初めて君を名前で呼んだ。僕は頭が沸騰しそうだった
館西夕木
初めて君を名前で呼んだ。僕は頭が沸騰しそうだった
1
「戻りましたー」
自分のデスクに座り、どっと息を吐いた。今日も疲れた。腰が痛い。
僕――
今日も社用車で近隣の店舗へ一日中配達をこなしてきた。
休みは月に二回あるかないか、残業代も出ないし定期昇給も一切ない。有給なんて使おうものなら、上司から罵声が飛んでくるちょっとブラックな企業だ。
「お疲れ、北河くん」
「あっ、
彼女は隙田さん。
綺麗な黒のロングヘア、雪のように白い肌。大きなアーモンド形の目は見つめていると吸い込まれてしまいそうなほど美しい。
僕と同期入社した事務の女の子で、いつでも明るく元気な女性だ。人となりも柔らかく、誰とでも仲良くなれるまさに太陽のような存在。
こんなブラック企業で僕が働き続けていけるのも、彼女がいるからだ。
「今日も疲れたよ」
今日は同じ営業部の
「そうだ、北河くん、今日の飲み会も来る?」
「ああ、行く行く。引き渡しの当番の日だからちょっと遅れるけど」
本当は会社の飲み会など面倒だから参加したくないのだけれど、隙田さんが出るので僕も出るようにしている。
そう、僕は隙田さんのことが好きだ。
「おーい、隙田ちゃーん」
奥のデスクから課長の声が飛んできた。
「今行きまーす」
ぱたぱたと小走りで去っていく隙田さん。その後ろ姿を見ながら、僕はため息をついた。
2
「それじゃ、間違いなく受け取りましたんで」
「それじゃ、お願いしまーす。ご苦労様でーす」
運送トラックを見送り、僕は事務所に戻った。
県外など一部の店舗は配達するのに時間を要する店舗へ行く商品は一度大きな物流センターに集められ、そこから各店舗に輸送業者が納品するという形をとっている。
その物流センター行きの商品をトラックに引き渡すのは当番制で決められており、今日は僕の当番だった。
「さて、行くか」
戸締りをして事務所を出る。
工場もとっくに稼働停止しており、残っているのは僕だけだった。
「いいよなぁ、工場は定時上がりで」
工場の方は有休も普通に取れるし残業代もきっちり出るらしい。わりとホワイト、いや、営業がブラックすぎてそう見えるだけかもしれない。
飲み会会場の店に着くと、数人の同僚たちが出てきた。
今日の飲み会は六時半開始で今は七時過ぎ。
時間的にはまだ始まったばかりのはずだが?
その中に隙田さんの姿があったので、僕は声をかける。
「隙田さん、どうしたの?」
「あっ、北河くん」
「もう終わり?」
隙田さんは少し気まずそうな顔をして、
「
それで空気が悪くなり、抜けてきたという。
田野さんはベテランの事務員で事務所のお局的存在だ。たしかに田野さんは酒癖こそ悪いが、喧嘩になるほどしつこく絡むとは意外だ。
「それがね、ふざけてたらビールをこぼして、課長の服にかかっちゃったんだ」
「あー、なるほど」
店の中を覗くと、赤い顔をした課長と田野さんが仏頂面で呑んでいる。一応、喧嘩は収まったようだ。しかし、酒場なのにあの一席だけ空気は冷え冷えで、残ったメンバーも居たたまれなさそうに鍋をつついていた。
「なんか白けたし、うちらは帰るわ」
「あ、うん。お疲れ様」
同僚たちはこのまま帰るそうだ。
「北河くんも帰る?」
「え? 僕は……」
さすがにあの最悪な空気の中へ入っていく勇気はないし、そもそも隙田さんが飲み会から抜けるのなら僕が参加する目的はなくなる。
「そうだね、ちょっと入りづらいし、どこかで適当にご飯食べて帰ろうかな」
「あー、じゃあ、せっかくだから一緒に食べに行こうよ」
隙田さんの突然の提案に、僕は間抜けな声を漏らしてしまった。
「へ?」
「中途半端に飲んだせいか、お腹ペコペコなんだよね」
隙田さんはほんのり頬を赤く染め、お腹に手を当てた。
「いい?」
「いい、けど」
隙田さんと一緒にご飯?
それも二人っきり?
こういう飲みの場や会社の食堂で一緒に食事をすることはあっても、二人きりでの食事は今までしたことがなかった。
まだアルコールが入ってないのに、じんわり体が内側から熱くなり、手が汗で湿った。
「それじゃ、行こう」
「う、うん」
僕たちは連れ立って飲み屋街を歩く。
「……」
僕の隣を隙田さんが歩いている。
そのことを意識するだけで体が爆発しそうになる。
ほかの人からはもしかして恋人に観られてたりするのか?
「あっ、あそこのとんかつ美味しいんだよ」
隙田さんは定食屋を指さす。
「へ、へぇ」
隙田さん、ああいう店にも行くんだ。
知らなかった。
僕たちはいつもは会社でしか顔を合わせない。同期入社で付き合いそのものは長いし、仲もいいのだが、プライベートで会ったことは一度もなかった。
もしかしたら、これをきっかけに隙田さんと距離を縮めることができるかもしれない。
ナイスだ、田野さん。いつも書類の誤字が多いんだよババアとか思っててごめん!
そして僕たちはぶらぶらと歩き、大衆居酒屋に入った。
*
「じゃーねー」
ほろ酔いの隙田さんと店の前で別れる。
「うん、お疲れ様」
もう一軒行こう、と言い出せない時分に腹パンを食らわせたい気分だ。でも、ようやく隙田さんとプライベートで食事をすることができた。
それほど飲んでないはずなのに、ふわふわとした高揚感が僕を包んでいる。
二人の仲は、今日で確実に進展した。
3
数週間後のある朝、課長が朝礼の最後に改まって言った。
「えー、みんな、今日は大事なお知らせがあります」
場がざわつく。
なんだろうと思っていると、課長は咲仁と隙田さんを手招きする。呼ばれた二人は心なしか恥ずかしそうに前に出た。
なんだ、いったい――
「えー、この度、咲仁くんと隙田さんが結婚をすることになりました」
え?
「前から付き合っていたことを知ってる人も多いかと思いますが、先週の金曜日に、籍を入れたそうです。まあ、だからと言って隙田さんが退職したり、ということはないし、変わることも特には――」
全身から寒気がする。それなのに、頭の奥が熱く、今すぐにでも倒れてしまいそうな気分だ。
隙田さんが……結婚??
「――――」
課長が何かを言っているが、全く聞き取れない。
ひゅーひゅーと囃し立てるような口笛があちこちから聞こえ、それが僕の神経を逆なでする。
「――――」
視界が色を失い、モノクロになっていく。やがて目の前が真っ白になりかけたので、僕はトイレに走った。
*
数日後。
「あの、隙田さん、ここの納品書なんだけど」
「だめよー」
と田野さんが横から言った。
「え?」
「もう隙田さんじゃないでしょ」
「は?」
「えへへ、やだもう、田野さん」
隙田さんは口ではそう言いながらも、嬉しそうにはにかんだ。
「え、あっ……咲仁さん」
「え? なに?」
と今度は後ろを通りかかった咲仁が足を止める。
「あんたじゃないよ、さっさと配達いってきな」
「へーい」
「紛らわしいねぇ。ま、しょうがないか。同じ苗字になったんだし……ね」
「はい」と隙田――咲仁さんは笑顔で答える。
「面倒だから旦那の方は咲仁のままで、こっちは名前で呼べばいいじゃない」
田野さんは名案を思いついたとでも言うように手のひらを打った。
隙田さんを名前で……呼ぶ?
僕は納品書を握りしめながら、初めて感じるこの歪な感情に困惑していた。
胸にぽっかり空いた穴に、どろどろした熱いものが流れ込んでくるような感覚。
喪失感。
屈辱感。
悲しみ。
嫉妬。
怒り。
不快な感情に混じるこの気持ちはいったい……
「じゃあ、これ……お願い、さ、
初めて君を名前で呼んだ。僕は頭が沸騰しそうだった。
初めて君を名前で呼んだ。僕は頭が沸騰しそうだった 館西夕木 @yuki5140
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます