第25話 一点の黒雲

 こうして中洲の鬼は住む所を失い、今度はアオが祐之進の屋敷に居候の身となった。文吾が孫左衛門へと事の次第を注進したが、激怒するかと思われた孫左衛門は何故かすんなりとアオの居候を許した。一悶着を覚悟していた祐之進には良かった事とは言え拍子抜けも良い所だった。


 あれから村人達が押しかける事も無く、怖いくらいに平穏な毎日が続いていた。そして祐之進のあの口付けの事も村人の騒動でどこかに紛れてしまい、結局アオと祐之進の関係は何も変わらないまま日々は過ぎた。村里の青田はいつのまにか黄金色の穂先がこうべを垂れる季節へと移ろいでいた。



 パンパンと晴天に浜路が布団を叩く軽快な音が鳴り響いていた。


「アオ殿!そのお布団は若様のお部屋に広げておいてくださいましね」

「はい、浜路殿」


「アオ殿、それが終わったら薪割りをお願いします」

「分かりました文吾殿」



 傷が癒え始める頃になるとアオは一宿一飯の恩義を感じてか、屋敷の中のあれやこれやを自ら手伝うようになっていた。浜路もあれほどアオに怯えていたと言うのにげんきんなもので今ではアオを自分の手足のように使い、文吾は文吾で力仕事もなんでもこなすアオを重宝がった。

 だがアオはあの日から何かが抜け落ちたように纏っていたピリピリとした空気は和らぎ、頑なに見えたアオの中の何かが変わったように祐之進には思えた。仕事の合間に出された茶や菓子などを頬張る姿を見るにつけ、祐之進は安堵した気持ちと同時にあの口付けの事がどうしても頭から離れないでいた。


「アオ…其方は今何を考えているのだ」


 半裸の肌に汗を滲ませながら清々しい音を響かせて薪を割るアオの姿を、早くも疲れて斧を放り出した祐之進は縁側に腰を下ろしてぼんやりと眺めていた。ふと漏れた小さな呟きにアオが顔を上げた。


「何だ、何か言ったか祐之進」


 手拭いで首を拭きながらアオは祐之進を見た。祐之進の心臓が跳ね上がった。


「えっ?…あ、いや、何も……ええと、其方は良く疲れぬと思って」


 本当はそんな事が聞きたかったわけではない。口付けの事や自分の事をどう思っているのか、その事が聞きたかったのだ。だが鴇忠殿の事や母上殿の事が頭を過ぎるとどうしても祐之進はそんな浮ついた事を尋ねる事ができないでいた。


「お主、疲れるのが早いぞ。ちょっとこっちへ来い祐之進」

「え?なんなのだ?」

「良いからこっちへ来い」


 何だろうかと不思議に思いながらも縁側を降りた祐之進はアオの元へとやって来た。


「直ぐに疲れるのは構えが悪いからだ。斧を拾え」


 訳もわからず斧を拾うとアオは祐之進の背後に周り斧の柄を握り込んだ祐之進の手をアオの手が覆った。祐之進の心臓が再び跳ねた。背中にアオの温もりが触れ、耳にアオの吐息が降りかかる。


「足をもっと開いて腰を落とせ」


 そう言うとアオは祐之進の足の間に己の足を入れて外側へと軽く蹴った。


「そして出来るだけ高くに斧を振り上げて…惰性で振り下ろす!」


 アオの助けを借りて斧を振り下ろすとスコーンと今までに無く良い音を響かせて薪は真っ二つに割れて転がった。心地よかった。不思議な高揚感だった。薪が割れた事も背中にアオを感じた事も。

 

 このままでいい。答えなんて無くてもこのままこの山里でアオとずっと一緒にいたい。


 ここに来る時には早く帰りたくて堪らなかったのに、祐之進の心は今や真逆になっていた。


「はぁぁ〜…」

「ん?おいどうしたんだ祐之進!お主顔が赤いぞ…」


 アオの身体が離れると、祐之進はまるで風呂にのぼせたようになってヘナヘナと地面に崩れてしまった。



 アオが上手なのは薪割りだけでは無かった。時に仕掛け罠で兎を捕まえたりまた時にはキジなども獲って来た。祐之進はキジをこんなに間近で見たことかが無い。まじまじと見るキジは色彩豊かで縞模様の尾が細く長く伸びて美しく、思ったよりも大きかった。


「なあアオ、私にもこのキジ獲れるか?」


 興味津々にアオに尋ねてみると、勿論だと言ってアオは祐之進の為に藤蔓と竹で小さな弓を作ってくれた。


「大きい弓は邪魔になる。俺はこいつを使うんだ。構えは縦では無く横にする。飛び上がったキジではなく、俺は近距離から地面に這いつくばって飛び立つ寸前を狙う」


 そう言うとアオは祐之進に弓を構えて弾いてみせた。やってみろとアオが弓矢を差し出した。祐之進が手に取ってアオの真似をして弓を弾いてみると小ぶりの弓は力のない祐之進にも簡単に引けた。


「其方は狩りの道具も自前で作ってしまうのだな。器用なものだ。アオは何でも出来るのだな」


「…一人で生きる為にな」


 その言葉を祐之進は以前にもアオから聞いた事があった。何故そんなに一人で生きることにこだわるのかと、祐之進は不思議に思った。


 あくる日、朝から祐之進とアオはキジを捕まえに裏山へ入った。キジの来る場所をアオは良く知っているらしく餌を蒔いて藪の中に二人肩を並べるように身を潜めてキジを待った。何もしない時間が静かに流れていく。今聞こえているのは風が藪を揺らす音だけだ。今だと思った。今なら自分の事を、あの口付けの事をどう思っているのか聞ける気がした。


「アオ…あの、この前の…くち…」

「しっ、来た!」


 口付けは、と言おうとした時、運良くなのか運悪くなのか仕掛けた餌場にキジがやって来た。二人に緊張が走った。藪の隙間から矢をつがえて待っていた祐之進は息を殺して狙いを定めた。目の前をキジの縞模様の羽が右に左に蠢いている。アオの指先が祐之進の矢尻をほんの少し右へと修正し『行け』と無言で促すと祐之進は引き絞った弓矢を勢いよく放った。


「やったぞ!仕留めたぞ祐之進!」


 祐之進よりも先にアオが喜びの雄叫びを上げていた。


 祐之進は幸せだった。半ば諦めていたアオとのこんな日常が巡って来た事が。だが何かが違う。何かが引っかかる。漠然とした幸せが広がる空に動かぬ一点の黒雲がある。それが妙に祐之進を不安にさせた。














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