あの青い空の下で、君は笑う

清見こうじ

第1話

 そびえたつビルのてっぺんに、狭い空がのぞく。


 整備された地下水路からは漏れたことがないので実際に見たことはないが、年寄りが言うには「排水溝の汚泥おでいを流したような」どんよりした灰色の空。


 この地に住まう人間は、もう何年も、何十年も、電子記憶媒体アーカイブでしか、抜けるような青空なんて見られない。


 よわい20そこそこのまだ若い青年もまた、そんな「きれいな空」の本物なんて、見たこともない。


 でも。


 都市ここを出たら、見られるかもしれない。


 吸い込まれるような青い空も、キラキラと星がさざめく夜空も。


 真っ白な雲も。


「……なのに、お前らは! せっかく準備してきたのに! 邪魔しやがって! 少しは社会と俺のために! 大人しくしてやがれ!」


 ザン!


 よく響くバリトンボイスの悪態あくたいと同時に、その高い背をすくめて青年の手刀しゅとうが空気を切り裂く。


 射程範囲内リーチから外れてる、と高をくくっていた筋肉質だが背の低い男は、突然目の前に現れた青年の手刀を直に腹部に打ち付けられた。こみ上げる胃液の不快感に気が付いた時には、すでに膝から崩れ落ちていた。


「ぐえっ……な、なんで……」

 青年が手刀をふるった瞬間には、およそ手先もかすめられないほど離れていたはず、なのに。


 男が消え入りそうな声で嘔吐えずきながら発した疑問を青年は無視して、すでに他の相手をターゲットに動き出していた。

 瞬間移動とは違う、けれどまるで空間を移動しているかのように見える、超高速移動。

 取り立てて特徴のない褐色かっしょくの短髪と薄い茶色の瞳の、どこにでもいるような青年。

 けれど、その動きは、常人じょうじん凌駕りょうがしていた。

 

(……まさか、能力者ナンバーズ?)


 自分の仲間たちとは明らかに違う速度で――いや、『速度』なんて言葉では表現が追いつかない動きで、次々と男たちを撃沈げきちんさせていく。それも一撃で。


 明らかな力量の違いに、男は『現実逃避』という欲求に従い、意識を手放した。





「ま、まて……こ、このアマがどうなってもいいのか?!」


 狭い路地ろじに、次々と倒れる仲間を目にして、少し離れた位置でくるぶしまであるフード付きのロングコートに身を包んだ女性を捉えていた男が、上ずった声で牽制けんせいする。

 地に伏せた男たちと比べても一際ひときわがっしりとした体躯たいく

 ノースリーブの革ジャンから隆々りゅうりゅうとした上腕筋じょうわんきんを見せびらかすように伸びた太い両腕で女性を羽交はがめにし、右手にはナイフを握っている。

 恐怖で声も出せないのか、けれど『女性』の表情はフードと、そこからのぞく黒髪に隠れて見えない。


「珍しいな、今時電気銃エレガンじゃなく、ナイフか」


 青年が、感心したように言う。


 強化プラスチック板プラバンと小学生レベルの発電キットがあれば簡単に作れる電気銃は、いきった不良チーマーの定番アイテムだ。

 射程距離しゃていきょりが短く殺傷能力さっしょうのりょくはないが、発電機をすれば銃型スタンガンテーザーガン並みのショックを与えられる。もちろん、そんな物騒ぶっそうなものの製作や所持、まして使用は都市行政法の罪状に該当する違法行為だ。


 それに比べると、原始的な金属のナイフは、流通も少なく、すでにレアアイテムになりつつある。ただし、殺傷能力は高い――ゆえに、無許可所持だけでも懲役ちょうえきレベルの大罪だ。


「やった! 大物ゲットじゃん?」

「は? なに言ってやがる?! それ以上近付いてみろ! この女のきれいな顔を、切り裂いて……おい!」


 男の牽制けんせいには耳も貸さず、青年は動き出す。今までとは違う、ゆったりとした動作で。


「お、おい!?」

 女性を傷つける、と脅しておきながら、男は戸惑いの声を上げる。


「あ、ごめん、近付いたらって聞こえたから。動いたら、だった?」

「い、いや……」


 思わず真面目に答えてしまい、男は一瞬ほうける。


 青年は、男の言う通り、近付くことなく、むしろ離れていった。


「お、おい……?」

「このくらい離れたらオーケー?」

「あ、ああ」


 戸惑いながらも、確かに男の要求には従っている青年に、男は安堵あんどを声にせる。


 仲間には申し訳ないが、この距離なら逃げきれる。おまけに、獲物は腕の中。


 やや大柄だが、艶やかな黒髪に、滑らかな白い肌、濃い睫毛まつげふちどられた黒曜石こくようせきのような瞳。

 近場で見る限り、高性能アンドロイドでも未だ表現できない、本物の人間の肉体だ。


 地下組織シンジケートに持ち込めば、それなりの金額で買い取ってもらえるだろう。


 そう算段して、男は目線だけで逃げ道を探す。なるべく人目につかず、ある程度広い道。右背後はいごのビルの谷間に見当をつけ、男はじりじりと動き出そうとする、が。


「……ちょっと、手抜きじゃない?」


 うっとりするような甘めのテノール……ただし、明らかな男声。

 その出所が自分の抱えた『女性』からだと気が付き、その顔に見入る、と。


 ふてくされた顔で『彼』は離れていった青年に視線を送っていた。


「お、おま! 男?」

 

 眉をひそめた不機嫌な顔も、それはそれで魅力的な、きれいな顔立ちは変わらず。

「まあ、いいか。男でも」


 取引が多いのは少年だが、成人に近い男でもこれだけの美形ならば、むしろ好事家こうずかには高値で売れる。

 都市外で狩られた獲物は足が付きにくいが、栄養状態を含め生活環境の違いもあり品質が落ちる。運搬費用も馬鹿にならない。

 リスクはあるが、都市で狩るほうが旨味は大きい。

 今回は特に上物だ。


 無事に逃げおおせれば得られるであろう利益に意識が飛び、男は腕の中の女性と見まごう美青年を、力強く抱きしめた。


「ああっ! もうヤダ!」


 金切声に近い叫びをあげ、腕の中の麗しい獲物が身をよじった。

 その声や仕草に、男は思わず欲情し、ますます力を入れてその身を引き寄せ。

 ほんの少しの嗜虐心しぎゃくしんと、脅しの意味も込めて、ナイフの刃を美青年の目の前にひらめかせた刹那せつな


「…………?!」


 声も出せず、男はよろめいた。その手からナイフが離れ、カツン、と小さく響いて、地面アスファルトの上を転がった。


 かろうじて立っていた男の顎に、美青年は、まるでバレエダンサーのように見事な曲線を描いて、爪先で蹴りこんだ。


「あぅ……」


 小さなうめきを上げて、ドスンと大きな音を立てて仰向あおむけに倒れた男には目もくれず、美青年はナイフを拾い上げる。


旧合衆国ステイツ製のミリタリーナイフか。レアものだけど、手入れが悪いな」


 10センチほどの刃渡りブレードは、よく見れば刃こぼれしていて、所々さびも浮いている。


炭素鋼たんそこうは錆びやすいからな」


 そう言って、いつの間にか隣に立ってひょいっと美青年の手からナイフを取り上げた青年を、美青年が軽くにらむ。


「イル……途中で手ぇ抜いたね?」

「手抜きじゃなくて、適材適所てきざいてきしょ。エレガンだと暴発するかもしれないけど、ナイフなら心配ないだろ? お前なら。うん、エリア、期待通りだよ」

「……まあ、このくらい、ね」


 青年――イルは、美青年の追及を軽くいなしておいて、最後の一言だけ、感心したようにゆっくりした口調で告げる。

 睨みつけていた美青年――エリアは、まんざらでもない顔で、得意そうに答え、フードをはずす。


 さらり、と肩より少し長めの癖のない髪が揺らめく。混血が進み、日系ブロックでも珍しくなった黒髪黒瞳の組み合わせ。

 もっとも最近は、金髪や茶髪を黒髪に染めることが流行はやっているのだが。

 けれど、エリアの髪は自然色だった。

 最新の染料とトリートメント剤を使えば、同じような艶は得られるのかもしれないが、人工的な染色とはどこか違う。

 光の角度によってはわずかに茶色くきらめく毛髪も混じり、画一的な人口染料では出すことが困難な複雑な色合い。

 

 さらさらと柔らかい髪のひと房に思わず手を伸ばし、イルは砂埃で汚れた自分の手に気付く。

 ひっこめた自分の手の持って行き所に悩み、埋め合わせのように自分の褐色の髪にうずめた。


「イル! そんな汚れたグローブで髪に触ったら汚れるだろ?」

「大丈夫だよ。どうせ、この後シャワー浴びるし」

「そんなこと言って、帰ったら先に『腹減った』って言うくせに!」

「だって、腹減るし。『能力スキル』使うと、激ヘリなんだよ」

「それは僕も一緒! 帰ったら必ずすぐシャワー浴びなよ!」


「……お楽しみのところ申し訳ないが、イチャつくのは帰宅後にしてくれないか?」


 気が付けば、数台のパトカーが集まり、降りてきた警察官たちが整然と地に伏した男たちを捕縛していた。

 イルやエリアの存在など見えていないかのようなお仕着せの一群から、ただひとり呆れたように声をかけてきた存在に、イルは振り返った。

 

「ヤキモチ妬くなよ。あんたがオッケーしてくれれば、今夜はそっちのベッドに行ってもいいんだけど? ねえさん」


 からかうように軽薄な誘い文句を口にするイルを無視して、『姐さん』と呼ばれた20代前半と思われる女性が、エリアを労わるように「ケガしなかったかい?」と尋ねた。


「別に。イルがいれば、危ないことないし」

「そうか。まあ、確かに、イルがエリアをケガさせるようなことはないと思うけどね。でも、こんな作戦、断ってもいいんだよ? 『ナンバーズ』とはいえ、エリアはまだ未成年みならいなんだから」


 鮮やかな赤髪をきっちり後ろで束ね襟首えりくびでシニヨンにまとめた女性は、苦笑気味にエリアを諭す。

「バカにしないでよ! 僕だってもうすぐ18歳だ! 正規メンバーになる! あとひと月だ! メイニーだって知ってるじゃないか!」


 メイニー、と呼ばれた女性は、「そうか、そうだったな」と破顔はがんして、イルに向き直った。

 とたん、その見事なプロポーションを包む警官制服にふさわしい、厳格げんかく面持おももちになり。


「イル――ラム=アイル特殊捜査官、本日の休暇は後日代休を付与する。週休日の明日明後日はゆっくり休みたまえ」

「後日って……しあさって、とか?」

「残念ながら、未定だ。いや、しあさってでないことは、確かだが、ね」


 その返答を予測していたイルだったが、当てつけのように大袈裟にため息をついて見せる。


「つまり、外出許可は」

「却下、だな。日帰り可能な目的地への変更なら受け付けるぞ」

「了解しましたよ。アドメイン・カイラ管理官殿」


 言葉だけはうやうやしく答え、イルは持っていたミリタリーナイフの柄を向けてメイニーに差し出す。

 

「イル、行こう」


 メイニーは手袋をした手でナイフを受け取ると、用は済んだとばかりに手の甲を上に向けて上下させ、それを見届けたエリアが、イルの返事を待たず歩きだす。

 その後を追ってメイニーに背を向けたイルが、思い出したかのように振り向いて投げキッスを寄こす。

 目に見えないキッスをはじき返すように手を大きく横殴りに振ると、大仰おおぎょうに肩をすくめて小走りにエリアを追うイル、それをメイニーは苦笑して見送る。


「あーあ、可愛いお姫様の機嫌を損ねっちゃたかね」


 子ども扱いされたことか、それとも……。


「でも、そうか、あとひと月か。あの子が、とうとう……」


 口の中で小さくつぶやいたメイニーは、再び表情を改め、警官たちに向き直った。


捕縛ほばく、および証拠品の押収おうしゅう、完了しました」

 リーダー格の警官の報告にメイニーはうなづいて、撤収てっしゅうを命じる。


 すでに鑑識かんしきスキャンも終え、乱闘騒ぎがあったとは思えない整然とした街並みには目もくれず、メイニーはパトカーに乗りこむ。


 悪党どもが排出した吐しゃ物や排泄物程度の汚物は自動補修の都市機能がきれいに片づけてくれたことは分かり切っている。

 


 極東きょくとう地区最大の都市コロニー『TOKIO』の平和を守る都市警察で最大の検挙けんきょ数を誇る、特殊捜査隊『ナンバーズ』の筆頭にして最年少の特殊捜査官、ラム=アイル――イル。


 不機嫌さを隠そうとしない弟分と違って、同僚の前では軽薄な態度と笑顔を崩さない直属の部下の外出願いを何度も却下してきた。そろそろ不満が爆発する頃だろう。


(エリアも成年を迎えることだし、なんとかなるか)


 ここ1カ月だけでも、休日返上で凶悪な人身売買組織の末端をいくつもつぶしてくれている。次の外出願いは、何とかやりくりして叶えてやろう。


 エリアが成年したあとなら、上層部の許可をもぎ取れる、多少の策を講じる必要はあるが。


 その手続きの煩雑はんざつさを想像して、メイニーは心の中で大きくため息をついた。

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