202. 其れは零れ落ちる砂の如く
※妊婦に関わる酷い話があります。嫌な予感がした方は飛ばしてください
********************
田植えが始まる季節に甲斐国より訃報が届いた。
信玄の死を聞いた謙信は、しばらく呆然としていたそうだ。
なんだかんだ言って生涯の宿敵と認めていた相手だから、受けた衝撃はそれなりに大きかったのだと思う。どこぞの名軍師みたいに三年は伏せる策でも出してくるかと思いきや、あっさり公表する素直さに拍子抜けもした。
隠してもいずれ分かることだ。
ただの開き直りか、策を弄する頭もないのか。
どちらにせよ、新しく武田家を継いだ四郎勝頼は喪に服している。武田軍は完全に撤退し、家臣たちは今後の身の振り方を考える時間が出来た。
「というわけで、安土城つくるぞー」
「いい加減、元服させてください」
「どーしよっかなあ」
「父上」
奇妙丸は今年で18歳。
さすがに幼名で呼ばれるのも恥ずかしいらしい。
こっそり「
ちなみに側近候補は皆、元服を済ませた。
いずれ犬千代Jrたちも順番が回ってくることを考えれば、年齢以上に織田家嫡男としての立場が揺らぐような気がするのかもしれない。鶴千代は初陣こそ果たしていないが、
ちなみに忠三郎の「忠」は弾正忠家の「忠」である。
お市やお五徳に倣って、雪解けを待たずに婚儀を執り行った。
蒲生家はすっかり織田家臣として馴染んだものの、可愛い娘が嫁に行く事実に変わりない。だからというか、それ以外の理由も当然あって信濃国まで行ってきたのに、帰った途端に婚儀催促である。賦秀がダメなら具盛に嫁ぐとか意味の分からない脅しに、俺は慌てて場を整えた。
三七の同母妹なのに、義母とかおかしいだろ。
もっとおかしいのは奇妙丸で、絶対許さんとか息巻いて賦秀へ決闘を申し込んで翌日には仲良くなっていた。しかもそれが婚儀当日で、女たちの冷たい視線を集めていたものだ。
「父上、考え事をしている場合ですか」
「そういう時もある」
「茶筅や三七のことも考えてください。養子縁組したとはいえ、二人とも婚儀を済ませていないんですよ。お冬は人妻になったのに」
「いや、お冬はうちの娘のままだし」
賦秀は蒲生家継いでいないから、お冬も織田家のままだ。
そういう俺の主張に、奇妙丸は何とも言い難い視線を向けてきた。てっきり同意してくれると思っていたのに、主張を曲げられた感じがして気に入らないのだろうか。側近候補や賦秀と、奇妙丸はそもそもの立場が違う。茶筅丸や三七と、嫡男である奇妙丸も同じじゃない。
子育ては平等に扱ってきたが、大人になったら変わる。
元服の儀を行うというのは、そういうことだ。
「そういえば叔母上は、三人目を身ごもったとか」
「また女かもな」
「父上の予感は当たるんですよね。叔母上としては、そろそろ嫡男がほしいところだと思いますが、万福丸は長子として認められているから微妙かなあ」
浅井家次女・初は、織田家臣になって初めて生まれた娘の意。
この際、ネーミングセンス云々は置いておく。
近江騒動が終わってから京極家の使い――と名乗っていたが長政姉本人――が来て、お市たちと一緒に万福丸も小谷城へ帰った。やけに長政がハイテンションだと思っていたが、愛娘が原因なら納得だ。浅井三姉妹は有名すぎるほど有名だし、美人になる未来は確定している。そして俺と同じ苦しみを味わえばいい。
「それで父上」
「ん~?」
「見舞いに行かないのですか」
「ああ、いや……まあ、うん」
息子の探るような視線から、さっと逃げる。
「らしくないですよ、父上」
「分かってる」
脳裏に浮かぶのは黄泉平坂の話だ。
毎日たくさんの人間が死ぬのは
毎日たくさんの人間が生まれるのは
沢彦の寿命が尽きるまでは絶対狂わないと誓っても、頭のどこか一部は壊れてしまったような気がする。それほどまでに信治の死は大きかった。汎秀の死を予感できなかったことも、少なからず影響している。
あるいは分かっていたから嫌な予感がしなかったのか。
ここ数年は、弔事と慶事が交互に来る。
めでたい話が続くと、何か恐ろしいことが起きるような気がしてならない。たった一人の側室である吉乃は三人目を身ごもっていた。どうしても子を生みたい帰蝶にあてられてか、寝所で待ち構えて搾り取られたのである。
嫁たちの中で最もテクニシャンな彼女は今、寝込んでいる。
臨月なのに、三度目の出産にして最も危うい状態だ。お五徳を生んだ後もしばらく寝たきり状態だったし、季節の変わり目には体調を崩すようになった。
子供は好きだ。何人いてもいいと思う。
だが嫁を犠牲にしてまで欲しくない。そういう考えは男のエゴで、女のエゴは真逆だった。俺を愛しているから、俺の血を引く子供を生みたいという。悪阻が酷すぎて堕胎を提案したら、半狂乱になって拒絶された。
俺は吉乃に生きてほしい。
爺さんと婆さんになって、縁側で茶ぁしばく夢がある。だから健康管理にも気を遣って、なるべく薬に頼らない方向で何とかやってきた。俺のせいで家康が健康マニアになってきた、とお五徳に文句を言われたくらいだ。
「どこへ行くんですか」
ふらりと歩き出した俺に、奇妙丸が鋭く問う。
「そんなの、決まってんだろ」
「父上はいつから、そんなに臆病な――」
「あなた!」
冷静な帰蝶が、血相を変えて部屋に来る。
反射的に逃げようとしたら奇妙丸に捕まった。
離せ、という声がかすれて出ない。かつては子供たち総出で止められたものだが、日々の鍛錬を欠かさない若武者一人で事足りる。ずるずると引きずられながら、顎を引いて口を結んだ。かっと見開いた目は落ち着かなく動き続け、かなり怖い形相になっていたかもしれない。
狂気に逃げる資格はない。
俺は魔王だ。涙なんぞ流さない。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
「姫様で、ございます」
ああ、辺り一面が真っ赤だ。
そこに死が横たわり、生まれたばかりの命が全力で主張している。不浄の間は立ち入り禁止だと追い出されるのに、誰もが俺の行く手を阻まない。安らかとは言い難い表情の、汗にまみれて痩せた女の顔を見下ろす。
『わたし、がんばりましたよ。褒めてくださいね!』
肌に残る黒髪を払えば、そんな声が聞こえた。
「ああ、本当に……よく頑張った」
柔らかな頬はまだ少しだけ、温かい。
こちらを伺う彼女の魂を感じながら二度、三度と頭を撫でた。
「ゆっくり休め、吉乃」
赤子の泣き声に偲び泣く声が加わる。
女が子を生む道具なんて、誰が言った? 役に立つから傍に置いていたわけじゃない。可哀想だから側室に迎えたわけじゃない。嫁にしたいと思ったから、織田家に迎えたんだ。
仕事がしたいというから、好きにさせた。
頑張ったら頑張った分だけ褒めた。
頭を撫でられるのが大好きで、照れ笑いする表情がたまらなく可愛かった。体が弱ってきて、寝ている日が増えても俺はかまわなかったんだ。吉乃が生きていてくれたら、それでよかった。
甘えて、甘えさせてくれるのが嬉しかった。
三番目でいいから、なんて謙遜するところが嫌いだった。奈江に閨の手ほどきをしたり、夜には全く違う顔を見せるのが好きだった。悩んでいるのなら、打ち明けてほしかった。
帝王切開の話なんかするべきじゃなかった。
どいつもこいつも一人で考えて、一人で決めちまう。
「あなた」
「……赤ん坊の名か」
「姫なら『藤』がいいと言っていました。ちょうど藤の季節だから」
「お藤。いい名だ」
俺が呟けば、泣きわめいていた赤ん坊がきょとんとした。
乳母の腕の中から、こっちを見ている。
見えているのかいないのか、ぱたぱたと振る手に触れたら強く握ってきた。にぱっと笑う赤ん坊は、母の死など分からない。ぎゃんぎゃん泣きわめく赤ん坊ばかり見てきたが、こんな風にニコニコするのは初めてだ。お冬もよく笑う娘だが、ぼーっとしている方が多い。
「お藤」
今抱きしめたら潰すかもしれないな。
うちの娘はやっぱり天使だ。こんな可愛い生き物、見たことがない。
血の臭いでむせかえる部屋の中、きゃらきゃらと笑い続ける赤ん坊。頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細める。ああ、吉乃。お前なんだな。
自分で腹を割くほど、待ちきれなかったか。
「しょうのない奴め」
吉乃の葬儀は、ひっそりと行われた。
どこか現実味を感じなかったのは、お藤の存在が大きい。そこに吉乃がいるのだから、俺は泣く必要なんかないのだ。俺は一度死んで、遠い過去へ跳んできた。生まれ変わりなのか、憑依なのかはどうでもいい。
お藤は吉乃で、吉乃はお藤だ。
かわいい、かわいい俺の娘。この命続く限り、共に暮らそうな?
********************
言い訳じみた蛇足(本文修正時に追記した場合、ここの記述は消します)
死期を悟った吉乃は、自力出産できない場合に腹を割く(帝王切開)の話を思い出して、自分でやりました。死因は出血多量による心肺停止です。信治の死で憔悴したノブナガを何とか元気づけたいと思い詰めた果てに、己の命と引き換えに子を産む決断へと繋がりました。
そのため、お藤の頭部には刀傷の痕があります(女の子なのに)
一歩間違えば、赤ん坊も死んでいたかもしれない暴挙です。時代が時代だけにもっと残酷な話もあったと思いますが、この件に関してのコメントは一切受け付けません。勝手ですみません。
ノブナガが吉乃に搾られる話は、吉乃に慰めてもらう予定だった時期にあたります。
帰蝶:奇妙丸(長男)、四女
奈江:茶筅丸(次男)、お五徳(長女)、お藤(三女)
吉乃:三七(三男)、お冬(次女)、於次丸(四男)
嫁は増えませんが、状況に応じて養子縁組する可能性はあります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます