第6話 死神の存在
あれから彼女は俺の前に姿を現さなかった。
「名前はない」
死神に名前はないのか。そうだよな。でも、なぜだろう。彼女の言葉にはいつも重みを感じる。何気ない一言、表情には深い意味が込められていて。ここから入ってくるなと言わんばかりに、壁を作る。
勤務をしていても、ソアと一緒にいても、頭の片隅に彼女の存在が離れなかった。名前のない彼女の存在が。
「誰か、救急車を!!」
買い出しの帰り道、交通量の多い道路で、人だかりが出来ていた。
行かないと。自分の仕事柄、きっと何か手伝えるだろうし。俺はとっさに人混みをかき分けて、中心部へ向かった。
交通事故だ、そこには高校生の男女が。女子高生は倒れ込み、目を閉じて動かなかった。そんな彼女を助けるべく、男子高校生は彼女に心臓マッサージをしていた。
彼の額からは赤い血が垂れ、制服は事故の衝撃でぼろぼろ、ズボンの膝のところには大きな穴が開いていた。
「誰か、助けてください!!」
現場を見るに、歩いていた高校生男女の元に、車が突っ込んできた様子。彼は必死に周りに助けを求めた。しかし、誰からも返事はなく、彼らを救うため、動こうとした大人はいなかった。
名前のない彼女。心臓マッサージを涙ながら一生懸命に行う高校生の隣にゆっくりと現れたのは、『死を導く者』だった。彼女は何も言わず、ただ高校生を見ていた。
この状況、俺と彼女が初めて会った日と同じだ。周りの音が遠ざかり、まるで彼女と自分だけの世界。今だってそう。高校生と彼女以外、周りの大人は時が止まっているかのように、誰一人と動かなかった。横断歩道を渡っている親子も動きを止め、車道の車も動かない。本当に時が止まっていた。
彼女は男子高校生に言った。
「その子、生きてるよ」
心臓マッサージを受けていた彼女を指さした。
「え?」
状況が理解できない彼は、いつの間にか現れた死神の存在に驚いていた。
「聞こえる、彼女の息をする音が」
しゃがみ込んだ死神は、高校生の顔をのぞき込んだ。
「でも、病院に行かなきゃ。救急車を呼ばないと!」
顔が涙でぐちゃぐちゃになった彼は、死神に問いかけた。
「どうしてみんな動かなくなったの?」
彼女を助けるのに必死だったのか、彼は時が止まっていることに気づいていなかったようだ。
「私は、あなたを迎えに来た、彼女じゃなくて。だからその子助かるよ」
いつもの冷たい彼女ではなかった。口調は柔らかく、同情の目で彼を見た。
「あなたは誰?」
「死を導く者。あなたを導くためにここにいる」
「俺、死んだの?」
彼の質問に対して、彼女は目線で答えた。目線の先には、もう一つ、人だかりができていた。その中心には、男子高校生が横たわっていた。そう、彼だ。
「あれは俺?」
「そう」
いつものように淡々と答える。
「じゃあ、彼女は助かるんですね」
「そう」
「良かった」
表情が一変し、彼は死神に笑顔を見せた。
「あなた、歳は?」
「16です」
「自分が死んだことに驚かないの?」
「彼女が無事なら…」
「…時間よ、手を握って」
死神は、彼に手を差し伸べる。
「握ったら、もう彼女には会えない?」
「本当の愛ならば、巡り巡ってまた会える」
「そっか」
横たわる彼女を愛おしそうに見つめた彼は、一言
「愛してる」
そして、死神の手を握った。
「痛みは私がもらっていくわ」
手が触れると、その高校生は光となって消えていった。
彼が消えると、握られた手を物思いに眺めた彼女は、また悲しい顔をした。そして、彼女が指を鳴らすと、今まで止まっていた世界が、動き始めた。
「救急車呼んで」
時が動き始めた瞬間、周りの大人は慌ただしく動き始めた。俺は、人と人の合間を通り抜けて、現場から離れていく彼女を追いかけた。一生懸命に彼女を追いかけても、人が邪魔をして追いつけない。
曲がり角を曲がったところで、彼女は魔法の様にいなくなっていた。
『死神』
この存在は、悪なのか。俺は分からなくなった。今日の彼女は、死神とは遠い存在だった。優しかった。ほんの少しだけ、人間味を感じた。
その数日後、もう一度彼女を見かけた。
それはある日の勤務中のことだった。平和なこの街で、銀行強盗が起きた。現場には警察が駆けつけていたが、犯人は凶器を所持し、人質を取っていた。いつもなら俺たち軍人の出る幕ではなかったけれど、応援として急遽駆けつけた。
警察の隙をみて、銀行から逃げ出した犯人を、俺たちで探すことになった。どことなく歩き方や挙動が怪しい男に目を付けた。逃げられないように跡を追っていたその姿は、まるで探偵だったろう。
人気の少ない、商店街の路地裏に入った男。その先は確か、行き止まりのはず。一旦、近くの仲間に連絡をし、男の様子をうかがおうと、路地裏に顔を覗かせる。
俺は目を疑った。
犯人らしき男は、誰かに首を絞められ、壁に押さえつけられていた。男は顔を真っ赤にし、目は悪魔を見るような恐怖の目だった。
名前のない彼女だった。
死神であっても彼女は女性。それなのに男相手に軽々と片手で、男を壁に押しやった。俺は、彼女の真の姿を見た気がする。
「お前は誰だ!離せ!」
「人を殺して満足したのか」
彼女の目は闇そのもの。さっき入った情報で、人質にとられていた親子は、銀行内で遺体で発見された。犯人は逃げる際に、顔を見られた人質を殺していたのだ。
「苦しい…」
男は、今にも窒息して死にそうだ。そんな状況でも、決して彼女は容赦しなかった。そればかりか、恐怖で怯える男に、彼女は不適な笑みを浮かべた。
「簡単に死なせられない。苦しみながら死ぬべきね」
彼女は、男の額に手を添えた。すると、
「何だこの声は、やめろ。やめてくれ、静かにしろ!!」
男は叫び始めた。
「あんたには、この死に方が見合っている」
男の手に触れると、前の高校生のような綺麗な光ではなく、黒い塵が男を連れて行き、もがき苦しみながら消えてしまった。
彼女は立ち上がり、無表情で去ろうとする。
「あいつ、死んだのか?」
彼女に話し掛けた。振り向いた顔は俺の知っている顔ではなかった。死神と言われても今は納得できる、そんな顔だ。俺を見るや、ものすごく驚いた顔で、
「なぜ、ここに?」
「なぜって、あの男を捜していたから」
「…」
俯いた彼女は、眉をつり上げ、どこか一点を見つめた。
「あいつ、死んだの?」
「死んだ」
「君が殺したの?」
「死に方を変えただけ。私がいなくても、あの男は死んでた」
「あいつに何をした?」
彼女は黒いコートに手を入れて、一歩ずつ近づいてきた。
「あの男、警察から逃げる途中で、車に轢かれて死ぬの」
「え、」
「罪のない人を殺して、車に轢かれて死ぬなんて簡単すぎない?」
彼女は笑っていたけど、やはり目の奥に大きな闇が見えた。
「だから私は、恐怖を植え付けた。あの男に、無残な死を遂げた人間の声を与えた。あの世に行っても、彼に安らぎは訪れない。一生自分の罪と向き合っていくの」
「じゃあ、俺が追いかけてきた男は」
「あんたは男の魂を追いかけてきた。男の体は、別の場所にある。どこかで車に轢かれて遺体になっているわ」
追っていたのは、男の本当の体ではなかった。生死をさまよう魂だったのだ。
「なぜあなたに魂が見えているのか。それに私の姿も見えているのか分からない」
「君が見えることが問題なのか」
「今見えていることが問題。仕事をしている時、私の姿は人間から見えないようになっているの。ここはこの世とあの世の狭間だから。」
「じゃあ、他の人間には見えない?」
「そう」
「じゃあ、前見えていたのも…」
「前?」
「この前、高校生をあの世に導いてたろ?」
「それも見てたってこと?」
「ああ、見えたよ」
「…」
彼女の眉がピクリと動いた。動揺しているのだろうか。黙り込んで、何かを考えるように首をかしげた。
「そう、私は仕事が残っているから」
また消えてしまう。
「待って」
瞬きをしたほんの一瞬、目の前にいた彼女が消えた。次に会えるのはいつだろうか。もっと彼女を知りたい。彼女の抱えているものを知りたい。これまで何人もの哀れな人間を見てきた。しかし、彼女は誰よりも哀れに見える。
「テヒョンさん!」
名前を呼ばれて、はっと我に返る。振り返ると、ルイが走ってきていた。
「さっきテヒョンさんから連絡入って…犯人がいるって。でも、10キロ先の交差点で車に轢かれて即死だったそうです。誰と間違えたんですか?」
彼女が言っていた通りだ。犯人は車に轢かれて死んでいたようだ。
「人違いだった。すまない」
「まあいいですけど…聞きました?人質の親子、遺体で見つかったって。残酷ですよ、罪のない人を殺して自分は即死なんて。罰を受けずに、死ぬなんて」
「大丈夫、あの男は地獄で苦しんでるさ」
ルイは、少し返事に困ったように俺を見たていた。
少し前に見た君は、高校生を優しくあの世に導いていた。
今日の君は、『死神』そのものだった。男を苦しめているときのあの笑みは、見ている俺でさえも、ぞっとするような光景だ。
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