12月はペリメニで晩餐
神山雪
前編
三つ年下のリンクメイトのアーサー・コランスキーには一つの悪癖がある。
彼と俺は、練習拠点を日本からカナダに移した時からの付き合いで、友人と言っても差し支えのない存在だ。トロントにきて一年目は本当に世話になったし、俺がソチ五輪で金メダルを獲った時は手放しで祝福してくれた。明朗で友人関係も広い。
そんな彼の悪癖は、女癖が悪く、すぐに付き合っては別れるのを繰り返すことだ。
*
借りているアパートから、徒歩で十分。LINEに連絡が入り、向かったのは、リンクメイトのアーサー・コランスキーがトロントで一人で住んでいるアパートだった。
彼の実家は同じトロントである。わざわざ一人暮らしをする理由があるのだろうか。聞いてみたら、「家でもリンクでも親と一緒なのは息が詰まる」らしい。彼の指導者は父親である。ソ連から活躍したペア選手のウラジーミル・コランスキー。95年の世界選手権王者。……想像したら、確かに息が詰まるかもしれない。
もっとも彼にとっては、それだけが理由ではないだろう。
2016年12月。一週間後に迫る全日本選手権の前。
夕方になるとぐっと気温が低くなる。体感して、マイナス10℃だろうか。雪に足を取られないように歩き、アパートの2階を目指す。マスクももちろん忘れない。寒い空気は肺の毒だ。
アーサーの部屋の前で、トントンとノックする。
彼はすぐに顔を出した。
同性の俺からみても、アーサーはギリシャ彫刻のように整った美青年である。この顔で微笑まれれば、なるほど惚れない女性は少数かもしれない。
今は手に包丁を持っているという、イレギュラーな状態であるが。
「やあ、よく来たね出雲。早速中に入って手伝ってくれ」
「何を言っているんだ。ファイナル連覇の記念にご馳走してくれるんだろう?」
それはついでだよと言いながら、アーサーは、俺こと神原出雲を招き入れた。
室内暖房は完備されているから、薄手のシャツでも暖かい。アーサーはシンプルなグレーの長袖シャツに、黒のエプロン姿で鍋に向かっている。ガスではなくIHだ。1DKで、寝室と居間の仕切りが開いている。それなりに広いベッドが丸見えになっていた。
俺は彼に支給されたネコ柄のエプロンをつけて、アーサーの作業を手伝っていた。このネコ柄のエプロンも、前の前の彼女の置き土産らしい。そんなものを残しておくなと言いたい。
「アーサー。女性に振られるたびに、やけ食いで俺を呼ぶのは何でなんだ」
「やけ食いじゃないよ。やけ料理。前にも言ったけど、食材が余っちゃってるんだよ。せっかくレイチェルと一緒に食べて、その後いい時間を過ごしたかったのに振られちゃったからさー。『あんたの顔は金輪際見たくない!』って言われちゃったよ」
いい食材だって集めたのにとぶつぶつ言いながら、アーサーは鍋をかき回す。俺は茹で上がったビーツの皮を剥く。メニューはウハーという白身魚のスープのようだ。それからビーツのサラダに、ペリメニ。一人暮らしをする理由はこれだ。要するに「彼女と思う存分いちゃつきたい」。
「ビーツのサラダ、これでいいの?」
「うん。ついでににんじんも千切りにして、その後ビネガーを振っといてね」
「わかった。他は?」
「ないよ。……それにしても、世界の神原出雲に料理を手伝わせるなんて俺ぐらいじゃない?」
「世界の神原出雲だって、友人と一緒に料理ぐらいするってことさ」
アーサーは、育ちはカナダのトロントで国籍もカナダであるが、両親がロシア人の生粋のロシア人だ。ボルシチやらペリメニやらの料理に囲まれて育ったのだろう。
彼の趣味は料理だ。「女性を口説くのに最適」という理由で始めたらしいが、玄人はだしなほど味がいい。それに食材の様子を見ると、アスリートらしく体に気を遣っているのがわかる。ペリメニの皮は極力薄く作り、不必要な炭水化物を抜くようにしている。ペリメニの肉餡も余計な油を取らないように牛もも肉で、玉ねぎと半々の量に調整していた。
俺と彼の体は真逆だ。「肉を食べて筋肉をつけろ」と言われるのが俺で、「肉を摂りすぎるな。筋肉太りする」と言われるのがアーサーだ。筋肉がつきすぎると、ジャンプやスケーティングが硬くなる。料理は、彼なりの努力の証だ。
俺のサラダが完成し、アーサーの作るウハーが黄金色になったところで、玄関のドアがたたかれる音がした。
「出雲、出て。どーせステイシーだから」
玄関を開けると、アーサーが言った通りの人間が、ハーフボトルのワインを持っていた。小柄だが骨がしっかりしている体。エメラルドグリーンの瞳とミルクティーのボブカットがトレードマークの、強気な笑顔が魅力的な女性。
「あーら出雲、来ていたのね。この間も言ったけど、改めてグランプリファイナルの四連覇おめでとう!」
「ありがとう。改まって言われると、余計嬉しいよ」
ステイシーは、俺と同じダニー・リーに師事をしている姉弟子で、俺にとっても姉のような存在である。
「ステイシー、よく来てくれたね!」
「アーサー。あんたの傷心食事会はついで。出雲のためよ。ファイナルで四連覇なんて今までなかったことよ? そのための美味しいワインなんだから!」
ステイシーが持ってきたのは、ハーフボトルだがそれなりに高級な銘柄だ。ハーフなのは、俺がそんなに酒が飲めないからだ。酒は喘息に良くはない。薄手のシャンパングラスに入れたものを少しだけ味わえれば十分だ。
「そうだ、ステイシー。実はプレゼントがあるんだけど。6回目ぐらいのグランプリファイナルに出場したお祝いに」
「……なんか言い方に含みがあるけど。いいわ。受け取ってあげる」
アーサーが用意したのは丁寧にラッピングされたプレゼントボックスである。訝しみながらリボンを解き、包装を解き、箱を開ける。ボックスから現れた『プレゼント』の正体がわかったところで、ステイシーの顔が険しくなった。
「アーサー。……あんた、なんなのよこれ!」
「これ? この間のグランプリシリーズで、フランス大会に一緒に出たでしょ? その時に、レイチェルのためにお土産で買った下着。別れちゃったけど勿体無いから、ステイシーにあげる。どうせならそれ付けて試合に出ない?」
「いらないわよ!」
ステイシーは手に持った薄手の下着を、力ずくで引き裂いた。レースの生地が宙に舞い、ひらひらと俺の頭に降りかかった。
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