【挿話】 後を継ぐ者
ちょっと長め(前半は177話の後くらい。後半は207話の後)
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奇妙丸改め勘九郎信忠は、父・信長に「出木杉君」と呼ばれることがある。
言葉の響きの通り何でも「出来すぎる」からだが、信長の弟たちからは「凡才」という認識だった。比較対象が彼らの
幼い頃は、父のことを褒められているのだと嬉しかった。
成長すれば、いつか父のようになれると信じて疑わなかった。皆が評価する父の能力は、自分にも受け継がれている。生母であり正室でもある帰蝶は、政務を影ながら支える才女だ。多くの者に慕われ、非凡な二人の血を引く子が凡庸であるはずがない。
とにかく子に甘い信長と違って、帰蝶や信包たちは厳しかった。
武家と公家にそれぞれ伝わる礼儀作法、仏教は臨済宗と真宗を中心に学び、雑学を含めた様々な知識をとにかく詰め込まれた。それでも勉強が嫌いにならなかったのは、学ぶこと自体は楽しかったからだ。同じものを共に学ぶ、同年代の子供たちがいたことも大きい。
茶筅丸や三七が生まれても、奇妙丸が嫡男であることに変わりはない。
そういう意味では特別扱いされたが、学びの場では平等だった。
奇妙丸は大抵のことなら何でもできた。しかし他の子らは抜きん出た才があった。織田塾では、そういった子たちを振り分ける『暮らす分け』という時期がある。信長に和製英語なるものを学んでいる奇妙丸は「暮らす」ではなく「クラス」だと知っていた。
日中を過ごす部屋を分けることなので、まあ間違ってはいない。
苦手なことを克服するよりも、得意なことを伸ばす方がいい。奇妙丸以外の子供たちはそうやってクラス分けされ、それぞれの部署に採用される形で織田塾を卒業していった。大体なんでもできる奇妙丸のような子は、一人もいなかった。
信長の子だから、嫡男だからと皆は言う。
そうして幼い頃から特別扱いされてきた奇妙丸だったが、次第に違和感をおぼえるようになっていた。なんでもできるということは、抜きん出た才がないということだ。織田家嫡男として、次代を担うと決まっている。振り分けられるまでもなく、奇妙丸の未来は決まっている。
織田家を継いで当主となり、三十手前で死ぬ。
違和感に焦燥が加わったのは、蒲生鶴千代と出会ってからだ。
奇妙丸の妹・お冬と出会って一目惚れしたらしい。しかも見目好いことは二の次で、小さな信長のようだから気に入ったというのだ。信長の跡を継ぐ嫡男は奇妙丸だというのに、彼はお冬のことを楽しそうに褒める。
父・信長も鶴千代を高く評価していた。
将来的に「メジャーな戦国武将」となるらしい。なるほど、蒲生家は六角氏には勿体ないほどの才知に溢れた一族だ。その血を引く鶴千代も、相当出来るのだろう。お冬を通じて知り合った鶴千代は、だいたい何でもできる。
奇妙丸と同じだが、同じではない。
鶴千代は好奇心旺盛で、学ぶことに貪欲であり、誰に対しても物怖じしない。すごく偉そうなのに、不思議と腹が立たない。だが、この子供にだけは負けたくないと思った。
お冬の婿になれば、信長にとっても義理の息子。
婿養子が家督を継ぐ話は珍しくない。茶筅丸や三七もそうだ。何でもできるがゆえに秀でたところがなく「凡才」である奇妙丸よりも、鶴千代が次代として期待されるようになるかもしれない。奇妙丸は名ばかりの当主として、鶴千代に補佐される傀儡。
有能な家臣が主君を操る傀儡政権も珍しくない話だ。
お冬は人心を掴むのが得意なので、彼女の婿として上手くやればいい。
強い不安にかられた奇妙丸は、叔父の一人である信治に相談したことがある。彼も人心掌握に長けた人物であり、織田兄弟の
それぞれに城を与えられているのに城代任せで、とにかく不在が多いのだ。
ノブナガ語でいうなら信治はインドア派だった。目の下にうっすらとクマをつくっていたものの、奇妙丸の急な訪れにも笑顔で迎えてくれた。
「おやおや。随分とひどい顔だね、奇妙丸」
悩みすぎて寝不足になっている自覚はあったが、信治に心配されるほどだったらしい。
久しぶりに優しい言葉をもらった気がして、奇妙丸の目が潤んだ。
「僕、廃嫡されるかもしれない」
「廃嫡の話が出ているの?」
「ないけど」
「兄上は家督相続で辛い目に遭ったこともあって、奇妙丸以外に家督を継がせる気はないって常日頃から明言しているから大丈夫だよ。余程のことがない限り、奇妙丸が嫡男から外されないと思う。安心していい」
「余程のことって?」
「うーん、奇妙丸の兄弟や私たちを殺そうと計画するとか? ないな。計画した程度じゃあ概要を把握した上で許してしまう。他国に情報を売る……にしても今のところ、売られて困るような情報はないし。むしろ、どんどん流出させていいと他ならぬ兄上が考えているからなあ」
「情報漏洩は駄目だと思う」
「でも奇妙丸、思い出してみて。甲斐国へ遊びに行っても、すごく怒られたくらいで済んだでしょう? 結果的に武田との関係が悪化したけど、苦労して結んだ同盟がダメになっても廃嫡の話はされなかったよね」
数年の謹慎を言い渡されたので、廃嫡の噂だけは広まった。
だが信長がその話に全く取り合わないため、噂は自然消滅していったのだ。奇妙丸が気にしている鶴千代のことも、あくまで蒲生家の子供という扱いである。ちなみに、お冬の婿候補の話題は逆鱗扱いされている。
「叔父上! 甲斐国には遊びに行ったわけじゃなくて」
「兄上の真似をしてみたかったんだよね。許嫁の顔を見たかったんじゃなくて、徳栄軒殿に会ってみたかった。何度か直接話したそうだけど、どうだった?」
「ど、どうして知って……いえ、武田信玄は面白いお爺さんだと思いました」
甲斐の虎の異名をとり、信長には古狸と呼ばれている。
奇妙丸の祖父も「尾張の虎」と呼ばれていたのだ。虎の異名を持つ男ならば、修羅のごとき恐ろしい人物だろうと警戒していたら大して怖くなかった。本人はふつうに好々爺で、おっかないのは家臣の方だった。
甲斐信濃が思ったよりも貧しかったことも驚いた。
見過ごせなくてあれこれとお節介を焼いたが、奇妙丸は後悔していない。いくつもの金山を抱え、精強な騎馬隊がいて、軍神と呼ばれる男と何度も戦っている。戦は金食い虫だ。信長がそれはそれは苦い顔で繰り返していたから、奇妙丸は知っている。
戦好き、戦上手は国が豊かでないと無理だ。
しかし奇妙丸は知らない。彼の中では比較対象が尾張国なのだ。日ノ本中を探しても、今の尾張国以上に豊かな国はない。前世の記憶を参考にした技術を用いて農地開拓、灌漑事業に道路整備、治安維持にこれでもかと尽力してきた。
長い時間をかけただけあって、相応の効果が現れつつある。
岐阜城のある美濃国は昔、信長が激怒するほど貧しい国だったということを奇妙丸は知らない。各地で戦乱が相次ぎ、平穏の二文字は奇跡と同じくらいの価値があった。
「松姫もあんなに豊かな暮らしをしているのに、同じ年頃の子が今日食べるものもなくて木の枝を齧ってたんだ。肉も、魚も、知らないって」
それは奇妙丸の供としてついてきた子供たちが教えてくれた。
実際に見聞きしていなくても、彼らの表情で大体察した。それはきっと、信長が奇妙丸と同じくらいの年頃に見た光景だ。だから父は、民が飢えないことにすごくこだわる。
美味いものを食べたいという気持ちは当たり前じゃない。
すごく贅沢なことだ。でも身分なんか関係ない。誰でも美味しいものを食べて、美味しいと言っていいのだ。
「奇妙丸が面白い御爺さんだと感じた徳栄軒殿は、とてもいい領主だよ。彼のおかげで甲斐信濃の今がある。足りないのは塩くらいじゃないかな。だから織田との同盟関係が成り立ったんだと思うよ。兄上が個人的に興味があった、というのも大きい」
「そうなんだ」
おそらく前世の記憶の中に、武田信玄もいたのだ。
ある程度の性格、特性を知っていたから交渉の価値ありと考えた。織田家中では反対意見も少なくなかったと聞く。武田謙信と仲の悪い上杉謙信には、直接文句を言われたらしい。飛騨国との小競り合いも増えたというが、上杉の横やりかどうかは分からない。
「いいかい、奇妙丸。太郎義信を上手く使うんだよ」
「上手く使うって……」
「若くて才のある将は貴重なんだ。奇妙丸は一人でも味方がほしいんだよね」
「ほしいです」
「太郎義信……今は信直殿だっけ。彼を使えば、今川氏真も動かせる。そこから北条、上杉まで手を伸ばしてみようか。運が良ければ、武田を包囲できるかもしれない。越前はおそらく大丈夫だけど、若狭と能登が不透明なんだよね。ああ、越中と飛騨は軍神の機嫌次第でどうとでもなるから心配しなくてもいい」
「え、え?」
太郎義信は武田信玄の嫡男だった男だ。
武田家臣によって殺されるところだったので、奇妙丸が美濃国に連れてきた。もしかしなくても信長は太郎義信のことも知っていたのだろう。奇妙丸の冒険について全く驚くことなく、
だが彼が「織田信直」となった価値は、奇妙丸にも想像できなかった。
信治の言葉で、一気に世界が広がる。織田家の役に立ちたいと強く願う信直が、東側の情勢を一気に塗り替える。武田家を継げなかった彼が、信玄の代わりに甲斐信濃を治める未来まで見えてしまった。
四郎勝頼のことは知らない。松姫のことは可哀想だと思う。
でも甲斐信濃を織田領にできたら――。
「父上は、僕を認めてくれる……?」
「まだそんなことを言っているんだねえ。全く血は争えないというか、なんというか」
奇妙丸はムッとした。言い返そうとして、ふと気づいた。
「父上はお爺様に認められなかったんですか?」
「そんなことはないよ。父・信秀があれこれと仕事させたのは兄上だけだからね」
「ですよね。……父上は、昔からすごかったんだ」
「うん、でもね? 皆がすごいと褒めても、兄上はちっとも喜ばなかったよ。全然すごくない、凡庸でダメ人間だから人一倍頑張らないとって。そんな兄上だから、皆で支えようと思ったんだ。どんなにすごい人でも、なんでも一人で抱えたら潰れてしまうから」
信治は懐かしそうに言うが、奇妙丸は弟たちに支えてもらう未来が想像できなかった。
茶筅丸や三七が頼りないわけじゃない。彼らは城を与えられ、婿に入った家と領地を守る義務がある。奇妙丸の方こそ、彼らが動きやすくなるように守らねばならないと思う。
信長は口癖のように人材不足だとぼやくが、全くその通りだ。
とにかく有能な人材が足りない。
信治に言われるまでもなく、信直は奇妙丸の側近として働いてもらうつもりだ。叔父曰く「上手く使う」ことが、とんでもない可能性を秘めていたというだけで。
考え込む甥を見つめ、信治は微笑んだ。
「ああ、分かった。奇妙丸は凡才と呼ばれたことを気にしているんだね。最初にそう呼んだのは確か、三十郎兄上だったかな。一応、褒め言葉だったんだけど」
「そう聞こえませんでした」
「喜んでいたのに?」
「父上のことを褒められていたので」
「今すぐじゃなくていいから、ちゃんと思い出すように。三十郎兄上は滅多に身内を褒めないから、本当に珍しいことだったんだよ?」
「……はい」
なんでもできるは、褒め言葉だ。それくらいは奇妙丸にも分かる。
だって鶴千代は何でもできて、すごい。あんな風に堂々としていられたら気分がいいだろうなと思う。鶴千代に言わせると、奇妙丸はもっと自信を持つべきだそうだ。
今までは凡才であることを「戒め」としてきた。
共に学んだ皆のように抜きんでた才がなくても、奇妙丸は嫡男だ。秀でたところがないからこそ、出来る人間を一人でも多く集めなければならない。奇妙丸が生き延びるために。
「そうだ。せっかくだから、面白いことを教えてあげよう」
「何ですか?」
「兄上はね、奇妙丸の元服を二十歳にするつもりだったんだよ」
「なんでですか!?」
思わず叫んだ。
さすがに遅すぎる。やっぱり嫡男として認められないからか。二度の出奔はなんだかんだで許してくれたが、本音のところでは激怒していたのか。
青ざめる奇妙丸に、信治が笑って言う。
「ちなみに、奇妙丸が生まれて間もない頃の話だからね。茶筅も三七も生まれていないよ」
「まさか……」
「ん?」
「な、なんでもありません。十代のうちに元服できてよかったと思うことにします」
慌てて誤魔化したが、奇妙丸には思い当たる節があった。
信長には前世の記憶がある。元服とは、大人の仲間入りする儀式だ。いつだったか成人年齢がどうとか聞いたことがある。この時代はずっと早くて、まだ幼い子供を大人扱いするのはいかがなものかという愚痴だった。
今思えば、あれも奇妙丸に対する不満なんかではなかったのだ。
子供であれば、大人が守ってやれる。
「父上は、子供に甘すぎですね……」
「『我が子を愛さずに、何が親か』ってね。これも、兄上の言葉だよ。できれば、君に覚えておいてほしい。兄上が甘やかすから、義姉上が厳しくしなければならなかったんだけどね。でも君たちは愛されている。それだけは忘れないで」
「はい、叔父上」
奇妙丸は祖父母の顔を知らない。
二人の祖父は死に、父方の祖母は出家してから誰にも会わないそうだ。信長に慮ってか、話題にのぼることもない。母方の祖母もいないので、奇妙丸から問うこともなかった。
甲斐国に行って、初めて知ったことは多い。
夫婦と兄弟仲が良いこと、家族と会えない寂しさは「普通ではない」のだ。家族みんなで暮らせないことは身分や貧富の差に関係ない。
織田家の結束、固い絆は信長が努力した結果だ。
奇妙丸はそれを当たり前だと思ってきた。
世界はこんなにも広く、最も近しいと思ってきた父のことも知らない話がまだまだ出てくる。そして何よりも、奇妙丸自身が変わらなければならないということ。
閉ざされた未来をこじ開けるために、何をすべきか。
それはまだ、分からない。
「勘九郎殿?」
通称で呼ばれ、はっとした。
目の前に心配そうな男、明智十兵衛光秀がいる。今は二人で謁見の間を出てきたところだ。扇子を投げつけられた額が赤くなっていたが、特に金柑を連想させる頭でもない。
(やっぱり父上の感性はよくわからない)
元服の名を決めたのは信長だと、後で聞いた。
どうしても、通称を
尾張国にいた信治を呼び出し、楠正賢に殺させた。
信長の弟を、信長の息子が、信長の恩人に殺させたという噂だ。信忠にとって、信治は何でも相談できる兄のような存在だった。他の叔父たちがなかなか捕まらないというのもあるが、信治は聞き上手だった。
色々な人に会わせてくれたり、雑談っぽく機密情報を教えてくれたりした。
信忠の弟・具豊や信孝も、信包たちに色々教わっているらしい。それはきっと信長が隠居した後は、信忠の次代だと思っているからだ。信長の叔父である信光のように、信忠を支える気はないと言われているようで寂しくもあった。
事実、信治は信忠に全てを託して逝った。
信忠は知っている。楠正賢を信長に殺させるところまでが、信治の計画だった。獅子身中の虫を生かしておけばこういうことが起きると、身をもって証明した。それでも信長は、沢彦宗恩を排除しないだろう。そういう男だと、信忠は知っている。
だから信忠はうつけの子として、信長ができないことをやるのだ。
「すみません、明智殿。ちょっと寝不足で、ぼーっとしていました」
「ああ、そうでしたか。ご立派でしたよ」
信忠にとって初めての謁見だ。
緊張して眠れなかったのだと言えば、光秀は微笑んで頷いた。どこか笑顔に陰りがあるのは先程の「茶番劇」のせいだろう。当事者だけが知らされていなかったお粗末な三文芝居。
(よくも我らを虚仮にしてくれたものだ)
信長が子連れでくると分かっていて仕掛けた。
家族に甘いのは周知の事実。信忠たちの前では父親ぶって大人しくしていると思ったか。織田家に配慮した形でありながら、面倒事を押し付けてくれた将軍家に良い感情を抱くわけがないというのに。
あれも、信長が上洛したがらない理由の一つかもしれない。
「ありがとうございます、明智殿。父はなかなか褒めてくれないので」
「次代を担う者として厳しく育てようと思っておられるのでしょう。勘九郎殿は期待されているのですね」
「どうでしょうか。案外、忠三の方に期待しているのかもしれません。弟たちを差し置いて、
「ああ、蒲生家の忠三郎賦秀ですか。婿養子に迎えたと聞いておりましたが、蒲生家を継ぐおつもりのようですね」
「はい。色々ありましたが、今の蒲生家は織田の大事な家臣です」
信忠はにっこり笑って頷いた。
あれに織田姓など名乗らせるものか。お冬が選んだ男だから認めてやっているのだ。
そのお冬は誕生日プレゼントにロザリオを強請ったらしい。信長が持っていることはごく少数しか知らない。聖書と十字架を持っているのに伴天連じゃない者なんて、日ノ本中を探しても信長くらいなものだろう。
ともあれロザリオはお冬の所有となり、賦秀はキリスト教に興味津々だ。
妻と何でも共有したがる重い男である。父曰く、前世の記憶によれば伴天連大名として
お冬の後をついて回る賦秀も、どっしり構えて待てばいいものを。
「そういえばご存じですか? 蒲生家が織田家への臣従を決めたのは、我が妹・お冬が説得してくれたからなんですよ」
「神戸家が間に入ったと聞いています」
「ええ。お冬が蒲生家と義兄弟だと聞いて、一緒に来てほしいと頼んだそうです。小姓の姿をしてたので、最初は誰か分からなかったとぼやいていました」
「尾張守殿は変わったことがお好きなようで」
「そうですね。織田の女たちは皆、それぞれに役目を与えられて楽しそうに仕事をしています。お冬も羨ましかったのでしょう。もちろん後で、父にお仕置きされていました」
「可哀想に。子煩悩であると聞いていましたが、女子供まで働かねばならない環境がよいとは、とても思えません。尾張守殿は日頃、何をなさっておいでなのか」
「父ですか? 朝から晩まで政務に励んでおりますよ」
「政務、ですか」
光秀は怪訝そうだ。
大量の書簡や報告書が積み上げられた机で、ひたすら筆を動かしている信長の姿が想像できないらしい。信忠も実際に目の当たりにして、その異常さに気付いたくらいだ。そして国主や領主といった身分の者は毎日、大量の書き仕事で拘束されない。繁忙期の勘定方で目にも留まらぬ早さで算盤を弾かない。
何年か前から、算盤術も織田塾で教えるようになった。講師はお冬だ。
「最近は私に一部を任せていただけるようになりましたが、それでも相当な量がありますから。だからお冬が城を抜け出したことに気付かなかったのです。お冬は城の者に人気ですから、皆で庇ったのでしょう。今の本拠地は岐阜城ですが、毎日ひっきりなしに人が出入りするので見張りや監視も増やしているんです。明智殿も一度おいでになったと聞いていますが、あの頃よりも騒がしくなったと感じるんじゃないでしょうか」
「……私は尾張守殿、いえ。信長様に嫌われておりますから」
「明智殿……」
そっちが嫌っているんじゃないかと思った信忠だが、ここは空気を読んだ。
将軍義昭が「師父」と慕う信長に無礼なことばかり繰り返すので、罰として織田家に従えという無茶苦茶な命令が下された。しかし実際のところは有能な文官である明智光秀を、織田家で学ばせたいということか。
信長によれば、将軍義昭を最後に足利幕府は倒れる。
その最期に、織田家が巻き込まれる。明智光秀の臣従はその前振りにしか思えなかった。謁見したのが信長一人であれば、にべもなく突っぱねただろう。
将来的に謀反人として本能寺を焼いて、信長と信忠を殺す男だ。
早めに始末したいが、今はまだ時期が悪い。
「あっ、いいことを考えました! お互いを知ることから始めてみてはいかがでしょう」
「お互いを、知る?」
「実は……父上の朝が早すぎて、城の者が困っているんです。古くから仕えている者は慣れてしまっていますし、側近や家老衆は主君に『仕事をするな』と言えません」
「わ、私に、仕事をするなと、言え……と?」
「はい」
にこにこ笑顔で信忠は頷いた。
予想だにしなかったことを言われ、困惑する光秀を冷静に観察する。どちらに転んでもかまわない。獅子身中の虫はいらない。
九郎の名を継ぐ者として、しっかりと見定めてやる。
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