「なら、それが最後の手段だ」
「……それは出来ないわ。あなたを……失いたくはない」
「俺にしかできないのなら、俺がやるよ。ずっとそうしてきた。最後もそう――」
「勝手なことを言わないで!」
闇の中にキュスラの声が響いた。しかし遠くの兵士たちの声や喧騒にまぎれて、それに気づくものはいなかった。
「あなた分かってるの? それがどういうことなのか!」
キュスラは肩を震わせながらソーディアンに近づく。
「分かっている。分かってるよ」
「何も分かっていない! 何で軽々しくそんなことを言うの! あなたは……私はあなたを失いたくないの! 分かるでしょ?! アテルだって……!」
キュスラの言葉に、ソーディアンは俯いた。そして、力のない声で言った。
「……俺は臆病なのかもしれないな。本当に向き合うべきことから逃げて、結局……」
「なら、何とか解決方法を考えて! 何よこんな龍の死体くらい! 勇者なんだから、何とかしてよ!」
「ああ。なんとかするさ、勇者だからな。俺だって、もう何も失いたくない」
キュスラは何かを言いかけたが、ソーディアンに背を向けて歩いて行った。後には湯桶だけが残された。
「俺だってこの世界にいたい。それは本当なんだ、キュスラ。でも……」
しゃがんで、ぬるくなり始めた湯に手を入れた。アテルの顔が思い浮かんだが、それを隠すように、一息に湯をかぶった。
ぬるい湯気が立ち昇る。水滴がソーディアンの顔を伝い、地面に落ちていく。
「どうすりゃいいんだ、こんなでかい死体……」
ソーディアンには何も思い浮かばなかった。
誰か思いついてくれないだろうか? それはこの作戦に関わる全員が、思っていることだった。
そんなソーディアンの様子を、アテルは離れた所から見ていた。人間なら聞こえない音も、ヤーガジュ族の耳には届く。キュスラとソーディアンが何を話していたのか理解はできなかったが、その声は聞こえていた。言い知れぬ不安がアテルの心に募っていった。
「ソーディアンを失う……一体何をする気なんだ?」
無茶をするのがソーディアンだった。そしてそれを窘めるのがキュスラだった。しかし、今回はそれとは少し違うようだ。何か取り返しのつかないことを、ソーディアンは考えている。ソーディアンのいない世界のことを考えて、アテルは胸が苦しくなった。ゲノザウラーの近くで佇んでいるソーディアンの姿を見る……しかし、本人に聞く勇気はなく、アテルは森の中に消えていった。
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