影虫のいるところ

Toa

本編

 そもそも、僕が悪いのだ。

 時刻は夜の八時を回っていて、リビングは静けさに包まれていた。淡々と流れるテレビ番組が、物悲しさを助長させる孤独な空間。僕はテレビを見ていたが、意識は上の空だった。兄弟はおらず、両親は遅くまで働いて養育費稼ぎ。ラップのかけられた夕食は、手つかずで冷えたまま。色味を帯びているはずの部屋が、鈍色に染められていた。悲愴的な空気だったが、独りには慣れていた。それが自己欺瞞か真実かに関わらず、僕にとっては日常的な時間、のはずだった。今日限り、この静寂は僕の敵になった。他ならぬ、僕自身が敵なのだから、当然の帰結だった。

 不意に、言い知れぬ感情が僕を立たせた。僕の中で、獣が暴れ回ったのだ。光を逃がさない黒い毛並みの獣が、傷の痛みに悶えていた。恐ろしく鋭い爪に、どんなに遠い足音も聞き取れるだろう大きな耳、捕まえやすそうな細長い尻尾。そんな獣に耐えかねて立ち上がった僕は、リビングから廊下へ繋がる扉へ歩み寄った。嘘だ、と思った。八月二十日。夏休みの終わりが近く、反して夏は最盛を迎えていた。言うなれば、この世の何処よりも巨大なサウナだ。リビングは、エアコンが風を吹き回しているお陰で難なく過ごせた。半袖にショートパンツで、だ。絶対、服に汗が滲んで、色が変わる。だが、僕はそれを鑑みずに廊下に出た。茹だるように暑く、湿度も高かった。夏は夜、と詠われていた大昔とは、状況が違う。背中を撫でる冷気が、とても気持ち良かった。それだけ、廊下の空気が熱を帯びているのだ。玄関の外は、廊下よりも暑い。二歩も下がれば暑さに困らされることがなくなる、部屋と部屋の間。普段ならリビングに戻るのだろうが、やはり僕は退路を断ち、サンダルに足を通した。逡巡もなく、外へ誘われていた。こうして、僕は夏の夜を歩き出したのだ。

 目的地は定めていない。手を引かれて歩いている、というよりも、背中を押されて歩かされていた。得体の知れない、嫌悪を促すものが迫っている。加えて、黒い獣も癇癪を止めない。体が火照っていき、脂汗が滲む。僕はもう、競歩でもしているような歩き方になった。やがて、早歩きは走りに差し替えられそうになるのだが、それはただの脳の意志の発信に留まる。実際に身体を動かそうとすると、そこには大きな壁があり、走ろうとする意志はみすみす消滅するので、結局、僕は歩いているのだ。虫の集る街灯を頼りに、見知らぬ夜道を進む。初めて来る場所。いつもは選ばない道幅の狭いところを、今日は進んで選択した。家に帰れなくなっても、迷子になってでも、逃げたいのだ。慣れ親しんだ道、信号、交差点では、捕まえられそうだった。馴染みのないここが、唯一の味方だ。辺りは住宅が立ち並んでいて、店やコンビニの一つもなく、静寂が煩い。誰にも伝えずに、行く宛もなく、無気力に駆り立てられる様は、さながら家出だ。それもそのはず、もし追いかけるものから身を隠せる、オアシスのような公園や広場があれば、迷わず寝泊まりする。宵闇が晴れれば、家にも帰れるだろう。

 ふと、コンクリートが明るくなった。LEDの電灯より暖かみのある、電球色に照らされている。前に影はない。なんだか大勢、話し声もする。陽気な音楽だって流れている。僕は辟易するばかりで、初めは顔を上げようともしなかった。夜なのに、大人も子供も混ざって大人数で騒いでいるのが不快だからだ。そういえば、住宅街はやけに暗い。足元を照らすのは街灯だけで、家の窓は真っ黒だ。僕は観念して、重力に逆らって顔を上げた。沢山の人混みが、右へ左へと流れていく。まるで、水彩絵の具を垂らした濁流のようだ。普段なら人の目を集めるであろう、ピンクや水色の華々しい浴衣が溢れかえっている。足音も、カラン、カラン、と軽く乾いた音色が重なっていた。わざとらしい赤色の提灯が紐に連なって、人々を明るく照らす。しかし、真に彼らを照らしているのは、夏祭りという特有の和気藹々とした雰囲気だ。各々の家の照明が集まって、ここを一番光らせている。地域では有名で、半世紀以上も続く長い歴史のある催しだ。最も、本来の神仏的な目的は忘れ去られている。両親の時代はまだ神社で開催していたそうだが、僕が生まれる少し前に繁華街へと移った。僕は家から抜け出して、街の方向に進んでいたらしい。家から街までは遠くないし、帰路は頭に入っている。図らずも、僕は迷子ではなくなった。それにしても、夏祭り、今日だったのか。

 隙間のない人混みに体を押し込むのは度胸が必要だったが、僕は構うことなく飛び込んだ。人の水流にされるがまま、勝手に進んでいく。いつもは三車線の道路なのに、とても狭い。たまに目に入る側道は、嘘みたいに暗く、人気がなかった。道を一つでも外れただけで、太陽と月くらい雰囲気が変わる。僕も祭りに当てられて、自分が逃げてきたことを忘れ心を弾ませた。


「かき氷一つ、レモンで」


「あいよ、二〇〇円ね」


 すぐ横で、少年が満足そうにかき氷を受け取った。上から黄色いシロップがかけられた氷山を、ストローのスプーンですくい取って、後先考えずに頬張る。少年は目を閉じて、口の中の甘味と冷気を吟味した後、苦悶に顔を歪めた。子供の頃、誰しもが経験するあの痛み。飴には鞭がつきものだ、と身をもって体験する。僕がかき氷を食べない理由の一つだ。砂糖水で着色された細かい氷にお小遣いを叩いたあの少年は、幸福ではなかった。彼がどんなに笑顔でいても。

 流れに沿って進んでいくと、次第に耳が使い物にならなくなった。焼きそばが焼かれる音に、鉄板とヘラが擦れる金属音、綿飴を作る機械の稼働音、それらをかき消す人の声が、割れるように響き渡っている。夜の帳をものともせず、むしろ突き破るように。おかしなことに、僕は寂れた住宅街より、この人混みの方が独りだった。祭りの客と歩幅を合わせていても、僕だけ置いてけぼりにされた。僕は祭りに疎まれている。周りは前や横を向き、祭りを楽しんでいるのに、僕は俯いてばかりだ。この瞬間を分かち合う相手だっていない。それもそのはず、彼らは祭りに来たのであり、僕は招かれざる客。楽しむ資格などないし、楽しもうという心意気も生まれない。ただ無気力に、無為に、無作為に、僕はこの道を歩いている。たまたま、周辺がお祭り騒ぎなだけだ。誰にも見られず、僕は眉間に皺を寄せていた。

 地面は一〇〇センチ上の笑顔に反して、薄汚れていた。人がいるということは、その分ゴミも出る。木の串だったり、紙コップ、かき氷のストロースプーン、果てには煙草の吸殻まで、所々に、しかし確実に、多く落ちていた。皆、人目につかない地面のことなんて足蹴にするのだ。自分らの下にゴミだらけの地面があることから、目を背けているのだ。だが、捨てられたゴミは現実に存在する。祭りの翌日は、町内会が清掃をするのが定番だ。桜の樹の下には死体が埋まっている。僕には悪事を責めるような正義の心はなかったが、不思議とその醜さに安堵していた。

 と、ゴミとは違う、四角い物が目に入った。薄いピンクと白を基調とした、女物の財布だ。誰かの鞄か、手から落ちたのだろう。距離にして二、三歩、僕より前に寝そべっている。今から膝を曲げて腰を下ろしていけば、後ろから押されずに拾えるはず。人数の多い中、声を上げて持ち主を探すのは非現実的だから、本部に持っていくべきだ。拾い方と、対処法。どちらも綿密に計画して、動きをシミュレートしてから、僕は財布の上を跨いだ。

 別に、恨みがあったから財布を見捨てたのではない。拾って届ける、という親切を行動に移す勇気が足りなかった訳でもない。ただ、夏祭りに訪れて、捜索も困難であろう道の真ん中に財布を落とした人がいることに、一瞬でも、一寸でも心が浮き立った。顔も名前も知らない誰かの不幸を目の当たりにして、僕は喜んだ。一人として手を差し伸べず、足に踏まれ、蹴られ、砂に汚れ変わり果てた姿を脳裏に浮かべ、小気味良ささえ感じた。その感情に、自分自身が最も驚いた。僕は他人の不幸を幸福に感じる程、薄情で、協調性がなかっただろうか。記憶の限り、僕は優しいとは胸を張って言えずとも、下を見て嘲るような人間に成り下がってはいない。でも、今、真実として、僕は心を踊らせたのだ。自覚して、手も足も凍りついた。腰を下げようとしても、止まろうとしても、鎖で束縛されたように動かなかった。僕の体は、僕自身に操られる傀儡と化していた。財布に足裏を向けた瞬間、えも言われぬ痛快な刺激に打たれた。小学生の頃、障害物競争でハードルを超えた時と同じだ。僕の口は、恐ろしい三日月に歪んでいた。

 すぐさま、恥じらいが僕を覆った。助けられたはずの人を助けず、戻っても間に合うのに戻らず、平然と足を進める。家族が、友人が、世間が、何より過去の自分が、後ろ指を差してきた。否応なく、背筋が重圧に耐えきれず曲がっていく。喜びは、自己叱責に上塗りされて隠された。僕はまだ落とし物の財布を愚弄していて、それを誰にも悟られない為に罪を抱えたのかもしれない。確かめる方法はなかったが、それでも良心の呵責に苛まれるのは止められなかった。何と都合の良いことだろうか。僕はこれ以上考えたくなくなり、地面と睨めっこしていた顔を上げた。ちょうど、周りの彼らが見ている景色が広がっていた。

 目線を揃えると、賑やかさが押し寄せてくる。この位置が、この高さが、随一の「夏祭り」なのだ。破顔一笑した老若男女が、思い思いに過ごしている。客の割合同年代である中学生、高校生が大半だ。着物を着ているのも、中高生ばかりだった。

 人の流れが止まった。辺りはより活気づいたが、先程よりも空間に余裕ができている。街の中央に位置する、広いスクランブル式の交差点だ。僕からも、黒と白のボーダーが対岸へと延びている。今夜に限っては、信号は青以外の色を示さない。例え赤くなっても、誰も止まりはしないだろう。変わらぬ祭りの中、立ち止まって一息ついた僕はぐるりと一瞥した。本当に、軽い好奇心で、何気なく気になっただけだ。

 同い年くらいの集団の、一人と目が合った。厳密には、僕の前や後ろを見ていて、僕が過敏に反応したのかもしれない。とにかく、僕はその人と目を合わせたように感覚した。その視線に、心を貫かれる。相手は僕のことを気にも留めず、一緒に巡っているであろう人達に声をかけられ、その場を去っていく。知らない人と目を合わせる、というのは気まずく、いたたまれないもので、だから、鼓動が高鳴ったり、呼吸が乱れるのは当然だ。何でもない、普通のことだ。そう言い聞かせたが、僕は解ってしまった。彼らの後ろ姿に眼球がくっついて、離れない。世界が自分からどんどん距離をとっているようで、空間が滲み、近くが遠くなった。耳は誰かに塞がれたらしく、ホワイトノイズだけが聴こえる。さっきまでに入っていた音は、耳に蓋をされて、頭蓋骨で反響を続けていた。呼吸も、そのやり方も忘れる。詰まった息が唸り声として吐き出され、肺から空気がなくなるまで続いた。穴の空いた心には凪が吹きつけ、身動きが取れない。口から漏れていたのは、肺からの空気よりも、心の余裕だ。この刹那の時を、僕は何秒も、何分も、何時間も、微動だにできず過ごした。それは、どれほど苦しい白昼夢だろうか。ようやく、誰かの肩がぶつかって、僕は夏祭りに戻った。大切なものを、忘れたまま。

 僕は、屋台に噛みつく人の蛇の、尻尾の先っぽになった。お腹が減っていないのも、無一文であるのも、関係ない。ただ僕は、この列を進めばいいのだ。

 僕は、蛇腹になっていた。蛇になった時のことを思い出す。もしかすると、あれの獲物は屋台ではなく、僕だったのかもしれない。屋台という蛇が、僕を丸呑みにしたのだ。僕は蛇の腹の中で、胃酸に溶かされていた。

 僕の目の前に、屋台があった。蛇の、縦に細長い目が僕を睨む。客寄せの為か、プラスチックに詰め込まれた焼きそばが、割り箸と一緒に輪ゴムでまとめられ、何列も並んでいた。簡易キッチンの鉄板の上では、次の焼きそばを準備している。ソースの焦げる匂いが、僕の鼻をつついた。


「兄ちゃん、注文は?」


 何を、しているんだ、僕は。

 ついさっきの記憶がおぼつかない。後ろには長蛇の列が続いていて、僕はその先頭にいた。屋台のおじさんは、焼きそばを作りながら注文を伺う。紛れもなく、僕の番だ。どうして、お金がないのに並んだのか。確か、交差点まで来て、それで——。

 僕はおもむろにテーブルに羅列された焼きそばを手に取り、全速力で駆け出した。競なんかより数段疾く、足が回転していく。アスファルトを踏みつける乾いた音が響いて、その度加速した。筋肉が感じたことのない負荷に驚いて悲鳴を上げるが、お構いなしだ。不慣れなサンダルで足がもつれても、速さは変わらない。僕は人の海を割り、現れた道を駆けていく。止まらない足は、交差点から離れてもまだ僕を真っ直ぐ前進させた。もっと遠くに、もっと向こうへ。祭りを離れ、街を離れ、現世からも離れようとして、遂に僕の足は止まった。壊れる程鼓動する心を抑える為に、膝に手をついて肩を震わせる。手には依然、がっちりと焼きそばが握られていた。

 なんで万引きなんかした。するつもりなんて、なかった。ただ、気づいたら長い列の先頭にいて、店の人に注文を聞かれたから、お金のない僕は仕方なく……。いや、それは言い訳だ。あの瞬間、正直にお金がないことを申し出て、列を抜ければよかった。それか、財布をなくしたふりでもすれば、買わずに済んだ。そのどちらもを選択せず奪い去るなんて、考えられない愚行だ。でも、やむを得なかった。僕はあの——と目を合わせてから心がどうにかして、僕の知らない内に、列に並んだ。茫然自失、なんて四字熟語では言い表せない。自分が彼岸と此岸に引き裂かれて、勝手に動かされていた。列に並んでいる間、僕の心音は聴こえなかっただろう。亡霊に体を乗っ取られていたのだから、その亡霊が悪事をしても、僕にはどうすることもできない。

 鮮明に覚えている。初めてプラスチックに触れた時の手触り。滑らかで、手を下に入れて持ち上げるのにはもってこいだった。焼きそばの重み。今でも、僕の心を押し潰さんとしている。取り上げた途端に、表情を大きく変えた店主。一瞬しか見えなかった驚愕と憤怒の混じった瞳に、未だ怯えている。列を抜け出した一歩目。周囲は状況を飲み込めずに呆然としていて、滑稽だった。走っていく僕を導くように形を変える人々。大衆の溜まり場を駆け抜けていくのは爽快でもあり、心憂くもあった。スローモーションで追体験していると、自ずと涙が湧き出てくる。背筋を撫でる恐怖に、僕はえずいた。たまらず、近くにあった簡易的な石のベンチに腰掛ける。

 夏祭りから逃げ出して相当経ったのか、視界が暗がりに慣れてクリアになってきた。ここは、どこだろう。夏らしく深緑に生い茂った森の中で、ここだけが開けていた。不思議なことに、この一箇所、直径一〇メートルだけが草原であり、他は木漏れ日も差さないだろう自然が広がっている。ここは祭りの騒がしさだけでなく、街中の人工的で機械的な雰囲気とも一線を画していて、戦慄さえ感じさせるのだ。街からはそう遠い場所ではないはずなのだが、僕の知る街には森なんてない。たった数分での風景の落差と、不安定で陰鬱な感情で、異世界に迷い込んだかのように錯覚した。危うくそんな馬鹿げた説を信じる程に、眼前は古代を思わせる手付かずの木々や草花に満たされている。肺を広げると、いつもより清澄で濃度の高い酸素が入ってきた。それはもう、純粋で濃密な、どこも汚染されていない酸素で、むせ返るくらい重苦しい。そんな荘厳な大自然にぽつりと存在する石のベンチは、中々に不釣り合いなものだった。

 僕は焼きそばに目を落とす。さっき、僕が悪い手段で盗った、穢れた商品だ。落とさないよう必死に握りしめていた為、プラスチックの容器はぐちゃぐちゃだが、食材に手をつけてはいない。まだほんのり温かいし、これを持って急いで戻れば、謝るだけで許されるだろうか。返せば問題ない、なんて酷い考え方だ。でも、ちゃんと自首して誠心誠意謝れば、大目に見てくれるかもしれない。反省しない、知らんぷりよりは、相手に嫌な思いをさせずに済むのだ。もう手遅れだとは分かっていても、捕まるのなら最後に懺悔をしたい。懺悔をしなければ、きっと曇ったままだから。しかし、焼きそばをまじまじと見つめていると、返そうなどという気分にはなれなくなった。どうしても、僕にはその焼きそばが、美味しそうだったからだ。

 焼き色のついた中細麺に絡み合う濃いめのソースと、彩りのキャベツや人参。豚肉は惜しみなく入っていて、食べ応えも抜群だろう。ふりかけられた青のりは、いかにもな焼きそばらしさを引き出している。紅生姜も添えられているので、途中で濃い味付けに飽きても、さっぱりとした味に変えられるだろう。焼きそばは容器で密閉されていたが、僕は立ち上る湯気を見たし、鉄板で焦げたソースの香りを嗅いだ。開けるくらいなら大丈夫だろう、と僕は輪ゴムを取る。たちまち蓋が勢いよく開いて、自分を食べるよう、僕にそそのかしてきた。手から、ほんのり温かい熱が伝わってくる。屋台の、濃厚なソースの香ばしさが一気に解放された。運悪く、向かい風が吹き抜ける。もう、止めることは叶わない。

 僕は麺を箸で掴んで、口に含んだ。長い麺を最後まで軽やかにすすって、咀嚼していく。鼻を突き抜ける青のりの風味がアクセントになりつつも、ソースの味は邪魔しておらず、逆に塩気を引き立てていた。柔らかい麺と、シャキシャキと音を立てるキャベツや人参に、噛みごたえのある豚肉の四重奏が、これでもかと聴覚を刺激するのだ。これまで食べてきたどの焼きそばよりも美味だった。喉を超えると、多幸感が溢れてくる。口の中を空にした僕は、留まることなく二口目をすすった。何故、こんなにも美味しいのだろう。僕にはこの焼きそばを食べる資格なんてない。なのに、平然とそれを食らい、幸せに包まれている。背徳の味が癖になりそうで、そんな道徳心の欠けた僕自身に対して、怒りに打ち震えた。目の前に僕がいるのなら、その焼きそばを含んだ頬を殴りつけてやりたい。しかし屈辱的なことに、僕は安全な目の後ろにいるのだった。もう一口食べると、今度は涙がこぼれる。一時の気の迷いで家を出て、混乱したまま窃盗して、挙句の果てにそれを食していることが、悲しくて仕方ない。たった一夜で、人はこんなに落ちぶれるのだ。明日の朝日は眩しくて、きっと拝めない。ソースの味に、ほんの少しばかり、塩味が加わった。しかし、また一口食べると、やはりその絶品さに舌鼓を打つのだ。僕は我武者羅に平らげず、一口一口を、一噛み一噛みを、赤子をいたわる母親の如く優しく、丁寧に、大切に堪能した。噛む度に歓喜や幸福、悲哀に憂鬱、憤慨に至るまで、多種多様な感情が姿を現す。それらは、焼きそばの味を彩った。

 食べ終わると、空っぽになったプラスチックの容器と同じように、虚無が残った。脱力と言い換えても差し支えはない。全ては終わったことだ。このもぬけの殻を返しても、元通りにはいかない。中に焼きそばがあって、容器も新品そのままだったとしても、元通りにはならなかっただろう。許される、だなんて、僕の勝手で都合のいい妄想でしかなかった。僕は過ちに目を背けず食べ尽くすことで、罪を被る覚悟を示そうとしたのだ。逃れられない事実に向き合うという、決意の表れだった。そんな、大層な行動に昇華させなければ、ただ利己的にお腹がすいて食べた人になるのだ。ああ、つまりこれも、言い訳なのだ。僕が何を思っていても、世間からは本能に逆らえず無銭飲食をした人に見られる。発言よりも印象を優先するのは、仲間外れを排除するのに適した、世の中の掟だ。空を仰ぐと、星々が広がっていた。このままベンチに座って餓死を待ち、明日の新聞の一面を飾るのも一興だ。諦めきった僕は、溜息を吐いた。

 視界の端っこに、蠢くものがあることに気づく。僕の髪の毛よりも短く、小さい存在だ。そのすばしっこさから察するに、アリの一種だろうか。僕にはそれが、アリの形をした闇に見える。そんなはずはない、と顔を近づけると、勘違いではなかった。そのアリには、確固とした形がなかった。言い表すのは難しいが、とにかく普通のアリとは違って、いや、普通の生物とは違って、具象ではないのだ。真っ暗な影が、アリを模して挙動している。アリが見えるのではなく、見えない空間の形状がアリに酷似している。実際、そのアリは身体と身体以外との境目がぼやけていて、はっきりとしたアリではない。瞠目しながら、恐る恐る触ってみると、僕の指はアリを通り抜けた。アリは僕に触られたことに気づいていないのか、驚いたり、逃げたりはしない。やはり、これは影なのだ。光に照らされることで現れ、僕にぴったりついてくる僕の影には接触できない。この影のアリも、干渉のできない立体的な影なのだ。影のアリは、あたかも本物のアリとして生きているかのように振る舞う。触角をぴくりと震わせ、六本の足をすばしっこく動かす。ただアリとして動いていることがこんなに恐ろしいとは、思いもしなかった。現実的ではない。このアリの話を誰にしても、鼻で笑われるだろう。せめて自分の目に焼き付けようと、アリの生物じみた動きを凝視する。突然、何かが僕とアリの間を通り抜けた。反射的に、通過したモノに目移りする。それは、二つの羽を懸命に動かし、宙に浮く可愛らしい蝶だった。一つ、他の蝶と決定的に違うのは、身体が影でできていることだ。蝶が飛んでいった先には、音を立てずに蝉が佇む。地面ではバッタが跳ね、ムカデやダンゴムシが地を這っていた。自分のことで視野が狭くなっていたが、大自然に囲まれたこの広場に、何十匹もの虫が生息している。その虫達には、一匹として実体を持つ虫はいなかった。種族の違う虫の群れが、影という一貫性で群れをなしているのだ。僕の視界に、虫食いされたような黒い点が幾つも現れた。


「影虫、って言うの」


 後ろから声をかけられても、最早驚きはしなかった。男らしくも女らしくも聞こえる抑揚のない声で、性別は分からない。直感で、この人はどこか僕に似ている、という漠然とした親近感を覚えた。僕はその人を座らせてあげようと、中央から左へと詰めて座る。その人はベンチを跨いでから、僕の右隣に座った。二人が座ってもベンチは広く、僕とその人には他人という距離感に見合った間がある。僕達は、二人で広場に巣食う幻想的でおぞましい虫——影虫を眺めた。

 その人には、顔がなかった。それに、手や足もない。言ってしまえば、僕にはその人が影虫と同類の影に見えた。影が人型を象り、僕に喋りかけたのだ。境界線はぼやけていて空間に溶け込んでいるし、人間の大きさにまでなると体躯の正確な形も掴めない。どこもかしこも、身体の隅々に至るまで、黒いベールに包まれている。性別や年齢も、そもそも決まっていないのだ。なぜなら、それは人の影だから。話をすることも、走ることも、勉強も仕事もできるだろうけど、身体に触ることはできない。影虫、と言うにしても虫ではないその人を、僕は心の中で影人と呼ぶことにした。


「何、悩んでるの?」


 影人が、前を向いたまま僕に問いかける。言葉には確信があって、図星を突かれた僕の体は硬直した。顔に出したつもりはないのに、影人はいとも容易く僕の状況を見抜いたのだ。困惑よりも、諦念の方が勝った。どうして僕が悩んでいると思ったのか尋ねようとすると、影人がその曖昧な指先で僕の右肩を指す。影人の指の先では、ムカデの影虫が元気そうに身体をうねらせていた。僕はそれを取っ払う気力もなく、ただ眺める。


「こどく、だね」


 影人がそんなことを呟いたので、僕は自分を貶めるように呟き返した。


「これで、いいんですよ」


 我ながら、とても毒づいた嫌味たらしいトーンだった。それでいて、しっくりくる言葉だ。影人の言ったように、僕は独りぼっちなのだ。悪いとも、脱却したいとも思わない。僕は走ることに疲れたから、立ち止まることにした。きっと闇弱だとなじられるのだろうが、それで構わない。人間として、間違った行いだとしても、それが僕の生き様だ。


「そう、それでいい。君は、何も考えずに、ぼうっとしていればいい」


 影人の台詞は、明らかに甘言だった。ぼうっとしていればいいなんて、聞いたことがない。人間は失敗しても、立ち上がるべく歩みを止めてはならないのだ。それがこの世の絶対の理であり、それを怠れば責め立てられる。止まることなんて、言語道断だ。なのに、影人は正反対の言葉を僕にかけた。もっと叱って、励まして、この石のベンチから僕を離れさせるべきなのに、影人は逆に座ることを勧めた。影人の存在よりも、僕はそのことに納得がいかない。だが、影人の言ったことに、激しく同調する僕がいた。影人の台詞が頭の中で何度も繰り返し響き渡り、脳に浸透していく。僕にとっては、アインシュタインやソクラテスの遺した言葉よりも、よっぽど名言だった。偉人のような堅さもない、暖かな声音だ。生まれて初めて、誰かに琴線を触れられた。

 僕は影人に従って、何をする訳でもなく、鬱蒼とした森林と、夜なのに活発に動き回る影虫を眺めた。その間、僕は影人と一言も言葉を交わさず、思慮に耽けることもせず、頭を空っぽにした。そうしていると、僕がこの森の一部になっていくような感覚に襲われた。自分が空気と一体化して、体が溶け出していき、自分と森との明確な区別がつけられなくなる。ちょうど、影虫や影人みたいに。僕は過去のしがらみからも、未来の運命からも解き放たれ、僕であることをやめてぼうっとし続けた。僕に与えられた、安息の一時だった。


「ありがとうございます」


 ぼうっとするのに満足すると、僕の口から感謝が漏れた。意識して言ったのではないが、僕の本心だ。あいにく、これ以上に気持ちのこもった言葉が出てこなかったが、影人はそんな僕の気持ちまで汲み取ってくれた。


「いいの。これもまつりだから」


 相変わらず影のままで見えないが、僕は影人が笑いかけてくれているような気がした。応えるように、笑顔が顔に浮かんでくる。影虫のことも、影人のことも、いつか忘れるかもしれない。明日には、夢だと思い込んでいる可能性だってある。でも、影虫や影人と出会い、過ごしたという事実は、もう変えようにも変えられない。肩に張りついていたムカデは、森を眺めている内にどこかへ行った。心残りは、何もない。


「そっちから来た。西南の方」


 僕は迷うことも、惜しむこともなく、影人の示した方へと歩いた。最後にもう一度、ありがとう、と言い残して。

 影人が教えてくれた方向は正しかったらしく、僕は夏祭りの駐輪場へと舞い戻っていた。森からここまでは想定していたよりも近く、家からも離れていない。今の時間は分からないが、一〇時までには帰れそうだ。駐輪場にはまだ多くの自転車がある。その中の一つが、強風に煽られたのか、ぶつけられたのか、倒されていた。僕はその誰かの自転車を持ち上げて立て直す。その一台だけが倒れていたので、景観的に納得がいかなかった。一台だけ倒されるなんて、不幸な人がいるものだ。

 雲から出てきた月光が、僕に影を落としていた。

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影虫のいるところ Toa @oAkaki

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