第48話 ノーヒットノーラン
響子のデッドボールでついにランナーが出たといっても、広幡のメンタルはブレない。
完全試合がノーヒットノーランに置き換わっただけだ。いずれにせよ大記録達成間近なのは変わりない。
だがそれでも今までとは大きな違いが生まれる。
この試合で初めて広幡はセットポジションで投げることになるのだ。
フォームやリズムが変わったり、ランナーをケアしたり――何かそこに突破口があるかもしれない。
僕から耳打ちで指示を受けた4番の葵は、少しびっくりした表情を見せたあと、何事もなかったかのように打席へ向かった。
「……ねえゆう子、ガル子にはどんな指示を?」
試合途中で華音に代わり5番に入っている爽がヘルメットを被りながら聞いてくる。
……どうでもいいけど葵のニックネームって『ガル子』なんだな。多分名付け親は
『見ていればわかるよ。これが上手くいったら爽のところには代打だ。――雅にそう言っておいてくれ』
「…………うん、わかった。」
少し長い間のあと、爽は素直に返事をした。
返事を躊躇ったのは、自分が打席に立ちたかったという悔しさではないだろう。爽はそういうことに執着する子ではない。
多分、今日の僕と雅の変な感じを彼女も感じ取っているのだ。爽は賢いから空気を読める。それ故に僕の不甲斐なさを彼女に押し付けてしまっているようで、なんとも歯がゆい。
「――プレイ!」
葵が右打席で構えると、広幡はまず一塁へ牽制する。
今の今までランナーが出ていなかったので、相当気になっている様子だ。
「……やっぱりランナーは嫌いだなあ。目障りだし、セットポジションで投げなきゃいけないのも鬱陶しい」
ぶつぶつと文句を言う広幡ではあるが、そこは一流の投手。セットポジションになったのにほとんど球威が落ちていないストレートを葵の外角低めへ投げ込んでくる。
「――ストライク!」
この場面で4番相手に警戒しなければならないのは長打だけだ。ノーヒットノーラン継続中とはいえ、日進女子の援護点は2点だけ。
一発が出れば試合は振り出しに戻ってしまう。
広幡としてはできるだけ遠目を攻めて痛打されないように投げるしかない。
「いいぞガル子!ボール見えてる見えてる!」
ベンチから翼が声を出す。
交代して下がったが彼女だが、試合を諦めることはしていない。味方を鼓舞するその姿は、本物のエース。
2球目、今度も外へスライダー。これはゾーンを外れてボールになる。カウントは1-1。
ここで僕は作戦決行のサインを出した。
広幡の傾向的に、平行カウントからはとにかくストライク先行にしてカウントを戻そうとする。仕掛けるならここだろう。
3球目、初球と似たようなところにストレートがやってきた。
葵は待ってましたと言わんばかりにバットを出す。
でもそれは彼女の代名詞であるコンパクトでスピード感のあるスイングではない。
さっき栞のときに試したのと同じ作戦――すなわちバント。
最終回2アウトの場面、しかも俊足の打者で一度失敗に終わっているバントをもう一度仕掛けたのだ。
完全に日進女子内野陣は意表を突かれた。
しかも雨が幸いし、お世辞にも上手とはいえない葵のバント打球はぬかるんだグラウンドによって絶妙に勢いを殺されている。
三塁手が捕って一塁へ投げるが、送球が逸れて葵はセーフ。
公式記録員がいないのでなんとも言えないが、明大寺先生ならばこのプレーにエラーの記録をつけるらしい。
「よっしゃあ!繋がった!」「ガル子バント上手いじゃん!」「まだまだ終わってないよ!」「いけるいける!」
ベンチは更にボルテージが上がっていく。
7回裏ツーアウト、完全試合目前からなんとかランナー1塁2塁までこぎつけた。
ここまでチャンスを作ったなら最後のカードを切る。
代打、藤川雅。ここで決められるのは彼女しかいない。
――でも、これでいいのだろうか?
いつもの雅ならばワクワクするような笑顔で打席に向かうが、今日は違う。
失礼な物言いかもしれないが、やっぱり雅の表情が真剣過ぎるのだ。
果たして集中しているのか、それとも何か思いつめているのか、それが僕には全くわからなかった。
たかだか練習試合。仮に雅が打てなくてもここで終わりというわけではない。
でも雅のその表情は、まるで生きるか死ぬかの大一番に出撃する前の戦士のようなものだった。
このまま打席に彼女を送ってもいいのだろうか……?
ふと、中学最後の試合で監督代行をしたときのことを思い出す。
今日と同じような場面があった。一打同点の場面、僕は代打の切り札を送った。
根拠のない自信があった。当然のように打ってくれると思って頼り切っていたのだ。
結果は凡退。そこで僕らの中学野球は終わった。
僕が一声かけていれば結末は変わっていたかと言われれば、なんとも言えない。
でも、明らかに僕はやるべき事を放棄してしまったのだ。その事が未だに僕の頭の名から離れない。
やっぱりタイムをかけて雅と話そう。
そう思って声を出そうとしたとき、隣に座る翼から叫び声が聞こえた。
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